四話
「何も無い……」
俺がそう呟いてしまうのも無理からぬことだと思う。なんたって探索を始めてから、かれこれ一時間以上が経過しているのだ。もう時間の無駄としか思えなくなってきた。まあ、部活唯一の清涼剤である紫苑さんが居てくれるからこそ、俺は何とかこの場に留まっていられる訳なのだが。
「ちょっと! みんな口にしない様にしている言葉を口走らないでよ!」
「す、すまん」
ボソッと零した俺の独り言を耳聡く聞き取った美沙は、すごい剣幕で俺に詰め寄ってきた。目が鋭く細められていてスゲー怖い。紙くらいなら切れてしまいそうだ。
「でもよ、気味悪いだけで何も無いじゃないか。いい加減諦めて帰ろうぜ」
「まだよ! だって何も見つけていないもん!」
確かに、美沙の言う通りまだ何も見つけていない。
だが、もう十階建てマンションの屋上まで行って、今は往復している最中なんだぞ。今見回っているこの部屋だってだいぶ前に調べたし。
「そろそろ帰らないと終電に乗り遅れちまうぞ。流石に歩いて帰るのは面倒だ」
「……うぅ」
反論する言葉が思い浮かばなかったのか、美沙は小さく呻きながら顔を俯かせた。こんな事になるのなら、もう少し早くに来ればよかったんだ。雰囲気を出す為だとか言う下らない理由で時間をギリギリまで遅らせるからこうなるんだ。バーカアーホ。
「まあまあ、あと二十分くらい探索したら帰りましょう? それなら終電にも間に合うし、もしかしたら面白いものも見つけられるかも知れないでしょ?」
「ううう、仕方ないわね……」
不承不承、といった様子と表情で頷く美沙。
この馬鹿女、俺の紫苑さんに何て態度で接してやがる。お前の靴箱の中に山盛りの画鋲を封入した後に木工用ボンド流し込んで開けられなくしてやろうか!
「……涼貴、顔が怖いよ」
俺の腹をつつきながら、横にいた或が控えめに指摘してくる。
いや、腹をつつくのは良いのだが、へそに指を入れないでくれ。そこは俺の数少ない性感帯の一つなのだ。まあ、分かっててやっているんだろうけど。
「ああ、すまん。ちょっと良からぬ事を考えていてな」
迂闊だったぜ、嫉妬に燃える男の表情を浮かべてしまっていたか。
「……良からぬ事って、もしかして淫靡なこと? エッチスケッチワンタッチ?」
「何でもかんでもソッチ方向に話を持ってこうとするな。どれだけ変態なんだよ、お前」
「……ありがとう」
「褒めてないからな。これっぽっちも」
はぁ、と俺は短くため息を漏らす。
このロリっ子と話をするのは真に疲れる。いくら性に興味のあるお年頃とは言っても、ここまでオープンに言われると流石の俺も照れてしまうのだ。
生理の日とかを逐一報告するのもやめてほしい。
無駄だろうけれど。
「ねえみんな、此処からは別行動にしない?」
俺が変態(もちろん或)の対処法について色々と考えていると、項垂れていた美沙が突然そんなことを言い出した。
「何で別行動? ちょっと危険じゃないのか?」
「仕方ないじゃない。時間も押しているし、何より別れたほうが効率良いし」
「言いたい事はわかるが……。でも女子を一人にする訳にはいかないだろ。暴漢にでも襲われたらどうするんだ」
チラリ、と紫苑さんを横目で見る。超カワイイ。
それはさておき、まあ美沙や或はぶっちゃけどうでもいい。
俺は紫苑さんだけが心配でならないのだ。
このマンション内に不審者が潜んでいないとも限らないし、紫苑さんは普通の人より抜けている所があるから余計に心配だ。
「あら、私なら大丈夫ですよ? これでも腕っ節には自信があるのですから。ほら見てください、この逞しい腕を!」
そういうと、紫苑さんは力瘤を作るポーズをとった。
ああ、その仕草スゲー可愛いです。
筋肉が全然付いて無いぷるぷるの上腕が、これまた可愛いです。
結婚しよう。
「うぐッ……な、なんだよ或、突然殴るなよ」
「……なんかムカついた」
低い位置からの正拳突きが俺の腹部にめり込んだ。威力は屁みたいなものなのだが、水月に拳を突き入れられれば流石に痛い。ていうか何で怒ってんだ? 意味わからん。
「さあ、紫苑もこう言っている事だし、さっさと別れて探索しましょう! 待ち合わせは十五分後の十二時ジャストにマンション正面口ね! それじゃあ散開!」
「いや、ちょっと待て……って行っちまった。場所割りはしなくていいのかよ」
一瞬で闇の向こう側へと走り去ってしまった美沙に呆れつつ、俺は愚痴を零した。
別れて探索するのなら、調べる場所が被らない様に予め分担するのが定石だろう。
一体何を考えて行動しているのだろうか、あの猪突猛進の脳筋女は。
「まあ、美沙は上階を先に調べてくるだろう。馬鹿と煙は高いところを好むし」
体力だけには自信がある美沙の事だ。階段を見かければ上へ上へと登っていくに違いない。そういう奴なのだ。
「さて、それじゃあ俺たちは下階を調べましょうか。別れる必要も無いと思いますよ」
ニッコリと笑顔を貼り付けて、紫苑さんに提案する。
邪魔者(美沙)は消えたことだし、これからは紫苑さんと二人で探検できる。これほど嬉しいことはない。(尚、或のことは眼中に無いのであしからず)
そんな俺の提案に耳を傾けた紫苑さんは、「う~ん」と腕を組んで考えるという可愛らしい仕草を披露した後に、気まずげな表情を浮かべて意見を述べ始めた。
「でも、それじゃあ美沙ちゃんの意向に逆らうことにならないかな? それだけは遠慮したいな~、なんて。だってほら、美沙ちゃんの言う事は何でも聞いてあげたいじゃない?」
上目遣い気味に、懇願するように言う紫苑さん。
これまた可愛い仕草なのだけれど、言っている内容が気に食わない。
だが、俺が紫苑さんの意見に逆らえるはずもなく……。
「……なら、別れましょうか」
「はい!」
元気よく返事をしてくれる紫苑さん。
分かってはいたけど、紫苑さんは美沙のことを溺愛している。もはや愛と言っても過言ではないくらいに、恋愛と言っても誇張ではないくらいに、美沙のことを好いている。
俺のことなんて全く眼中に無いんだからな……。
もしかして紫苑さん、百合なのかな?
かなり悲しいです。俺も女に生まれたかった。
「じゃあ私は美沙ちゃんが調べに行った方向を探索しますね! 或ちゃんと御鏡くんは反対側をお願いします。それじゃあ!」
言い切ると、紫苑さんは美沙と同じような走り方で闇の向こうへと消えてしまった。
ああ、行かないで……。
割とマジな願いを心の中だけで呟きながら、俺は涙を目の端に浮かべた。
「……涼貴。私が一緒にいてあげる」
「慰めないでくれ、余計に惨めだ」
色目ではなく、俺の心中を気遣った視線を向けてくる或。
お願いですから哀れまないでください。いっそセクハラされた方がまだマシです。
「はあ……。じゃあ俺たちは二人で行動しようか。どうせ紫苑さんは美沙と合流するだろうし」
「……是非そうしよう。私も涼貴と一緒なら元気百倍、エロさ千倍」
「エロは捨ててくれ、頼むから」
さて、エロっ子だかロリっ子だか分からないコイツは放っておいて、さっさと進むとしよう。
今俺たちが居るのは十階建てマンションの六階の通路だ。ここから下階だけを調べるのが俺たちの仕事となるのだろう。一旦通った道順だから何も見つからないと思うが、まあ仕方がない。つまらないが改めて調べに行くとしよう。
「じゃあ行くか」
「……うん、イこう」
「……」
或が袖を掴んできたので、仕方なく手を握ってやることにする。
なぜか頬を赤らめて俺を見つめてくる或を無視しつつ、俺は通路を歩き進んだ。
ああ、何で隣にいるのが紫苑さんじゃないのだろうか。
それだけが心残りだ。
階段を下り、各部屋を適当に見回ってから、また階段を下る。これを繰り返していくうちに、俺と或は一階にまでたどり着いてしまった。今はエントランスホールにて腰を落ち着けているところだ。
やはり廃墟だけあって各部屋にまだ生活感が残っていた。中には日本人形とかも床に転がっている部屋などもあって恐怖心を煽られたが、やはり幽霊や妖怪などといった『怪異』とやらに出会す事は一度もなかった。
残念と言っていいのか、良かったと安堵していいのか、よく分からない心境になりながらも、俺たちの廃墟探索は終了を迎えたのだ。
それほど広いマンションではなかったから、見回りも十分かからなかったと思う。
ケータイが無いから時刻を確かめる事も出来ないのだけれど。
「……涼貴、そろそろ十二時」
自分のケータイで現在時刻を確認した或が、俺にも時刻を教えてくれた。どうやら俺がケータイを持っていないことを察してくれているようだ。よく気が付く奴である。
「なら此処で待っているとするか。その内二人も出てくるだろう」
「……うん。……そうだ、もし暇なら青姦でもする?」
「しない」
「……する?」
「しないって言ってるだろうが!」
「…………ああ、そういう事。なら安心すると良い、ゴムは持っている」
何をどう勘違いしたのか、或はピンクの財布から徐に『小さな袋(自主規制)』を取り出すと、何の躊躇いなく俺に手渡してきた。それが一体なんなのか、どういう用途であるのかを、俺は知っている。
つーかなんで持ってる!?
「お、お前! 馬鹿か? 馬鹿なのか!?」
グシャリ、と手の内にあるコンドーム(自主規制解禁)を握りつぶす。
初めて触ったけど別に感慨深くはなかった。
というかこんな場面で触りたくなかった。俺の初体験を返せ。
「……バカじゃない。痴女」
「自分で言うな!」
「……さあヤろう、今すぐヤろう。ハァハァ……」
「は、鼻息が荒い! そしてにじり寄るな!」
手をワキワキさせながら近づいてくる或に心底恐怖を感じたが、低身長でしかも女の或に襲われたところで、男の俺ならば簡単に撃退できる訳で。
とりあえず額を小突いてやることにした。
「ってい」
「ッ……痛い。何で私の愛を拒むの? もしかして恥ずかしい?」
「ちげーよ。それにお前の場合は愛じゃなくて肉欲だろうが。性欲解消に巻き込むな」
「……愛情なのに」
「そんな愛情があってたまるか。いいか? そもそも愛ってのはな――」
間違った知識を覚えてしまっている或の為に、『愛』をテーマにした大長編ドラマ(俺編集)『とある少年の一途な愛』全三十話を朗読で感傷たっぷりに聞かせてやろうと、俺が口を開いた瞬間だった。
乾いた何かが割れた様な音が俺の耳を打った。
俺は反射神経に任せるままに、その音がした方向へと視線を向ける。
俺の視線よりわずかに上、
エントランスホールから外へと出るための入口上部に、大きな亀裂が入ったのが見えた。
見えてしまった。
ビシッ! という危険極まりない音が連鎖して大きくなっていく。
パラパラ、と崩れ始めたコンクリートの欠片が落下している音が聞こえる。
これはヤバイ。超ヤバイ。
つーか本気でヤベー!?
「逃げんぞ!!」
「……ッ」
気の抜けた表情をしている或を小脇に抱えて、マンションの中へと大慌てで駆け込む。
軽くて柔らかいなー、などという都条例に引っかかりそうな事を考えている余裕も、感触を楽しむ暇すらも現状は与えてはくれない。
何とか突き当りにまで避難した直後――
マンションの入口上部のコンクリートが勢いよく崩壊を始めた。
土煙が舞い上がり、視界を汚す。
崩落した瓦礫の欠片が此方へと飛来してくるが、危険視するほどの物量でもないので放っておくことにする。思ったよりは被害が大きくないようだ。
「おい、或。無事か?」
俺の脇にて宙ぶらりん状態の或に声をかける。
急いで抱えて逃げたから怪我とかはしていないはずなのだが、俺の問いに返事がない。
「おい、大丈夫か、或?」
心配になった俺はもう一度或に声をかける。すると、或は小さく身じろいでから俺に視線を向けた。妙に熱っぽい視線だった。
「……平気。それどころか元気モリモリ。もう濡れてしまいそうなくらい」
言いながら、或は自分のお腹を抱えている俺の手をスリスリと撫でてきた。
怖気が立った。
「気持ち悪!」
「ふげっ」
つい反射的に、或を床に落としてしまった。
だけど何故だろうか、これっぽっちも、まったくと言って良いほどに罪悪感が湧かない。
これが自業自得というやつか。それなら謝る必要もないだろう。
「……痛い。謝罪という名のディープキスを要求する」
強打したであろう顔面をさすりながら、或は調子の変わらないことを言う。
お前の脳内はピンク一色なのか。今目の前で建物が崩落したんだぞ。
少し危機感を持ったらどうなんだ。
「謝罪とキスには何の関係性もねーよ。ほら、顔こっち向けろよ」
「……え?」
或の両頬を挟み込んで強引にこっちを向かせる。
もし俺の過失で或に傷を作らせてしまったら、後で美沙にぶっ殺されかねない。
アイツは友達思いなのに、俺に対してだけやけに厳しいからな。俺のことを家畜程度にしか考えていないに違いない。
とりあえず、打ち付けたらしい顔面を見てみる。
ん~、鼻の頭が若干赤くなっているが、まあ傷というほどでもないだろう。
「これなら平気だ。ちょっと擦りむいているけど血は出てないし……ってどうした?」
改めて或の顔を見てみれば、なぜか頬を真っ赤に染めて瞼を閉じ、口をすぼめていた。
何のつもりだ? 変顔対決でもするつもりなのか?
この非常事態に何考えているんだ、この馬鹿者は。
「ほら、いつまで変顔してんだ。先に行くぞ」
ペシ、と或の頭を軽く叩き、変顔を止めるように促す。
或は瞼を開けると、キョトンとした表情を浮かべて俺の顔を見てきた。
何だその顔は。喧嘩売ってんのか。
「……キスは?」
「……は?」
キス? 寝ぼけてんのか?
「……このヘタレ、ニブチン。ロリコン」
「と、突然なんだよ」
滅多に聞かない或からの悪口に、つい面食らってしまった。
隠語ばかりを口走る奴だけれど、誰かを悪く言う様な事は今まで一度もなかったのに。
俺の言動で何か気に入らない所でもあったのだろうか? エロい要求に応じない以外で。
あと、俺はロリコンじゃない。人の性癖を自分の都合の言い様に捏造するな。
俺は年上好きだ。というか紫苑さんが大好きである。結婚して欲しい。
「……もういい。早く行こう」
「お、おう」
或は頬を膨らまして通路の先をサクサクと歩き始めたので、俺も慌ててその後を付いて行く。
なんで不貞腐れてるんだ?
疑問に首を傾げている俺の背後で、崩落した天井の瓦礫が崩れる音がした。
「結構崩れてるな……」
これは早々に退却したほうが良さそうだ。さっさと紫苑さんと美沙を拾ってこよう。
背後に向けていた視線を前に戻し、或の後ろ姿を捉える。
そして、俺は硬直した。
俺の先を歩いていた或のさらに前方、
俺たちの行方を立ち塞がるかのように佇む、巨大な人影が見えたからだ。
その人影は、近くで硬直している或と比較すれば、2メートル半を優に超えている事がわかる。
どう考えても、どう見ても、普通の人間ではない。
疑いようもなく、疑問を抱く余地すらもない。
あれは、正真正銘の――化物だ。