二話
「ねえ御鏡。今夜って予定あったりする?」
苦痛にも感じるほどに長かった終業式(五割以上が校長先生の長話)がようやく終わり、明日から始まる夏休みに思いを馳せながら学校の手広い玄関にて靴を履き替えていると、突然後方から声をかけられた。
聞き覚えのある声だったので渋々振り向いてみれば、そこには寝癖だった茶髪を短めに整えた、活発そうな顔立ちの少女が立っていた。
クソ、下校寸前でコイツと顔を合わせてしまうとは……俺も運が無い。
これは随分とおかしな現象ではないか。今朝の目覚まし占いでは俺の生まれ星座である獅子座が一位であったはずだったのに。……やはり占いはあてにならないな。今後一切見ないことにしよう、そうしよう。
「……なんの用だよ、美沙」
腰に手を当てて胸を張る、偉そうな態度のチビに返事を与えてやる事にする。俺の声を聞けるだけありがたく思え。
とまあ、俺の大きく捻じれ曲がった思考は置いておくとして、目の前にいる女の紹介をしようと思う。
彼女の名前は斎藤美沙。簡単に言えば、幼馴染というやつであろうか。
俺たちの両親が古い友人同士で、その延長で俺たちも友人になってしまったという訳なのだけれど、出来ることならば友人関係を今すぐに解消したいと、俺は常日頃から流れ星に祈っていたりもする。
所謂普通の人である俺が何故、それ程までに美沙の事を邪険にしているのか。その事については、目の前にいる女が自分で説明してくれる事だろう。
「いいから答えなさいよ。まあ、どうせ答えは既に決まっているんでしょうけどね。私の誘いを断れるような根性がアンタにあるはずがないもん。まあ、安心しなさい。私に忠誠を誓って媚び諂いながら付いてくる限り、アンタの身の安全と社会的地位は保証してあげるからさ。ほら、靴を舐めて感謝を行動に表しなさい」
…………。
まあ、こんな感じなのだ。
補足しておくことがあるとすれば、美沙の奴は金持ちの出身でもなければ、魔王の娘だったりする訳でも――ない。日本国の中流家庭出身の女子高校生である。つまりは、俺の社会的地位をどうにかできる権限など初めから持っていないのだ。口からデマカセもここに極まれり。
説明するべくもないとは思うが、俺が美沙に苦手意識を覚えている原因がコレなのである。
この斎藤美沙という頭のネジが全て吹き飛んでしまったような思考をしている女は、生まれついての妄想癖所持者であるのだ。その病気のせいで、美沙は自分の事を特別な存在だと本気で自負している。しかも特別な行動(つまりは異常行動)を臆面もなしに素で行うメタルハートの持ち主なのだから始末に置けない。いくら叱られても全然めげないのだ。その意志力をもっと別の方向に向けて欲しいと願っているのは、決して俺一人だけではないだろう。
その目に余る奇行については、物語を進行させる上で避けては通れぬ道になるであろうから、この場では割愛させて頂くことにする。
まあ、そんな止むにやまれぬ理由がある訳で。
俺は学校だけでも美沙に巻き込まれないように、会話どころか目を合わせる事すらも最小限に抑えようと努力しているのだが、クラスが一緒であることに加えて俺の考えている事などを理解できているはずもない美沙は、やはり俺にちょっかいを出してくる。
性格は色々と難がある奴なのだが、見た目が良いのがまた面倒なのだ。
小振りな鼻に整った眉目。体型はスレンダー(貧乳)なのだが、キュッと引き締まっていて印象は決して悪くない。それどころか貧乳好き(多数派)からは多大な支持を受けている。
それが影響してか、美沙と俺が会話をしていると、嫉妬した男子連中が殺気を孕んだ視線を俺にぶつけてくるのだ。こんなトチ狂った行動をする女に話しかけられても全く楽しくないぞ。それどころか拷問に近い対応だ。そんなもんで嫉妬されるなど、まことに冗談ではない。
「――で? 念のためにもう一度聞いてあげるけど、予定は?」
相変わらずの有無を言わせぬ口調に、ジトっとした鋭い目つき。
これでは断ろうにも断れない。俺は奥手な性格をしているから、頼み事をされたら断れないのだ。恨むべきは俺の性格を構築させた周囲の環境か、はたまた俺の性格を知っていても尚、強硬な姿勢で接してくる目の前の女か。
まあ、結局は弱気な俺が悪いという結論が出てしまうのだけれど。
「いや、別にないけど」
実際に予定があるわけではないので、正直に話しておくとする。
絶対にロクなことにならないだろうけど。
「なら良いわ! それじゃあ今夜迎えに行くから、準備しておいてね!」
俺の返答に満足したのか、美沙はニカッと輝かしい笑みを浮かべた。
つーか待てよ、まさかこれで話し終わり? 俺は何一つ現状を把握できてないぞ。
「いやいや、準備って何のだよ?」
至極真っ当な対応として、用件が何なのかを質問しておく。
相手に予定を聞く前に要件を述べるのがスジってものだろうが。
何を考えているんだ、この脳タリンのバカ女は。
「何って、廃墟探索の準備よ! 当然じゃない」
当たり前の事を言うかのような口ぶりで、美沙は首を傾げる。
一体何が当然だというのだろうか。
俺にはこれっぽっちも心当たりが……無い訳ではなかった。心当たりがあった。とても残念なことに。
「……例の部活か」
「その通り、我が『不思議研究部』の名誉ある活動よ! 今回のテーマは『廃墟に住み着く怪異を見つけ出せ!』っていうのなんだけど、もうテーマだけで凄く燃えるでしょ! ていうか萌えるでしょ!」
両眼をキラキラと輝かせて、美沙は俺の顔を覗き見てくる。いや、俺よりも頭二つ分くらい身長が低いから『見上げる』と表現したほうがシックリくるか。
さて、美沙が言う『不思議研究会』とは、不思議な事をひたすら探求する部活……らしい。部員総勢は美沙を合わせて三名。しかも全員女子だ。
もちろん俺は入部していない。
不思議であるならば何でも良いらしく、この間は超能力がどうとか言ってスプーン曲げやら透視やらに挑戦していた。結果は知らないし知りたくもないけれど。
とりあえず、美沙の問には嘘偽りなく答えておくかな。
「燃えないし萌えねーよ。第一意味が分からん」
つーか興味すらもない。出来ることなら他を当たってほしい。
オカルト研究部とか。稲川淳二とか。
「え~、萌え燃えしないの? だって怪異だよ? 世界不思議代表だよ?」
「世界不思議代表って何だよ……。ていうか怪異ってそもそも何なんだよ、お化けか? それとも妖怪か?」
怪異とやらの定義を問いただす。
俺が廃墟探索とやらに参加するのは確定事項であるだろうから、予め活動内容の主題について理解しておく事は無駄にならないはずだ。
いつの時代でも、情報とは力なのだ。
「う~ん、多分両方かな? 私もよくわかんないんだけど、とりあえず不思議っぽければ何でもいいのよ。不思議は正義ってよく言うし」
美沙は多少悩んだような素振りをした後、意味不明な事を言って開き直りやがった。
なんだよ『不思議は正義』って……。そんなフレーズ初めて聞いたぞ。
何か文句を言ってやろうとしたのだが、不満顔を浮かべている俺を見事にスルーして、美沙は勢いよく玄関から飛び出すと、そのまま校門まで一直線に駆けて行ってしまった。大地を焼き尽くすように照りつけている太陽など全く意に介していない。
どんな体力しているんだ。
「とりあえず、アンタは私の言う通りにしていればいいの。今夜迎えに行くからね。それじゃあバイバ~イ」
大声で言い切ると、大きく手を振りながら何処かへと走り去ってしまった。本当に、元気なやつである。
「……あれ? そういえば、あいつは何時くらいに来るんだ?」
最も肝心なことを聞き忘れていた。
俺って本当に詰めが甘い……。メールで確認すればいいか。
「はあ……帰ろう」
鬱憤を溜息と一緒に吐き出すと、俺は覚悟を決めて玄関から外へと出る。
「うおお……。暑い……」
留まることを知らない太陽が俺を照りつける。憎たらしいったらありゃしない。さっさと帰ってクーラの効いた室内でゴロゴロしよう、そうしよう。
俺は早歩き気味に、自宅を目指して一直線に突き進む。
「ああ、我が家がなんと遠いことか」
……などと愚痴を漏らしてしまったが、実際には我が家と学校はとても近い。距離にして徒歩五分くらいだろうか。電車通学をしているクラスメイトの連中から羨ましがられている程だ。
「だからと言って、自慢出来る訳でもないんだけれど……」
ブツブツと独り言を呟きながら、突き当たった信号の前で止まる。
タイミング悪く信号が赤に変わった瞬間だったので、青になるにはしばらく時間がかかるだろう。俺は太陽に全身をジリジリと焼かれながら、信号が青に変わるのを待つ。
そうしていると、ミーンミーン、と蝉の鳴き声が俺の耳を打った。
俺は夏の暑さが嫌いだが、蝉はもっと嫌いだ。
夜中に爆音を流しながら走行する暴走車の如く喧しいし、その中途半端な生き様も気に食わない。
世間は奴らの事を『短命の種族』みたいに表現して慈しんでいるが、それは大きな間違いだ。だってアイツ等、地面に潜ってから幼虫の状態で一年の間、呑気に寝ているんだぞ? どう考えても短命じゃないだろ。それどころか虫の中では相当長生きの部類に入るはずだ。
だというのに、一週間しか生きられない儚い生物だと? ふざけろ、この詐欺虫どもが。
まあ、虫の生態なんてよく知らないから正しいかどうかも分からんのだけど。
「あれ? 何で俺は蝉の事なんて考えてんだ? もっと他に有意義な事が……ん?」
無意味なことに思考を割いてしまったことを後悔していると、ふと、俺の足元に小さな影が走ったのが見えた。反射的に視線を向けてみれば、それはテトテトと歩いてゆき、眼前の道路の中央付近で移動を止めた。
「あれは……狐?」
そう、目の前の道路のド真ん中で座り込んだのは、黄色い毛で全身を覆われている狐だった。種類は分からないが雪山なんかに生息していそうな狐だ。毛皮がすごく温そう。今は暑いから抱きつきたいとは思わないし、それに何だか毛皮が汚れているようにも見える。
「すげー……。狐なんか初めて見たぞ」
山々と隣接している訳でもないこの街で、野生の狐が出没するとは考えにくい。多分ペットなのだろうが、それにしては薄汚れているし首輪もしていない。一体何処から来たというのだろうか。
「って! そんなこと考えている場合じゃなかった」
道路の真ん中で居眠りを始めた狐に向かって、俺は駆け足で走り寄った。このまま放っておいて車にでも轢かれたりしたら可哀想だと思ったからだ。
幸い、交通量が極端に少なかったので、俺は赤信号にもかかわらず道路に飛び出した。
俺が近づいても全く意に介さない狐さんは、やはりクークーと寝息を立てて眠っている。
「どうして道路で寝るんだよ。轢かれちまうぞ」
おお、狐さんに触れるぜー! などと内心ではハイテンションな俺。
とりあえず、狐さんのお腹の下に手を差し込んで胸元に抱き上げる……つもりだったのだが、なぜか持ち上がらない。それどころか全力で引き寄せているというのに身動ぎすらもしない。
まるで巨大な鉄塊のように――狐は重かったのだ。
「な、何で……?」
もう一度引いてみるが、やはり動かない。地面に溶接でもされているんじゃなかろうか。
このままでは危険極まりないので、とりあえず車が来ていないか周囲を確認する。すると、まるでタイミングを見計らっていたかのように一台の車がこっちに向かってきた。
しかも大型のトラックだ。冗談じゃないぞ……。
「この……! おい狐! このままじゃ轢かれちまうぞ、おい!」
クソ重い狐に呼びかけをしてみるが、全く反応を返さない。
これだけ重いのなら相当の質量だ、もしかしたら轢かれても平気なんじゃない? 何て事も考えたが、やはり車に轢かれて無事な狐がこの世に存在するとは思えない。
仕方がない、とりあえずトラックには止まってもらうとしよう。
「止まってください!」
俺はその場に立ち上がり、両腕を上げて大きく振りながら停車を促す。
位置の高い運転席にも見えるように、ぴょんぴょんとその場で跳ねることも忘れない。
兎みてえな行動だな。この年だと流石に恥ずかしい。
だが、これでトラックは止まってくれるだろう。後はこの居眠り狐をどうにかして歩道まで退かすだけだ。
……そのはずだったのだが――
「ええ? あれ、止まらない……?」
此方に向かって走行してくるトラックが、一向に速度を落とそうとしないのだ。俺の姿が見えなかった、という訳ではないはずだ。あれだけ大きく手を振ったのだから見えていないはずがない。ならばどうして――
「もしかして……!」
俺は目を凝らし、トラックの運転席を見た。
やはりと言うかなんと言うか、予想通りと言っていいのか。トラックの運転手は阿呆面を浮かべて眠っていたのだ。鼻提灯まで作っていやがるし……。免許剥奪されてしまえ。
「マジでヤバイ!」
俺は大急ぎで狐を引っ張る。
だが、狐は全く動いてはくれない。俺の気も知らないで呑気に眠りやがって……!
このままでは俺までトラックに轢き殺されてしまう。
仕方がない、可哀想だけど狐は諦めるか……。
俺は心を痛めながらそう決心したのだが、
「うおわ!?」
突然である
ビクともしない程に重かった狐が、その重さを消失させたのだ。
狐が急に軽くなったことにより、俺は引っ張っていた勢いのまま背後に倒れ込み、後頭部を地面に強打してしまった。
ゴンッ! とすげえ音がした。ついでに舌も噛んだ。
「うおおおっぉぉ、痛え……。何で急に……」
これは痛い……! 出血していても不思議ではないレベルの痛みだ。
強く打ち付けたせいか頭がクラクラする。
立ち上がろうにも足に全く力が入らない。
これはマズイ……!
危機感を抱いたが、もう遅かった。
何故なら……トラックが既に目の前にまで迫っていたからだ。
(ああ、俺死んだ)
全身が硬直して動かない。まるで自分の体じゃないみたいだ。
風景も、まるでスローモーションのようにゆっくりと動いている。
空を飛ぶ鳥も、風で宙に舞うビニール袋も、俺に迫るトラックも、胸の中で必死に動く狐も、全てがゆっくりだ。
走馬灯なんてものは無かった。
現状を把握するので脳がパンクしそうになっているからだ。とても今までの経験を思い出している暇などありはしない。走馬灯なんて大嘘だ。
瞬間――時間が戻った。
凄まじい衝突音が響き渡り、それと同時に俺の身体は圧倒的な物理エネルギーによって吹き飛ばされ、華麗に宙を舞った。
痛みは全く感じない。人体からは発してはならない危険な音が全身から響いているが、やはり痛くない。
あるのは、死の恐怖だけ。
(死にたくない……)
迫り来るアスファルトを見ながら、俺はゆっくりと思考する。
このまま落ちれば、俺は脳天をかち割られて死んでしまうことだろう。いや、もう全身の骨が折れているだろうから頭をぶつけなくても手遅れかも知れない。
(ああ、俺の人生短すぎ……)
ふと、生を諦めた俺の脳裏をよぎったのは、美沙の輝かしい太陽のような笑顔。
どうやら、俺は走馬灯を体験してしまったらしい。
死と対面しているというのに、なんだか得をした気分になった。