ファイル0 少女の見つめるもの、青年の見つめるもの
人を呪わば穴二つ……
青年が朝、目覚めると
それは常に目の前にあった。
しかし、今日は少し遠い。
普段はもっと眼前にあり、それは怖いくらいに狂気を帯びている。
青年は床に敷いた布団の上から、
ベッドの上の少女と目を合わせていた。
電気スタンドが淡い光を放っていたが、それはもう用をなしていなかった。
それが彼に時間の経過を教えていた。
少女の目は見開かれており、その周りの筋肉は終始小刻みに痙攣を繰り返している。
それを閉じたらもう、この世界のお終いだと言わんばかりである。
身体はそれを求めているのに、何かがそれを拒絶しているようだった。
その様子に青年はまさか……と顔を曇らせる。
昨夜も一緒にベッドに入った。
少女はいつもの様に、青年の胸に顔をうずめ耳を当て鼓動を感じていた。
だが、唯一つおかしな事があった。いつもより早く、少女は眠気に襲われたのだ。
まぁ最近の彼女を見れば、それは極々自然な事とも言えなくもなかった。
しかし、どうにも深い眠気だった。
少し落ちても大丈夫、帰ってこられるというレベルではなく。
彼女はいつもの様に彼に話をねだる。
でも、それは通常とは逆で寝ないようにする為の
いわば雪山で寝たら死ぬぞ、何か喋らなければという切迫したものだった。
だが、彼の反応はない。
先ほどベッドに入ったばかりだが、もう寝てしまったのだろうか?
彼女は、彼の心臓の鼓動に左の掌を当てたまま
上体をお越し騎乗すると
彼の顔を確認する。
寝息を立て、寝ているようだった。
最近の彼を見れば、起こすのは躊躇われた。
すると、少女は徐ろに彼の胸へ当てたままの左腕のパジャマの裾を右手の指で摘み。
そして、ある曲を口ずさみ始める。
少女の十八番。
しかし、それには普段の上手さの欠片も感じらない。
抑揚がなく淡々(たんたん)と歌われていく。
まるで感情を失ったかのように――
それに合わせるように徐々に徐々に掴んだ裾を上へあげると、落ちてくる前に左腕を掴んで……呻きながらも歌い続ける少女。
それは少女が歌うと、さながら呪い詩にも聞こえなくもない。
それを薄目で様子を伺っていた青年は、少女の様子のおかしさを見るに――
その体勢から無理に身体を起こそうとしながら
バカやろう! なにやってんだ! と手を延ばす。
上に乗ったままの少女は、当然体勢を崩し驚きとともに後ろに倒れる。
青年の股の間のベッドへ落下。
彼は上体を起こすと。
それでもまだ左腕へと伸び続ける右腕に呻く少女を視界に。
彼は少女の腕を掴むと、引き剥がし、
覆いかぶさるようにベッドに腕を張り付かせる。
見ると左腕には、真っ白な透き通るような肌のあちらこちらには
眠気に耐える為に、つねったのだろう。
赤く爛れ。
爪を食い込ませた反動なのか、蚊に食われた後のような腫れ。
中でもひどいのが肉を軽く裂くほどに抉り血を微かに滲ませているものまであった。
右利きゆえか、右腕は綺麗なもので。
見比べると尚一層、凄惨さを際立たせていた。
それに、この短時間だけではおかしいというような痕跡が……
どうやら少女の自傷行為は、これが始めてではないようだった。
青年は今まで何故気づかなかったのかと自分を責め、明日爪を切ってやろうと心に決めるのだった。
なおも拘束を振りほどこうと暴れる少女――
このままでは寝てしまうから離してと。
頭を左右に激しく振って、重そうな瞼と必死に闘う少女。
大丈夫だから、そばにいるから寝ろと説得する彼。
いやだと拒否する彼女。
どこにも行かないからと続ける彼。
しかし、それでも嘘だと信用しない彼女。
そんな嘘ついてもしょうがないだろ? と諭すと。
絶対? 彼の説得に少しばかりの譲渡。
絶対だ! 少女の言葉に断固肯定する青年。
それから数分の格闘のすえ、ようやく眠りに落とし込む。
次第に少女の抵抗は衰弱していくように弱まり、
瞳を静かに閉じると、左に首を折り、深い眠りへと落ちていく。
彼は自分のした事に激しく後悔し、酷い罪悪感に苦しむ。
もう、これしかなかったんだ……
彼も、もう限界だった。
青年はクローゼットから布団を引っ張り出し、敷くと。
そこに横になる。
少女の久々の安らかな寝顔に。
鼻の奥に違和感を感じると、電気スタンドの光がボヤケて煌き出し
肌を一線走る感覚に枕を濡らす。声もなく泣く。
彼女の前では、決して見せる事のない弱さだった。
そして夜、閉じたはずの瞼は朝には開かれていた。
それは自然な事であったが、
明らかに不自然な目元。
しかし起きてから7、8分たっても反応がないのを見るや青年は。
何かに納得したようだった。
青年は、今日はこのまま少女の顔を見つめたまま
学校を休もうと思う。
少女が起きて自分がいない事に気づいたら、どうなるかなんて想像もしたくなかった――
……どうしてこんな事になっちまったんだろうな……