十四話
自分の部屋の床上で上半身を惜しげも無く晒して正座している男は一体誰でしょうか?
正解は改めて言うまでもなく、俺こと御鏡涼貴さんでした。簡単だっただろ?
(うん。やはり暑いですな……死にそう)
玉のように浮かぶ汗をシャワーで綺麗サッパリ流してやりたいところなのだが、今はそんな自由が許される状況ではない。地獄はまだ始まったばかりなのだから。
夏真っ盛りの本日、太陽が暮れて少しは温度が下がったのかと言えば、決してそんな事は無い。湿度が異常に高くて服が肌に張り付くし、風が全く吹かないからこれっぽっちも涼しくない。まあ、風を屋内で感じろという方が無理な話ではあるし、今俺は服を着ていない訳なのだが。
さて、どうして俺が自室の床で正座をしながら上半身裸などという、ラフというよりは裸婦と表現すべき格好をしているのかといえば、単純に暑過ぎるから……という理由だけではない。
とりあえず現状を報告する上で重要とされるのが、俺の頭上で稼働しているエアコンの存在であろうか。問題なく稼働しているのは良い。故障とは縁のない、とても健康な状態を表しているからだ。しかし、運転切換の項目が暖房になっているのは看過できない。しかも設定温度が最高の三十度だし……。なんで夏場に暖房を使わなくちゃいけないんだよ。電気代の無駄使いもここに極まれりだぜ。しかも部屋の隅では加湿器がガンガン動いていらっしゃる。これ以上湿度を上げてどうすんだよ。俺の部屋をサウナにでも改造するつもりなのか。
これらの許し難き悪行を働いた下郎は誰なのか?
そんな事は言うまでもないだろう。
――冷房の効いた下階のリビングにてハーゲンダッツ(チョコ)をムシャムシャ食べながら、ソファーで横になってバラエティ番組をゲラゲラ笑いながら視聴している、図々しさ極まる妄想癖ヒステリー女。
つまりは斎藤美沙の仕業である。
あの女、俺の部屋を熱地獄に改造した上で、俺を此処に閉じ込めやがったのだ。しかも定期的に見張りに来るものだからエアコンの電源を切ることもできやしない。土下座込みの交渉の末、上着を脱ぐことだけは許してもらえたが、結局はそれだけだ。
水を飲むことも、ゲームをすることも、正座を崩す事も、便所に行くことも、何も許してくれない。
脱水で死にそうだし、退屈で死にそうだし、足が痺れて死にそうだし、小便が漏れてしまいそうだ。俺はこんなにもキツイ罰を受けなくてはならない程の罪を犯したというのだろうか? ほんの五時間放ったらかしにしただけはじゃないか。現在時刻はもう二十時十分前だぞ。そろそろ晩飯を食わせろよ。
「あぢ~、何で俺がこんな目に~」
『ん~、まあ自業自得ってやつだね。あんなのに関わるから』
「ああ? なんだよ、起きてたのか」
俺の独り言に反応をしてみせた声。
妖狐のタマだ。
この暑さで起きてしまったのだろうか? そういえば日も暮れて暫く経つし、自称夜行性であるタマが起きても不思議じゃないわけか。……あれ? ていうかタマの奴、今『あんなのに関わるから』って言ったか? それってもしかしなくても景浦のことだよな?
「なんだよタマ、お前景浦のこと知ってんのかよ」
『そりゃあ知ってるよ。あの時は顔面に走った鋭い痛みで起こされてしまったからね。こんな頻度で顔面どつかれて起こされるなんて、長命の私でも初めての体験だったよ』
「お、おおう。それは何というか、お気の毒?」
『お気の毒、じゃないよ。絶対に涼ちゃんのせいだよね? 寝惚けてて状況の把握に時間がかかったけれど、あの化物にセクハラでもして殴られたんでしょ。この変態』
ぬう、そこまで知っていようとは。これは弁明の余地もないな。
けれど、俺がセクハラを働いただけにしては、随分とご立腹のような気がするのだが。こいつ、そんな些事を気にするような奴だったか? いくら顔面を殴られて起こされたとは言え、タマなら軽く笑い飛ばしそうなものだけれど。
『それに……あんなに仲良さそうに話し込んじゃってさ。相手はヴァンパイアだよ? 人の生き血を啜らなくちゃ不死力も維持できない、中途半端で出来損ないの化物だ』
「お、おい。そんな言い方はないだろ。確かに血は飲まれたけど、殺されるようなことはなかったんだ。妖魔とかと比べればずっと平和的じゃないか。それに意思疎通もできたし」
『あれは……運が良かったからだよ。あの女の本質はあんなに可愛らしいものでは決してない。出来ることなら私が直々に相手してあげたかったけど、今は涼ちゃんの体を借り受けている身分だから、仕方なしに我慢してるんだよ』
普段よりも遥かにトーンの低い声で、タマは憎悪混じりな声音で言い放つ。
怒り、恨み、殺意、そんな意思をタマの言葉からを感じ取ってしまった俺の感覚は、多分間違っていない。タマは、景浦に対して並々ならない害意を抱いている。混じり気のない悪意を持っている。知り合って間もない俺だけれど、この豹変した態度には驚きを隠せなかった。
「……なんだよ、それ。ならお前は、もし肉体の自由があったら景浦を攻撃してたっていうのか?」
『攻撃ね~? そうだね、確実に殺し合いをしていただろうね。我慢した私を褒めて欲しいよ』
おどけたような口調で、肯定して欲しくなかった質問に是認の意思を示すタマ。
なんでだ……? どうして、あの娘に殺意を向けられる? あんなに愛らしい容姿をした女の子に対して一方的に憎しみをぶつけることなど、例え妖怪であろうと簡単には出来ないはずだ。何かしらの、それ相応の理由がなければ……。
「……お前、単純に吸血鬼が嫌いって訳じゃないだろ? あの娘と、景浦と何かあったのか?」
『…………』
「おいタマ。聞いてんのか」
『…………』
……沈黙を維持するタマ。
答えるつもりがないのか、それとも答えるかどうかを考えているのか。
この、精神越しの会話というのは、予想以上に話しにくい。電話などとあまり変わらないようにも思えるが、常に一緒にいる相手と電話で会話しなくてはならないというのは、中々に面倒なものだ。相手の顔色を伺えないし、何より肉体言語を使用できないのが辛い。出来るならば今すぐ締め上げて情報を吐かせたい所なのだが。
『あいつは、敵なんだ』
そろそろ自分の顔面でも殴ってダメージを連動させてやろうと考え始めた頃、タマが口を開いた(実際には開く口などない訳だが)。
『涼ちゃんには言っといたよね? 私が道路で寝ていた理由』
「あ、ああ。確か、体力を回復するためだって言ってたな……」
重力結界とかいう物を使って外部から身を守っている最中に、正義感を振りかざしてタマを助けようとした俺が道路に飛び出して、そして一緒にトラックに轢かれたんだよな。もちろん覚えてる。忘れろと言われても絶対に忘れられない記憶だ。
『不思議に思わなかった? どうして大妖怪である私が、道路の真ん中で休憩しなくちゃいけない程に体力を消耗させていたのかを』
「……そういえば、そうだな」
確かに…・‥変だ。
改めて考えてみれば、それは明らかな異常事態ではないだろうか。
一般人の俺をあれ程までに強化できる能力を持つタマが、私生活だけで体力を消耗させることなど、まず有り得ない。タマ本人ではない俺でさえ、因子とやらで強化してもらったときは凄まじい身体能力を得ることができていた。多分、十キロ以上を全力疾走したとしても余裕なくらいの身体能力だった。
それだけの力を使いこなすタマが、簡単に体力の底を見せるだろうか?
……有り得ない。そんなことは絶対に無い。二心同体になっている俺だから解る。タマは……玉藻は世界最高レベルの個人能力の持ち主だ。そんな簡単に体力が底をつくはずがない。それこそ、己と匹敵する強大な力に攻撃でもされない限り……。
「――まさか、お前は誰かと戦っていたのか……?」
『うん、正解。私は戦っていたの。私の命を――正確には私の力の根源を狙った組織とね』
「組織? 力の根源?」
『そう。私の存在を支える力、つまりは『尾』だよ』
「尾? 尻尾のことか?」
『うん。私の九本の尻尾。莫大な妖力を貯蓄しておくための、簡単に言えばタンクのような役割をする重要な機関。長生きした妖狐は己の尻尾に多くの妖力を溜め込んで、自由に行使する事ができるんだ。――そして、奴らは私の尻尾を狙ってきた。尻尾に溜められた妖力、の方が正しいのかな。私が九尾に昇格してからというものの、頻繁に攻撃してくるようになってさ。全く嫌になるよね、あはは』
しょうがないな、という感じにタマは笑った。おどけた口調だったけれど、きっと痩せ我慢をしているのだろう。その軽い笑い声にはいつものハリがなかった。
(妖狐の尻尾を狙う、タマと匹敵するだけの力を持った強大な組織……か。そんなものと戦って、一人で必死に戦って、そして疲れ果てて道路で眠ってしまっていたのか)
それは、あんまりだろう。
折角逃げ延びたのに、その先でトラックに轢かれて死んでしまうなんて。
しかも俺なんかの体に避難しなくてはならないなんて。
本当に、救われねえな、コイツも。
「……そうか。ならお前は、その組織の連中に尻尾を奪われてしまったのか? 戦って、抵抗して、それで負けたから逃げたんだろ?」
聞きにくい事ではあるが、これはハッキリさせておく必要がある。
もし尻尾を全て奪われていたのなら、その組織の連中はもうタマを狙おうとはしないだろう。だが、もし尻尾が残っていた場合は、組織の連中が俺達を狙いに来るかもしれない。
『ううん、全部は奪われてないよ。三本だけさ』
「三本か、それは命に別状は無いのか?」
『今の私は体がないからね。尾が無いくらいじゃ死にはしないよ。残り六本分の尾も涼ちゃんの体の中に隠してあるから盗まれる心配もないしね』
「……初耳だな、俺の体に狐の尻尾が収納されてるなんて」
一体何処にしまったというんだ? 俺の体は収納ボックスみたいにパカパカ開け閉めができる訳ではないはずなのだが……。もしかして飲み込んだの? 胃にあるの? 消化されないの? トイレに行って便器の中のウン○が毛玉だったりしたら俺は驚きすぎてひっくり返ってしまうぞ。まあ、それはさておき、
「――しかし、尻尾を狙う組織がいるなんて思わなかったな……」
『でも、ソイツ等は確かに存在して、私を狙っているんだよ。そしてその組織の中には』
「言うなっ」
わざと言葉を被せ、タマの言葉を遮る。
この先の言葉は、もう既に予想できていた。信じたくはないが間違いないだろう。これだけ言われて分からない人間など、よっぽどの馬鹿か言葉を知らない乳児くらいのものだ。そして、俺は馬鹿でもなければ乳児でもない。人並みの理解力は持ち得ているつもりだ。
「……はぁ。だからお前は景浦のことを敵視してたのか」
『……分かってくれる?』
「そんな切なげな声出すなよ。あまり受け入れたいことではないけれど、こればっかりは仕方がない」
そう、仕方がない。
友達の友達は他人、とは良く言われている言葉ではあるが、友達の敵が友達、なんてパターンがこの世に存在するなんて思いもよらなかった。世の中、ままならないものである。
けれど、俺の場合は優先すべき相手は既に決まっている。
その一点だけは迷いはない。
「景浦がお前の敵だって言うなら、俺の敵でもある訳だな」
景浦は俺の敵。
仲良くしたかった相手ではあるが、タマを狙う相手である以上は友達にはなれない。罪悪感が湧かないといえば嘘になるが、それでも優先すべき相手はタマの方だ。一日とは言え早く知り合った相手であるし、何よりタマが殺されれば俺も死んでしまう。絶対にタマを殺させる訳にはいかない。
「もう、個人的に関わるのはやめるよ。景浦は俺にとっても敵だ」
『…………おお、おお! 涼ちゃん、今すぐ君にキスがしたいよ私は!! クソ! もし肉体があったのなら、今すぐ抱きついて頬擦りして押し倒して舐めてあげるのに!!』
「突然おかしなこと言うんじゃねーよ!! なんだよ舐めるって!」
『え? 知らないの? この技はフェ』
「説明しろとは言ってねえ!!」
大声を被せてタマが口走ろうとした淫語を掻き消す。
全くの躊躇なき下ネタ。臆面もなく言うものだからコッチが恥ずかしくなる。
エロ系女子は或の奴だけでお腹いっぱいだっつーのに。せめて紫苑さんの百分の一くらいは清楚になってくれよ、頼むからさ。
――などと、俺たちがワイワイと馬鹿話をしている時だった。
ドギャンッ!!! という効果音と共に扉が窓ガラスを割って外へとブッ飛んだ。
扉が開いた、ではなくて飛んでった。
ここは非常に重要な部分である。
「あ、あああ!? お前お前お前!! 何してんだよオイ! 蹴破るどころか蹴り飛ばすって!!?」
僅かな間も置くことなく、現状を即座に把握する俺。
大慌てで立ち上がり粉砕された窓ガラスから外の様子を確認してみれば、電柱に激突して真っ二つになった扉が見えてしまった。いつもは金具が破損する程度であったが、あれはもう明らかに修復不可能である。
ああ、窓ガラスが!! 扉が!!
どうしてくれるんだコレ!? 弁償しろよチクショ――――!!
「こ、この馬鹿! もうお前馬鹿! 本当に馬鹿!!」
振り返りつつ、痛々しいツッコミを入れながら涙目で背後にいる馬鹿に視線を向ける。
やはり、いつも通り足を振り上げた状態で佇んでいた美沙、改め馬鹿女。
マジで巫山戯んな。腹を切って死んで詫びろやコラ!!
「た、大変よ御鏡! 大事件!」
怒りに来た、と思えば上っ調子な声でそう叫ぶ馬鹿女。
「ああ大変だよ。超大事件だよ。扉が吹っ飛んで窓ガラスが粉砕してんよ!! お前のせいでな!!」
「そんな事はどうでもいいのよ!! もっと大変なことが起きたの!」
「ど、どうでもいいっておまッ!!」
こ、これはキレてもいいよな? 粉砕された窓ガラスと真っ二つにされた扉の仇を取っても、きっと誰にも文句は言われないよな? ぶっ殺した後に山に埋めても犯罪じゃないよね?
『いや、それ明らかに犯罪だって自覚してるでしょ。山に埋めてるし』
喧しい!! 貴様は黙っとれ!!!
――と、俺が熔岩の如くドロドロと煮え滾る怒りを腹の底に蓄えている時だった。
美沙が、信じがたいことを言い放った。
「紫苑が、ストーカーに狙われてるってッ! ストーカーが玄関の前まで来てるって!」
……その言葉は、俺の怒りを静めるには十分な効果があった。
紫苑さんが――襲われている?




