A. R.
昨日、傘を盗んだ。
別に傘そのものが欲しかったわけじゃない。
昨日、学校からの帰り道でにわか雨に出くわして、近くのコンビニに駆け込んだ。「にわか雨は通り雨」ってよく言うし、しばらく待ってれば止むだろう、なんて余裕に構えていたのだけど、いつまで経っても降り止まなかった。
だから、傘を盗んだ。
別に早く帰らなきゃならない用事があったわけじゃない。ただ、何も買わずに店の中をうろちょろしているのが、子供ゴコロにも居たたまれなくなっただけだ。
今、その傘は机の横に引っかけてある。
盗んだ傘を学校に持ってくるなんて普通ならあり得ないことだけど、家を出るときに適当に掴んだのがこれだったんだからしょうがない。今朝は特に急いではいなかったけど、傘を取り替えに玄関に戻るのは億劫だった。
「今日は竹田君はお休みですか? 風邪かしら……?」
5年2組の担任の前原先生が心配そうに声を漏らす。
竹田。
あいつは真面目な奴だ。僕よりも家が遠いくせして、あの土砂降りの中を一人で突っ走っていった。
コンビニの中で居心地が悪くなった所までは僕と同じだけど、あいつにとっては他人様の傘を盗むなんて論外だった。こちらが止めるのも聞かず、ランドセルを頭に乗せて去っていったのだ。
悪いのは今朝天気予報を見ずに家を出た自分自身なのだから、雨に濡れるのは自分であるべきだ。なんてこと、考えていたんだと思う。
「他に、体調の悪い人はいませんか?」
「は~い。先生、オレ吐きそっす。」
「なら保健室行って吐いてきなさい。」
ああいう、無駄なところで芯の強い奴が馬鹿を見るのが世の中だ。
木村俊一は左隣の机を一瞥し、頬杖をついた。
その机は竹田の席だから、当然今は空席だ。体育用の上履きの袋が横に掛かっていて、椅子は机の下に仕舞われている。
「……。」
あんまり言いたくないけど。
竹田はイジメられてる。
って言っても、何も漫画とかドラマに出てくるようなカレツなやりかたじゃない。一番幼稚なのを挙げれば、上履きを隠す。一番ヒドいのでも、悪口が書かれた紙を机の中に忍ばせる。まあ、その程度だ──言ってしまえば全部幼稚だ。イジメられてる、というよりはイジられてる、の方が正しいかも。
実際、あいつと普通に話す奴はクラスの中にも何人かいるし、そこまで深刻じゃないと思う。
そう言えば、傘を隠されていることも何度かあったな────俊一は静かにため息をついた。もしかしたら昨日の朝、竹田は傘を持ってきていたのかも知れない。そして学校で“行方不明”になり、こうして風邪を引く羽目になっているのだとしたら……災難でした、としか言いようがない。
「皆、元気ね? じゃあ皆さんお待ちかね、転校生タイムでーす!」
前原先生がおどけると、クラス中からどっと笑いが起こった。
個人的にはそれほど面白いとは思わなかったけど、周りが笑っているので申し訳程度に笑ってみせる。
それでも笑顔が引き攣るのはどうしようもなかった。
ホントはとてもじゃないけど笑ってられない気分だったのだ。
「じゃあ早速自己紹介といきましょうか。明津さん、大丈夫?」
「はい──初めまして、明津怜奈です。宮城県から来ました。んと……理科が得意です。よろしくお願いします。」
緊張しているのか、彼女──明津怜奈はやや早口に言い切った。
俊一達のクラスに転校生が来ることなどこれが初めてなので、こういう自己紹介の後はどんな反応をすればよいのか分からず、クラスメートは皆一様に前原先生がアクションを起こすのを待っていた。
そんな中で一人、俊一の心臓は早鐘を打っていた。
別に明津怜奈が可愛いからってコーフン……ときめいているわけじゃない。いやまああいつはそれなりに可愛くないこともないのは認めるが、そうじゃない。
彼女が教室に入ってきたときに前原先生が黒板に書いた「明津怜奈」の四文字。そして黒髪のポニーテールがよく似合う彼女の顔を見て、俊一の頭にビビッと来るものがあった。
いやそういう意味じゃない。
実は、昨日盗んだ傘には持ち主の名前らしきものが書き込まれていたのだ。
イニシャル、だったっけか。英語二文字で「A. R.」と、持ち手の所に油性マジックで記されていた。
「明津怜奈」──「アクツ レナ」──「A. R.」
もちろん、たったそれだけでこの傘の持ち主が明津怜奈であるとは言えないだろう。
イニシャルが「A. R.」である人は世の中にたくさんいるし、それにもしかしたら彼女のイニシャルは「A. R.」ではなく「A. L.」かもしれない。
“たったそれだけ”ではないから俊一も参っているのだ────明津怜奈がコンビニにいるのを、俊一は昨日見ていた。
見間違いなんかじゃない。この辺では見ない顔だったし、何よりそれなりに可愛いかったからよく覚えている。
いつまでも降り止まない雨に痺れを切らした俊一が帰ろうとした、その矢先にあいつがコンビニに入ってきた。それで俺が苦し紛れに掴んだのが、傘立てに立てられたばかりのあいつの傘だった、というわけ。
こんなことなら傘を取り替えておくべきだった、と今更後悔しても役には立たない。
「あっちゃー。やっちゃった……。」
机の横に掛けてある藍色の傘を目立たないように床に下ろしているとき、教卓から前原先生の嘆く声が聞こえてきた。
「明津さん、ごめん! 席用意するの忘れてた! とりあえず今日はそこの、お休みしてる竹田君の席に座ってもらおうかしら。」
「あ……はい。」
(まあ、そうなるんだろうな。)
今朝から竹田の席以外に空席は見られなかったから、想定内と言えば想定内だ。
できるだけ不審に思われないよう、何気ない仕草で傘を下ろし終えて、俊一は姿勢を正す。
竹田の席、とは即ち俊一の隣の席だ。すると今日一日、明津は俊一の隣に座ることになる。
傘泥棒たる俊一にとってこれは穏やかならざる事態だった。
明津怜奈が俊一の顔を覚えているかどうかは定かではない。俊一の近くに来ても雰囲気に何の変化も見られない辺り、覚えていない可能性の方が大きそうだ。
明津怜奈がリュックを床に下ろし、椅子に座る。
俊一が盗んだ傘は今、彼の右側の床に寝かせてある。椅子と、彼の足とで傘の大部分は明津怜奈の視界から隠されてはいる。
が、何かの拍子で俊一の足元が覗かれてしまえば即、傘泥棒が発覚するだろう。
俊一の左では、明津怜奈がリュックから筆箱を取り出して机の中に入れようとしている。
ここで筆箱から消しゴムが落ちて俊一の足元に転がってこようものなら最悪だ。
落ちた消しゴムを「はい」と拾ったのがきっかけで二人は仲良しに、なんてのはよくある────お話の中ではよくあることだが、今の俊一からすればそれだけは願い下げだった。消しゴムが落ちたときに明津怜奈の視線が足元の傘に行ってしまえば、「お近付き」以前の問題だ。
と、明津怜奈の動きがピクリと止まった。
「……?」
よもや何か落としたのか、と俊一は恐る恐る隣を見るが、どうやらそうではないらしい。
明津怜奈は机の中を見て固まっていた。
「……!」
それだけで全て察することが出来た。
明津怜奈が机の中に手を入れる。
すっ、と彼女が手を引くと、そこには何枚かの小さな紙が摘まれていた。
それを明津怜奈は机の下でこっそりと広げてみる。
『マジメか!』『優等生面すんなタコ!』『死ね』─────稚拙で、それでいて醜悪な文句が大きく書き殴られていた。
(やば……!)
どう考えても、あれは竹田に宛てられた悪口だ。
それが運悪く、転校生である明津怜奈の目に触れてしまった。彼女は何も知らないから、あれが自分に対する罵りだと捉えてしまうだろう。
何か言ってやるべきか? しかし俊一は行動を起こせなかった。彼の二つ左隣、つまり明津怜奈の左の席にいる藤堂美希も、顔を若干青くしてその紙を見つめている。
「……。」
しばらくの間、明津怜奈はその紙を眺めていた。
さりげなく俊一はその顔を見てみる。
するとどうだろう。今頃唇を噛みしめて涙を堪えているかと思いきや、今の彼女の表情には困惑以外の色が見あたらなかった。
先にも言ったとおり、その紙に書かれていることは全て竹田の悪口だ。当然その中には竹田本人以外には通用しない文言(『テツガクシャ気取んな!』など)もある。
明津怜奈は身に覚えのない悪口を目にして、単純に訳が分からなくなってしまったのだろう。
紙を見つけた途端に転校生イジメだと早合点せず、冷静に文を読み進める辺り、彼女はそれなりに賢いようだ。この調子なら、その紙がその席の元々の持ち主に宛てられた物であることにすぐ気付くだろう。
「明津さんも分からないこと、沢山あると思うから。皆、ちゃんと教えてあげてね。」
竹田の机の中身など露も知らず、前原先生がお約束の台詞を口にする。
俊一は安堵し、一時間目の国語の準備に取りかかった────明津怜奈の誤解が解けたら解けたでこのクラスの闇の部分を晒け出してしまったことになるのだから決して安堵できはしないが、転校生を初っ端から傷つけるのよりかはかなりマシだ。
竹田は明津怜奈からイジメられっ子認定されるだろうが、仕方ない。この際竹田には犠牲になってもらおう。
足元の傘で音を立てないよう注意しながら準備するのは少し骨が折れる。出来るだけ慎重に、それでいてあんまりのろのろしていると怪しまれるからスピーディーに、教科書とノートを鞄から取り出していると、結局いつもの二倍くらいの時間が掛かった。
「ふう……」
無駄に疲れて、俊一は密かに息を吐く。
そのとき、
ポタッ───────
滴が弾ける音。
左の席から聞こえてきた。
何だろう。今のは滴が何かにぶつかったときの音のはずだけど、なぜ今、そんな音が?
不思議に思って明津怜奈を見やる。
丁度そのときだった。彼女の目からキラリと光るものが落ちて、手元の紙に当たって弾けた。
ポタッ─────
泣いてる。
紙をくしゃくしゃに握り締めて、唇もくしゃくしゃに歪めて、嗚咽を堪えて涙をこぼしていた。
今度は俊一が困惑する番だった。つい先ほどまで彼女は何が何やら分からないみたいな顔をしていた。放っておけば誤解も解けるだろうと思っていたのに、一体何が起こったんだ?
前原先生は明津怜奈の様子に気付いていない。最前列で教科書を丸めて遊んでいる奴がいたので珍しく険しい口調で叱りつけている。転校生の前で敢えて厳しいところを見せつけようとしているのだろう。
当の転校生は、俊一が見ていることに気付いたのか慌てて涙を拭い去った。
そして真っ赤に泣きはらした目を前原先生に見られまいとして顔を伏せ、いそいそと国語の準備に取りかかる。
教科書を取り、ノートを手にしたところで明津怜奈は“紙”の処置に一瞬だけ悩んだようだ。机の中に戻しかけるが、そこで動きが止まる。
近くにゴミ箱があればそこに放り込んでいたところだろうが、生憎彼女らの席は教室の中央だ。
少しの間逡巡した挙げ句、彼女はその紙を乱暴にリュックの中に詰め込んだ。
彼女の手がリュックの中に消える直前、割合読みやすい字で紙に書かれた文句の一つを、俊一は見た。
『5年も昔の話持ち出してんじゃねぇぞ! このギ善者が!』
昨日と今朝とで雨を出し切ってしまったのか、今日の帰りは快晴だった。
水溜まりもすっかり乾き、歩くのに何の支障もない。
下校中、俊一はずっと一人だった。だが、別に寂しいとは思わなかった。
一人でいるのは嫌いじゃない。集団の中にいるのが耐えられないこともないけど、どちらかといえば一人でいる方が楽な分、性に合っている。
俊一は今、昨日のコンビニの駐車場を縦断していた。
盗んだ傘を片手でブンブン振り回しながら。学校ではあんなに苦労して傘を隠し回っていたのに、校舎を出てしばらく一人になったら、これだ。
明津怜奈に見られたら大変であることは重々承知している。が、かといって大人しくしていたとしても、傘を持っている限り見られたらまずいことには変わりない。
そんなわけで、俊一は気兼ねなく傘を振り回すことにしたのだ。ここでもし、見る見られないに関係なく他人様の物は大切に扱いなさいと言われれば、彼はぐうの音も出ないであろうが。
コンビニの風防を潜り、傘立ての前に立つ。
迷うことなく、俊一はそこに明津の傘をねじ込んだ。
(借りた物は元の場所に返しましょう、ってやつ。)
頭の中で自分に言い訳し、忠実にも昨日と全く同じ位置に傘を配置し終える。
昨日、明津の傘はここで無くなったんだから、また同じ場所に戻しとけばあいつが見つけて取っていくだろう────なんて、都合のよい理屈が俊一の脳内を支配していた。
当然だが、本音を言えば単に面と向かって返すのが気まずいだけだ。
今朝俊一はポケットに小銭入れを入れてきていたので、いくらか買い物をする余裕があった。
これといって買いたい物などないが、とりあえずコンビニの扉を引く。
漫画の新刊、出てたっけ。コンビニに入り、書籍コーナーのある右に進むと────明津怜奈がいた。
「あ」
俊一が固まる。
明津怜奈は書棚の前で、女性誌を立ち読みしていた。
手前に漫画を読んでいる中学生、奥におじさんが二人くらい屯している中間で、ポニーテールの女の子が大人向けの週刊誌を開いている。
俊一の発した間抜けな声で、明津怜奈もこちらを向いた。
「……!」
数瞬の沈黙。
そして、明津怜奈は女性誌を置いて逃げ去ってしまった。
「え? ちょ……」
俊一を脇に押し退け、早歩きで出口へと向かって行く。
一目散に外を目指す明津怜奈を引き留めることも出来ず、しばし俊一は呆然としてしまった。
(何読んでたんだ……?)
思い出したように、俊一は彼女が置いていった女性誌に目を向ける。
俊一は「女性誌」なる書物をまともに読んだことがない。ファッション誌はもちろんのこと、たった今明津怜奈が読んでいたような週刊誌も。
俊一が風邪を引いてクリニックに連れて行かれたときに、母親が待合室でそういう雑誌を読んでいるのは見たことがある。彼が週刊誌を読んだ記憶と言えば、そのときに横から母の眺めている記事を覗いてみたことくらいだ。
だが、そこには細かい文字がびっしり詰まっていただけで、すぐに読む気が失せた。そもそも“女性”誌なのだから男たる俊一が読んではいけない物なのだろう。と、彼は勝手に思い込んでいた。
読者が男でも女でも、その本が子供向けでないことは俊一にだって分かる。明津怜奈が置いていった表紙には「女優・井田瑠璃、四度目の離婚」と、まだ青春すら迎えていない俊一にとっては如何にも相応しくない見出しが載っていた。
明津怜奈はこういうのに興味があるのだろうか。だとすればませている。いや、言っちゃ悪いが小学五年生の割には老けている。
記事の中身を読もうか読むまいか迷っていると、その表紙に気になる見出しを見つけた。
『あれから五年──仮設住宅に住む五万人の声』
破局・熱愛報道や社会事件の見出しに両側から抑えられる形で、小さく収まっている。
いや、見出しの大きさで言えば決して小さい方ではない。だけど、何て言うんだろう。なんだか少しぞんざいに扱われている印象も受けた。
週刊誌の表紙は本当によくできている。見出し、小見出しを見れば記事の内容がおおよそ分かるからだ。
その仮設住宅の見出しの横には、小さな文字で「変わらぬ暮らし……復興資金はどこに消えた?」と書いてある。
どうせ記事の最初の方で申し訳程度に被災者の苦しい生活を取り沙汰して、後の大半では政府への罵詈雑言に徹しているんだろう。
俊一は確信した。間違いない。明津怜奈はこの記事を読んでたんだ……。
────宮城県から来ました
俊一だって、五年前のことは知っている。
あの日は丁度卒園式だった。式の内容なんてこれっぽっちも覚えてないけど、途中で足元が大きく揺れて怖い思いをしたのは、覚えている。
東北の被害の大きさをテレビで知ったのは、ずっと後のことだ。
今朝の明津怜奈の自己紹介で「宮城県」に反応したクラスメートは、俊一の知る限り一人もいなかった。
これがもし震災直後とか、一年後とかだったりしたらまた違ったのだろう。好奇の目を向ける奴や、震災の被害に遭ったわけでもないくせして明津怜奈に同情の目を向ける奴もいたかも知れない。
忘れられているのだ。良し悪しではなく、事実として。
どんな気持ちで、この記事を読んでたんだろう。
なんで、あいつは逃げたんだろう。
明津怜奈が出て行った扉を眺めて、俊一は立ち竦んでいた。
そして、走り出した。
やけに重たいガラス扉を押して、俊一は外に出た。
右を見る────明津怜奈の姿はない。慌てて左を向くと────いた。
もうだいぶ離れてしまっているが、交差点の向こうの歩道を走っている後ろ姿を俊一は認めた。彼女の肩で、ポニーテールが揺れている。
大急ぎで彼女の方に駆け出そうとしたとき────傘立ての角に膝をぶつけてしまった。
「いっ……てぇ!」
ズボン越しだが、金属製の角が俊一の膝小僧に突き刺さる。
涙目で屈み込んだ俊一の視界の端に、藍色の布が映り込んだ。
「……。」
それは明津怜奈の傘だった。
「ちっくしょ……!」
殆どやけくそでその傘を掴む。
そうこうしているうちに、明津怜奈の背中はずっと遠くに行ってしまっていた。このままだと見失う。
「自分の傘くらい持ってけよ!」
中々に理不尽な台詞を吐いて、俊一は彼女の後を追っていった。




