十話
太陽が照りつける昼時。腹が減ったということで美沙は一時的に自宅へと帰った。
財布を持ってきていないのかと聞いてみれば、昼飯は俺から強奪する腹積もりだったと臆面もなく正直に白状しやがった。なんて奴だ。まあ、冷蔵庫の中身の貧相さを拝見して大人しく帰ってくれたのだから、あいつにも日本人らしい慎ましさが僅かに、欠片一片くらいに残っていたのだろう。今日一番の驚きである。
そんな訳で、俺は一人だ。
正確に言えば一人と一匹だろうか。
『さあ涼ちゃん! あの喧しい娘も消えたことだし、私たちもご飯にしようじゃないか!』
「……飯時になった途端に起きやがって。ていうかお前って飯食うのかよ?」
一般的に考えれば……食えないはずだ。なにせ体がないのだから食べられるはずがない。口もなければ胃袋もない。それどころか吸収器官すらも有していない。食事など無意味だし、そもそも不可能だろう。
『ふっふっふ。涼ちゃんは私のことを侮っているようだね』
「なんだよ、その不敵な笑いは。別にお前の事なんて侮ってないぞ」
ついでに言えば関心もない。お前がどのように食事を摂ろうが俺には関係ないしな。
……などと言って突っぱねてやりたい所なのだが、コイツが何かしらアクションを起こそうとすれば、確実に俺に皺寄せが来るのも、この短い間に十分理解しているつもりだ。第一、コイツは俺に『私たちもご飯にしようじゃないか!』と言っていた。それはつまり、俺と一緒でなければ飯を食えないと公言しているに他ならない。
「――で? お前はどのようにして飯を食うつもりなんだ? 俺に何を望んでる?」
『おお、私がお願いするのを予測しての返答だね。流石は私の相棒、頭が切れるね!』
「おいおい、そんなに褒めんなよ。照れちまうぜ」
『シャーロックホームズみたいだね! コロンボみたいだね!』
「ははは、よせやい」
『毛利小○郎みたいだね!』
「それは違う」
あんな寝ているだけの似非探偵と俺を一緒にするんじゃない。
お前、やっぱり俺のこと尊敬とかしてないだろ。その場のノリで適当に言っているだけだろ。
『まあ、そんなどうでもいいことは隅に置いておいて』
どうでもよくねえ。
『私の食事方法だけれど、まあ特に何もすることはないんだよね』
「……? 何もしないっていうのはどういう事だ?」
何もしない……。それはつまり動かないということだ。全く動くことなく食事ができる生命体など、俺は寡聞にして聞いたことがないのだが。……いや、生物といえば植物も含むのか? それなら何とかなるかもしれないな。いやでも、妖怪だからと言ってそんなことが可能なのだろうか……?
「まさかお前、光合成出来るのか? 流石は世に名高い妖怪だな、まさか植物の真似事ができるとは」
『違うよ! 私は確かに妖怪だけれど、ベースは狐なんだよ! 植物なんかと一緒にすんな!』
「なんだよ違うのか……。それならどうやって食事をするんだよ。他に思い当たる方法がないぞ」
真面目に考えていないから思い当たらないのかもしれないが、コイツに関することで俺が真面目になることは一生ないだろう。それくらいにはタマの事をどうでもいいと考えている。それどころか消えてしまえばいいとさえ考えているほどだ。消えちまえ。
『まったく、さっきの推理力はどこに行ってしまったんだよ。……動かなくてもいいっていうのはつまり、涼ちゃんが勝手に食べてくれるから私が動く必要がないって意味だよ』
「俺が動くって……お前まさか、俺の食事を強奪するつもりか!?」
『YES! 涼ちゃんが摂取した物の栄養を、私が横からふんだくっていく寸法! だから一人分じゃなくて二人前の食事を用意してね。じゃないと涼ちゃんが餓死で死んじゃうからさ!』
この糞狐……! 俺が食べて摂取した栄養を横から根こそぎ奪うつもりか! それじゃあ俺には防ぐ手立てが全く無いぞ。体の中で勝手に動くタマに俺は干渉できないんだから。
「そういう方法かよ畜生……。これじゃあ対処できないじゃねーか」
『ふっふっふ、さあ涼ちゃん! 大人しくご飯を食べようじゃないか!』
これだけ明け透けに言われると飯を食う気が失せるってもんだ。なんで横から奪われると分かっていて飯の準備をしなくちゃいけないんだ。まあ、だからと言って飯を食わなくては俺が餓死してしまうので、結局は食べる以外に選択肢がないのも事実だ。ここは大人しく従うことにしよう。
「お前に言われなくても飯は食うけどさ。でも、どれくらい用意したら良いんだよ? 二人分って言ってたけどお前の食事量は人間の一人前で構わないのか?」
『ん~。食べろと言われれば無限に食べれると思うよ? 涼ちゃんが摂取した栄養の全てを妖力回復に回せばいいだけの話だからね』
「そうか……無限に食べれるのか……。それなら良い方法があるな」
『良い方法? 一体何をするつもりなの?』
「まあ、黙ってろって。後でたらふく飯を食わせてやるよ」
『本当!? やったー!』
喜びの声を脳内で叫ぶタマ。喜んでくれるのは特段悪い気はしないのだが、もう少しだけボリュームを下げてくれ。お前の声は頭の芯に響くんだよ。
「さてと、それじゃあ支度するか」
外出するに至って、格好はこのままでいいにしても、顔くらいは洗っておきたい。寝起きで突然攻め込んできた美沙のせいで、洗顔は愚か歯磨きすらも出来ていないのだ。寝癖もしっかり直しておかないと。
『あれ? 外出するの? 家でご飯を食べるんじゃないんだ』
「我が家の冷蔵庫は既に空っぽ状態だ。二人分の飯を捻出することなど不可能なんだよ」
『いや、生活費くらいはもらってるんでしょ? 冷蔵庫の中身くらい充実させておきなよ。いちいち買い物に行くのも面倒じゃない?』
「お前、妖怪のくせに妙に家庭的な発想をしてるな。だが、俺は買い貯めをするタイプの人間じゃないのだ。言うなれば『その日暮し』。これがスゲー気楽で良いんだよ」
『計画性のない駄目人間生活を思いっきり充実しているね。流石は私の相棒! 半端ねー』
「……やっぱり俺の事なめてるだろ、お前」
何が流石なんだよ。今の台詞のどこに俺を褒める一文があったんだよ。何から何まで貶してるじゃないか。流石は相棒、とか適当に語尾につけておけば問題ないとか思ってんなよ。一応明記しておくが、俺は決して馬鹿じゃないからな。一般的な頭脳を持ち得ている普通の人間だからな。馬鹿キャラと絡む時みたいなノリで話しかけんじゃねーぞ。
「ったく、お前と話すのは疲れるな。――さて、眠くなる前に顔洗おうっと」
『いえーい! 洗面台へレッツゴー!!』
「テンション高いよ。顔洗うだけだぞ……」
ツッコミ疲れで肩をガックリと落としつつ、顔を洗いに洗面台に向かった。
鏡に映るモブ顔を見ながら適当に顔を洗い、適当に歯を磨き、適当に寝癖を整える。
これで外出準備は完了。使用時間は約三分。
女の場合は一時間近く支度に時間を要するらしいが、俺は生憎男であるため支度には十分も時間はかからない。本当に、男に生まれてきてよかったと思える。二度と女などになってたまるか。
「さて、行くか」
財布は持ったし戸締りもキチンとした。これで泥棒が我が家に侵入することは叶わないだろう。まあ、多分俺が帰ってきた頃には、飯を食い終わった美沙が図々しくも冷房をつけて勝手に麦茶などを飲んでいるのだろうが、そればっかりは防ぎようがない事だ。何たって、美沙の奴は我が家の鍵を所持しているのだ。内側からチェーンでも掛けない限りは侵入を防ぐ事はできない。……遺憾の限りである。
そろそろ換え時かもしれない草臥れたスニーカーを履き、外に出て鍵を閉める。
見上げてみれば灼熱の太陽が燦々と輝いていた。汗が滝のように噴き出すほどの気温の高さだ、今すぐ引き返して冷房の効いた自室に閉じこもりたくなる。――が、ここまで来て引き返すのも男のプライドが許さない。
この灼熱の海を越えた先にある食事処を目指して、俺は進むことを太陽に誓う!
……とまあ、格好良く言ってみたはいいけれど、結局はお腹が空いて我慢ができないだけなのだ。
そういえば、朝ご飯だって俺は食べていなかったっけ。これはお腹が減るのも頷ける話である。もう腹が減りすぎて倒れそうなくらいだよ。お腹と背中がくっついているのかもしれない。
「んじゃま、あの店に行くとするか」
『あの店? それってどんな店なのかな? やっぱり飯屋だよね! 私としては中華も捨てがたいのだけれど、やっぱり和食が一番かな! でもでも洋食も中々に食べたい気分ではあるんだよ。いやーどれを選べばいいのかな、涼ちゃん! 私はもう一生分悩んでしまったような気がするよ!』
「……お前、よっぽど悩み事と無縁な人生を送ってきたんだな。素直に羨ましいと感じるぜ」
照りつける太陽とタマの戯言に辟易しながら、俺は重い足を引きずって熱々に熱せられたアスファルトの上を黙々と歩き始めた。なるべく日陰道を選んで歩くことも忘れずに――
◆
地元の商店街の一角には、とある小さな料理店がある。
小奇麗な外装に赤い看板。地元の学生達に親しまれている「大盛り専門店」の飯屋、その名も「モリモリ飯処」である。メニューの種類がとても豊富で、中華料理を主に扱っているのだが、和風料理やフレンチなどもメニューの欄の片隅にはひっそりと存在しており、ありとあらゆる年齢層に大人気な食事処なのである。
種類も豊富で量が多い。それに加えて良心的なそのお値段。
夕方になれば部活帰りで腹を空かせた少年少女たちで満席になるその店は、今は夏休みの昼時だからか、スーツ姿の中高年で埋め尽くされていた。流石に学生の姿は見かけない。十代は俺だけしか居ないっぽい。
「うわ~人が多い。そして何より臭い」
『中年オヤジが多すぎるよ、涼ちゃん。此処で食事するの?』
「ああ、此処まで来たのならば引き返す訳にもいかん。絶対にあのメニューをクリアするんだ!
――って、あの席空いたっぽいぞ」
席を立ち、ご馳走様と言ってお釣りを店主に渡した年配者が店から出ていったのを見計らって、俺は大急ぎでその席を目指す。別に早い者勝ちという訳ではないのだが、誰かに座られてしまう可能性が無きにしも非ずだったので、俺は駆け足気味に移動してその席に腰を落ち着けた。
う~ん、さっきまで人が座っていたからか、なんだか椅子が生暖かくて気持ち悪い。少し腰を浮かせておこう。
「さてと、……おばちゃん! 注文いい?」
テーブルに残っている食器を片付けているおばちゃんに声をかける。
この店は店主のおっちゃんと、その妻のおばちゃんの総勢二名だけでやりくりされている。
おっちゃんが飯を作り、おばちゃんが配膳する。その分担でこの店は回っているのだ。まあ、そのせいで店の規模はやや小さいのだが、やはり味が良いので客足が途絶える事はない様子だ。順風満帆で何よりである。
「はいはい、注文はなんだい?」
優しげな笑みを浮かべて注文を訪ねてくるおばちゃん。若い頃はきっと美人だったのだろうな~、と思えるだけの包容力と優しさを全身からひしひしと感じる。こういう人が母親ならばどれだけ良かったことか。今すぐにでも家の母ちゃんと取り替えて欲しいくらいである。
それはともかく、メニューを決めなくては。
もっとも、この店に入る前から注文するメニューは決まっているのだが。
「メガ盛り焼豚炒飯をお願いします!」
高らかと、俺は予め決めていたメニューを注文する。
それと同時に、店内で渦巻いていた喧騒がピタッと止んだ。そして店内に居る人全員が俺に視線を向けてくる。
予想通りの反応だ。ふふふ、その不愉快な奇異の視線も、数分後には店内中を埋め尽くすほどの賞賛の言葉で消え去ることだろう。今から楽しみでならない。
「おいおい、坊主。そりゃあ本気か?」
厨房から顔を覗かせた店主のおっちゃんが俺の正気を確かめてくる。
やれやれ、どうせ俺が冷やかしか何かと思っているんだろうな。身の程知らずが来たぞ、とでも思われちゃってるんだろうな。……だが、俺は違うぞ。今までこの店のお世話になってきた中で、この超大盛りメニューに挑戦して、無残にも敗戦を期した自称大食い達を俺はよく知っている。そして『メガ盛り焼豚炒飯』の恐るべき質量も熟知している。それを知っていても尚、俺は挑戦しようとしているのだ。
「ふ、その闘志に燃える熱い瞳。俺には分かるぜ、お前は冷やかしなんてチャチなもんじゃねえ、正真正銘のクレイジーモンスターだ。そうだろ?」
…………。
いや、俺はモンスターじゃない。
そんな男気に溢れた視線を俺に向けてこないでくれ。俺は狂ってねえし化物でもねえよ。馬鹿狐を身の内に宿してるから化物呼ばわりされると無駄に傷つくんだよ。言っても無意味な事だけれどさ。
「仕方がねえな。今は忙しいが、ちょちょいと作ってやるぜ。少し待ってな」
ドヤ顔を浮かべて厨房に戻るおっちゃんを見送りながら、俺はこれから戦う事になるであろう強敵の姿を目の前に幻視する。
……今までの俺だったら十分の一を食べただけで根を上げていたであろう圧倒的質量が、鮮明に浮かんできた。とても人間が食いきれる量には見えない……が! 今の俺は真っ当な人間ではない。いくらでも食べられると公言した理外のモンスターが腹の底に眠っているのだ。きっと食いきれる!
『涼ちゃん。周りの人達がすごく浮き足立っているんだけれど、一体何が起きるの?』
(お前は待ってればいいんだ。これから腹いっぱい飯を食わせてやるよ。いくらでも食えるんだろ?)
『うん! ご飯ならずっと食べ続けられるよ! ……でも良いの? 私が食べ過ぎると涼ちゃんに栄養が行かなくなってしまうけど』
(ああ、そうだったな……。それなら、俺が腹いっぱい食った後にお前が食い始めればいいよ。そうすればお互いに満腹だしな)
『ああそっか! じゃあ涼ちゃんのお腹がいっぱいになったら横取りするからね!』
(おう、後十分くらいで注文したメニューが来るはずだからな。準備しておけよ)
などなど、これから勃発する大きな戦いに向けての作戦を練り終わり、水で口を湿らせつつ瞳を閉じて料理をひたすらに待っていた時だった。
「出来たぜ坊主! チャーハンだ!」
厨房から大声が響き、俺は瞼を押し上げて視線を向ける。
そこには想像通りの――いや、想像をも遥かに越えた山が鎮座していた。
テーブルの上を滑らせるようにして俺の正面に運ばれてきたのは、何を隠そうこの店唯一の裏メニュー、その名も『メガ盛り焼豚炒飯』である。わざわざ店長であるおっちゃんが運んできたのも、細腕のおばちゃんでは運ぶ事のできない質量を『炒飯』が有していたからに他ならない。
ホカホカと美味しそうに白い湯気を上げるソレは、総重量にして十キロにも到達するらしい。
卵が何個必要になるのかも分からないほどの山盛り炒飯だ。山というかエベレストというか、人間一人ではとても食いきれないであろう圧倒的重量の炒飯だ。
やばい、今になって後悔してきた。想像よりずっと多いぞ、コレ。こんなもん、人間の食える限界を遥かに超越してるだろうが。三十分以内に食い切れれば無料になるらしいが、これは三日かかっても食える気がしないぞ。節約して食べればこの炒飯だけで一ヶ月間生き延びることができるかも知れない。
「さあ、坊主。タイムを計んぞ」
躊躇する俺など意に介さずに、おっちゃんはストップウオッチを片手に催促してくる。
クソ、やってやるぜ。こんな程度の窮地など屁でもねえ! 俺の中には常識知らずの化物が住み着いてんだ! きっと食い切ってくれるぜ! ……多分、食えるよね? 今更嘘でした~とか言われても、罰金一万円をポンと払えるだけの財力なんて俺にはないぞ? 信じてるからな?
「行くぞ! よーい――」
ストップウォッチを持った右手を高く掲げるおっちゃん。
その手が振り下ろされたと同時にスタートになることは明白、店内にいたお客様方も観戦する気満々であり、これでは逃げることは到底できない。
――もう腹を括るしかない!
意を決して白い蓮華を片手に持ち、聳えるチャーハンを睨みつける。
……やはり多いぞ、さっきまで腹が減っていたのに見ただけで腹がいっぱいになってきた。だが、退路は既に絶たれている。逃げることは許されん!
そして――
「どん!!!」
人生史上最大の戦いがおっちゃんの野太い大声で幕を上げた。
畜生、やっぱりこんな所に来るんじゃなかった……!




