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あめふり傘  作者: δ
2/4

竹田

「明津怜奈、ストップ!」


 俊一がその背中に追い付いたときには、彼女はもう自宅の扉に手をかけていた。

 突然呼びかけられて驚いた様子で振り返る。そして俊一の姿を認めると動揺が、次に俊一の手にある傘を見ると困惑が明津怜奈の表情に浮かんだ。


「ん!」


 ずんずんと明津怜奈の側まで進んで行き、藍色の傘を鼻先に突き出す。


「これ、お前のだろ?」

「どう、して……」


 彼女が狼狽えるのも当然だ。昨日コンビニでなくなった傘が、どうして俊一の手に握られているのか。

 彼女が何か察する前に俊一は慌ててまくし立てた。


「さ、さっきのコンビニに置いてあったんだよ。あそこにはこの傘しか置いてなかったから、だ、誰のだろーなー、って気になって……。ほ、ほら、この“A. R.”ってお前のイニシャルだろ?」

「そうだけど、でも……」

「なっ、なんだよ!せっかく持ってきてやったのにその態度! じゃあいいよ。お前のじゃないなら俺が貰ってく。」

「違っ……それ私のっ!」


 やむを得ず俊一が強気な態度に出た途端、明津怜奈は必死に叫んで傘を引ったくった。目にも留まらぬ早さで俊一の手元から傘が離れ、明津怜奈はそれを大事そうに抱えている。

 その目は俊一のことを警戒していた。


 思い返せば先の発言、俊一が傘泥棒であることを差し引いても不親切が過ぎる。これで俊一の株は明津市場で大暴落だ。

 涙を呑んで、俊一は次の言葉を探し始めた。


「えっと、その……」

「?」


 しかし、いざ言葉にしようとすると何も出てこない。

 「今朝のあれは誤解だからな」と言ってしまえばよいのだろうが、そうするとクラス内での竹田のポジションについても説明せねばならなくなる。転校初日の子に竹田を取り巻くクラスの環境を教えてやるのは少し気が引けた。

 いや、いずれにせよ近いうちに彼女も知ることになるのは分かっている。分かっているのだけれど────


「お前、どこから来たんだっけ?」


 結局、俊一の口から出てきたのはてんで見当違いな台詞だった。


「……宮城県。」


 表情を変えることなく、明津怜奈は答える。

 無論、そう答えられることは俊一にも分かっていた。だがその先、彼女の返答に対する適当な感想など、何一つ用意していない。


「あ、そう……ええっと、宮城県っていうとさあ……」

「……。」


 なんと言えばいいのだろう?

 震災、大変だったね……ダメだ。何も痛い思いをしてない奴が「大変だったね」なんて、言えるはずがない。じゃあ、避難、お疲れさま……? これはあり得ない。

 ご家族は元気?────一瞬だけ「これだ!」と思ったのだが、しかしこれも難しい。明津怜奈のお父さんやお母さんや、誰か親しい人が死んでいたとしたら、この素朴な問いは凶器でしかない。


 口ごもること、数秒。


「……。」


 傘を抱えた明津怜奈を前にして、俊一は未だに会話を切り出せないでいる。

 こんなところを他のクラスメートに見られたらどうなるだろう。その場ではやし立てられるかも知れないし、翌日からは下世話な“口撃”が開始されるのは確実だ。

 相合い傘など未だかつて見たこともないのに、朝の教室で黒板に書かれたそれを取り囲むクラスメート達の姿が脳裏に鮮明に浮かび上がった。


「ねえ。」


 と、明津怜奈が唐突に呼びかけてきた。


「なな、何?」

「今日、私が座ってた席の人……竹田君、だっけ?」


 俯きがちに、傘の小間を弄びながらその名を言う。


 ああ、自分から言いますか。

 俊一は半ば緊張、半ば安堵の面持ちで明津怜奈の言葉を待った。彼女が竹田の名前を持ち出すということは、あの紙切れが自分宛の物ではないと承知していることを意味する。

 あの涙は転校生イジメの被害者としての悲しみではなかったのだな。と、その点では安心した。


「竹田君ってさ、その……嫌われてるの?」

「うん。」


 明津怜奈はとても慎重に言葉を選んだ。ストレートに「イジメられてる」ではなく「嫌われている」と言ったのも、この場にいない竹田のことを彼女なりに慮ってのことなのだろう。


 それに対する俊一の返答が「うん」である。しかも即答。あまりに予想外すぎたのか、明津怜奈は絶句した。


「あー、えっと、嫌われてるっつってもそこまでヒドくはないよ? ふつうに話すやつも結構いるし……あいつを受け入れられるやつもいれば、受け入れられないやつもいる、って感じ?」

「どういうこと?」

「まあ……何つーの? 個性が強すぎるっていうか?」


 はっきりしない答え方に明津怜奈は首を傾げるが、次第にその眉尻が悲しそうに落ち込む。


「でも……竹田君のことが嫌いっていう人も、何人かいるんだよね。」

「ま、まあ。でもさ、人間誰しも他の誰かに嫌われるものだし……」


 この台詞は竹田の受け売りである。


「嫌われるって、机の中にあんなの入れられるくらい? 誰でも皆あんなことされるの?」

「そ、それは……」


 至極尤もな反論で切り捨てられる。

 竹田ならなんと答えただろう。


「でもさ、皆が皆、あいつのこと嫌ってるわけじゃないし、それにあいつだってそんなに気にしてるわけじゃないし……」

「……間違ってる。」

「え?」

「そんなの、間違ってる。」


 ぎゅうっと傘の柄を握る彼女の目は、俊一の足元を見つめて動かない。

 イジメられてる竹田のことは心配だけど、それをクラスの中で言うのは怖い。かといって前原先生に相談するのも勇気がいる。今日の朝、悪口を書かれたあの紙を見てからずっと彼女は竹田の心を案じて一日を過ごしてきたのだ。

 そして学校からの帰り道、家に入る直前で俊一に呼び止められた。今なら他にクラスメートはいないし、見たところ俊一は竹田に理解を示している。この人になら相談できる、と意を決して竹田の話を持ち出したのだろう。


 今の様子を見る限り、彼女は竹田との面識がない。

 そんな見ず知らずの赤の他人の不幸を嘆くことが出来るだなんて、明津怜奈はとてもいい子だ。

 先ほど乱暴な発言で株価を下落させたことを、俊一はどこまでも怨めしく思うのだった。


「あんな、ヒドいこと書かれて平気な人なんているわけないんだよ? 気にしてない、なんて、絶対無理してるに決まってるよ! 竹田君、今日学校休んでたんだよね。先生は風邪だって言ってたけど、もしかしたら……」

「?」

「……もしかしたら、学校、行きたくなくなっちゃったのかも……。」

「ぶっ!?」


 それはそうだ。常識的に考えれば明津怜奈の意見が正しいに決まってる。そこに異論を挟むなんて以ての外だ。

 しかし俊一は吹き出すのを堪えきれなかった。


「いやいやいや、あの竹田が、登校拒否!? ないないないない!」

「え……」

「あいつが登校拒否するような世の中なら、俺たち皆ビルの屋上から飛び降りてるって!」

「そんな……なんてこと……っ!」


 気の向くまま、俊一が言いたい放題好き放題していると、徐々に明津怜奈の目が険しくなっていった。

 本気で竹田のことを心配しているというのに、その相談相手が笑いながら「大丈夫大丈夫」なんて言っていたら誰だって怒り出すだろう。


 俊一もすぐさま自分の失態に気付き、明津怜奈に引っ叩かれまいとして機先を制した。


「ご、ごめん! バカにしてるとか、そんなんじゃない!」

「……っ。」

「分かった、こうしよう! これから二人で竹田に会いに行こう!」

「…………え?」


 両手で相手を宥める俊一の提案に、明津怜奈は眉を顰めた。

 竹田の心境を笑って軽んじていたかと思えば、突然本人に会いに行こうと言い出すのだから。彼女の理解が追いつかないのも当然だ。


 苦し紛れに出した俊一の提案だが、考えてみれば明津怜奈の認識を改めさせるにはこれが最も手っ取り早い方法なのだ。俊一は自分の問題解決能力の高さに舌を巻いた。


「竹田君の家って、どこ?」


 一、二秒ほど固まった後、明津怜奈はわりかし乗り気な様子で聞いてきた。

 ああ、と俊一は納得し、頭を掻く。


「やっぱしお前、竹田とは会ったこと無いんだな。」

「?」

「ほら、そこだよ。」


 ひょい、と右手を斜め前に向ける。


「……お隣?」

「そ。お前んちのお隣さん。」

「知らなかった……。」


 心底驚いた表情で隣の家を見やる。

 これに関しては俊一も意外だった。走り去る明津怜奈を追いかけてたどり着いた先が、まさか竹田の家の隣だったなんて。


 そして明津怜奈はこのことを今初めて知ったという。ふつう引っ越しの直後って菓子折かなんか持って「隣に越してきました、明津です」って挨拶するもんじゃなかろうか。

 そのときに表札を見れば「お隣は竹田さんっていうんだな」と合点しそうなものだが?


「じゃあ。」


 そのことを俊一が聞こうとするより早く、明津怜奈は竹田の家の方に行ってしまった。自宅の玄関先から飛び降りて、軽い身のこなしで隣の敷地へととんでゆく。

 彼女の行動力に目を丸くしつつ、俊一は後に続く。彼が竹田の玄関先に着いた頃には、明津怜奈はインターホンを押していた。


 ピィーンポォーン─────


 いつも通りの、間の抜けたチャイムが響鳴する。


「…………。」


 二人ともしばらく待ったが、中からの反応はない。

 もう一度、チャイムを鳴らす。


 明津怜奈は傘を両手で抱え込んでもじもじしていたが、ついに耐えられなくなったのだろう。玄関扉に耳を当てて人の気配を探り、何も聞こえないのを確認すると不安げな顔を俊一に向けてきた。


「まあ、寝てるだけだろ。あいつのことだから。」


 体育履きの入った袋をぐるぐる回して遊んでいる俊一を一睨みし、明津怜奈は家の前の道路に出て行った。


「ちょっ、明津怜奈!?」


 敷石を一息に駆け抜けた明津怜奈は、公道のアスファルトの上に立つと急に振り返って背筋を伸ばした。


 すぅ、と彼女は息を吸い込み、肩が上がる。

 まさか、と俊一が慄いたときにはもう手遅れだった。




「たっ……竹田君!!」




 耳を塞いでいても聞こえるほど大きな声で彼女は叫んだ。

 電線に止まっていた雀が一斉に飛び去ってゆく。


「初めまして! 私、明津怜奈っていうの! 隣に引っ越してきました! よろしくねっ!!」


 カーテンの閉じられた二階の窓に向かって声を張り上げる。

 下校中の女子中学生が二人、明津怜奈の後ろを自転車で過ぎていったが、彼女は一切構わなかった。


「今日、竹田君お休みだったから! あいさつにきたの! 降りてきて! 竹田君!」


 俊一はどうすることも出来ず、口をあんぐり開けて彼女の様子を見守っているだけだった。

 もしも、だ。もしも竹田が登校拒否だったとして、外に出るのを怖がっているのだとしたら、明津怜奈の行動はむしろ逆効果なんじゃないだろうか。例えば嫌がる食べ物を無理に食べさせようとするとますます嫌いになるのと同じように、ああして無理に外に出そうとすると引き籠もりがもっと酷くなるような気がする。


 それでも俊一が彼女を止めなかったのは、竹田が登校を拒否などしていないことが分かっていたからだ。

 決して彼女の気迫に圧されたわけではない。


「────竹田君っ!!」


 目をぎゅっと閉じて、力の限りその名を呼んだ。


 すでに明津怜奈の息は上がっていた。はあ、はあ、と肩で呼吸をし、唾を飲み込んで体力の回復を待っている────元気を取り戻したらまた叫び出すつもりなのだろう。

















 が、

 明津怜奈が再び叫ぶ必要はなくなった。


 玄関先で突っ立ったままの俊一の背中から、ドドドドドッと何かが転がり落ちる音が轟いてくる。


(来た……!)


 確信し、同時に扉から飛び退く。


 内側から、バァン! と開かれた扉が俊一のランドセルを掠めたのはその直後だった。


「何だ何だ!? 火事か? 地震か? 雷か!?」


 息急き切ったフード姿の人物が、開いた扉の向こうから飛び出てきた。


「俺を呼ぶのは一体誰だ!?」


 焦げた緑のパーカーに身を包み、フードを目深に被っているその男こそが、俊一と明津怜奈が会いに来た「竹田」だった。

 フードの下から辛うじて覗く部分も、今は白いマスクで覆われている。そのマスクが大声と共にひとしきり上下運動した後で、竹田はようやく俊一が立っているのに気付いた。


「なんだお前か。何が起こった?」

「なんだじゃない。お前のことが心配で」

「む、見舞いに来てくれたのか。そいつはスマン。」

「まあ……心配してるのは僕じゃなくて、ほら、あいつ。」


 俊一は顎で明津怜奈を指し示す。


「あ……」


 当の明津怜奈も、まさか竹田がこんなけたたましい登場をするとは予想外だったのだろう。

 傘の柄を胸元に引き寄せて、反応に詰まった様子で佇んでいる。


「ああ。」

「あれ? 竹田はあいつのこと知ってんの?」

「当然だ。お隣だからな。明津さん、だったね?」


 道路で固まっている明津怜奈を、そんな所にいちゃ危ないから、と竹田は手で招き寄せる。

 自分が今どこにいるのか彼女は思いだしたようで、はっと我に返って竹田と俊一の元に駆け寄った。


「初めまして。明津……えーと、」

「あ……明津、怜奈です。」


 意外と元気そうな竹田を前にして狼狽えつつも、明津怜奈はペコリと丁寧に頭を下げる。


「どっから来たの?」

「あの……宮城県から来ました。」

「へえ。こんな辺鄙なとこに、わざわざどうして。」

「その、父が高校の先生をしてまして……父の知り合いがこの近くの高校に勤めていたものですから、それで……」

「いや、あの、別に敬語使わなくていいよ?」

「は、はい! すみません……」


 やっぱりこうなるんだろうな、とは俊一も予想していた。

 この竹田という男は他とはどこかが違うのだ。身の回りの事象を一歩引いて分析するところとか……それでいて、そんじょそこらの達観小僧とも違う。今朝の悪口ではないが、まさに「テツガクシャ」という言葉がよく似合う奴なのだ。

 本人の弁を借りれば「哲学は嫌いじゃないけど、哲学者は嫌いだよ」とのことらしいが。とにかくそんなことを平気で言うような男なのだ。初対面の明津怜奈が恐縮するのも無理はない。


 あまりに明津怜奈がペコペコしているもので、どうやら竹田にも恐縮がうつってしまったようだ。後頭部に手をやり、軽く謝りながら名を述べている。


「そ、そういえばこちらも名乗ってなかったね。俺……僕は竹田四郎です。よろしく。」

「え」

「ん? どした、俊ちゃん?」


 竹田が遅ればせながら自己紹介をすませると、俊一がちょっとした驚嘆の声を漏らした。

 何事か、と竹田が目を向けると俊一は決まり悪そうに手を振る。


「いや、さ。竹田の名前、『竹田四郎』っていうんだなあって」

「は?」

「皆して竹田、竹田って呼んでるから、お前の下の名前忘れちゃっててさ。」

「おいおい。」


 竹田四郎、と聞いて「随分当たり障りのない名前だな」と思ったことは伏せておく。そんなことを言えば竹田の戦意をヒートアップさせるだけだからだ。

 もちろん、俊一だって自分の名前に当たり障りがあるとは思っていない。それなりに普通の姓名であることはお互い様だが、それでもこの竹田に「四郎」ではあまりにも不吊り合いではないか。もっとこう、「竹田源五右衛門(げんごえもん)」とか「竹田権承たけだのごんじょう」だとかいった厳めしい名前が付いているのかと思っていた。


 それだけこいつは独特なのだ。


「あの、竹田君。」


 ペコペコし終えた明津怜奈が、遂に本題を切り出そうと顔を上げた。

 竹田は彼女の方を向く。

 しかし、当然だが奴は明津怜奈と目を合わせることが出来なかった。今もこいつはフードを被っているのだ。


「おっと、失礼した。初対面なのにまだろくに顔見せてなかったね。」


 明津怜奈の呼び掛けをどう解釈したのだろうか。

 竹田はおもむろにマスクを外し、パーカーのポケットの中に突っ込んだ。


「お前、マスク外して大丈夫なのかよ。」

「これは喉の乾燥を防ぐためにオカンが着用を命じたものだ。ちょっとくらい外したって、問題ないだろ。」


 あっけらかんと竹田はのたまう。

 まあ竹田の風邪はウイルス性ではないし、本人もかなり回復してるみたいだからこちらに風邪をうつされることも無いとは思うが。


 焦げた緑色のフードに竹田は手を掛ける。いかにも「竹田」な感じの色だ。

 フードの裏側が竹田の硬い髪を掻き上げてゆく。


 竹田の顔が完全に露わにされたとき、明津怜奈の瞳孔がほんの少し広がったような気がした。


「じゃあ、改めて。初めまして、明津怜奈さん。」


 フードを払ったのと反対側の手を差し伸べて、明津怜奈に握手を求める。

 明津怜奈は傘から手を離してそれに応えようとするも、うまく手と手が重ならない。

 彼女の瞳は竹田の顔に釘付けなのだから当たり前だ。


 ふらふらと宙をさまよう明津怜奈の手を竹田が握ってやると、彼女の頬が分かりやすく上気した。

 傍目にも、彼女が竹田の精悍な顔付きにときめいているのが見て取れた。






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