60 枯木立 吐くにも飽いて 独り酒
【前回のあらすじ】
朝起きたらルカが消えており、別れを告げる手紙が残されていたのだった。
「ただいま……」
……。
…………。
………………。
一人暮らしを始めて数年。
帰宅しても返事が来ないのが当たり前の生活を送ってきたのに、胸に穿たれた孔がこんなにも疼くのはなぜだろう。
1月2日の夜6時。
世間ではまだ正月ムードが抜けていない空気の中、今年一発目の勤務が終わり、銭湯で温めた体を帰路で冷やした後。
帰宅した俺は上着も脱がずに、倒れるように部屋の隅に畳んだ布団の上に倒れ込んだ。
「今日の記憶が殆どねぇ……」
半日前。
朝起きるとルカがいなくなっており、二度と会えない旨を伝える手紙が残されていた。
「どうして……」
手紙には――別れが寂しいから挨拶出来なかった――と書いてあったが……。
もっと何か、ルカの心の奥底には、他の本音があったんじゃないかと勘繰ってしまう。
それくらいには、不自然なまでの別れだった。
「いつか、こんな日が来ることは覚悟していた」
でも……だとしても。
だからこそ、ちゃんとした別れをしたかった。
去年の8月、ルカが魔王を封印するための魔力が溜まり、今生の別れをした時は、今みたいな喪失感はなかったというのに……。
ルカとはもう会えないけれど、それでもルカは、別の世界で頑張っているんだ。
だから俺も頑張らないとな。
なんて――そんな清々しささえあった。
だから、胸がこんなにも痛いのは、ルカとちゃんとした送別が出来なかったこと。
そして――ここ最近ルカが胸に秘めていた憂いを、解決してあげることが出来なかったこと。
それが心残りとなって、俺の胸にぽっかりと孔を開けてしまったのだろう。
喉の痒みに悶えて掻きむしっても、疼きの正体は喉の内側にあるために、いくら引っ掻いても疼きが収まらない時のような、理不尽なまでの寂寥感に押しつぶされる。
理由を解明できない痛みは、理由が明白な痛みよりも深く心に突き刺さる。
手探りで枕を手繰り寄せ、ルカの面影を追いかけるように抱きしめてみるが、枕は所詮枕でしかなく、ルカの代替には成り得ない。
虚しさが加速するばかりだった。
我ながら女々しい奴である。
「(ルカの様子がおかしかったのは、別れの時期が分かっていたから、なのか……?)」
――じゃあ、なんで俺に相談してくれなかったんだ……?
ダメだ。
考えれば考える程、頭の中がぐるぐると渦巻き、未練となって、心の奥底に澱のように積み重なっていく。
酷いくらいに憂鬱だ。
今日、ちゃんと仕事が出来たのが不思議なくらいだ。
とはいえ、体が覚えているままに手を動かしていたら、いつの間にか業務が終わっていたので、〝ちゃんと〟出来ていたかは定かではないのだが……。
「そうだ……酒……買ったんだった」
普段は酒を飲まない俺だが、この鬱屈とした気持ちは酒の力を借りなければやってられないと、銭湯の売店でフルーツ牛乳の代わりに缶ビールを購入したのを思い出す。
番台ギャルはルカの不在に「えー、今日ルカきゅんいないの~」と残念がっていたが、浴室から上がった後、放心状態で普段飲まないアルコール飲料を買う俺を見て、「おじさん……なんかあったん? 話聞こか?」と心配そうに声をかけられてしまった。
犬猿の仲である番台ギャルからも気を使わせてしまったので、きっと相当酷い顔だったのだろう。
「まっず……っ」
1月の寒気でキンキンに冷えたビールは、酷く苦い。
20歳になったばかりの頃、興味本位で摂取した時振りに摂取したアルコールは、むしろ鬱屈を加速させてしまったようだ。
「酒に溺れることも出来ないのかよ……っていうか、気持ち悪い……」
メンタルが不安定の時に、臥した体勢で、馴れないアルコールを飲んだのが良くなかったのだろう。
腹の奥がカッと熱くなり、喉の奥から何かがせりあがってくる。
「やば……これ……ゲロだ……」
布団の上にゲロを吐いてはいけない――という最低限の理性は残っていたらしい。
俺は重い体を持ち上げ、小走りでトイレに向かい、便器の中に吐き出す。
「げえぇぇ……っっ!!」
恐る恐る便器の中を覗き込む。
胃液とビールしか出ていない。
「(ああ……そういえば、今日はメシを一切食べてなかったわ……)」
胃が空っぽの状態で酒飲んだら、そりゃこうなるよな……。
「え……俺……この状態……いつまで続くの……? 一生?」
おかしい。
たった半年だぞ?
たった半年預かっていたガキが、何も言わずに去っていっただけで、俺はなぜこれほどまでの精神的ダメージを負っているんだ?
それだけ、ルカの存在が、俺の人生の大半を占めていたということか……?
ルカの存在に依存していたってことか?
「うう……ルカ……」
便器から漂う、ツンとした胃液とアルコールの匂いが、鼻孔の奥を刺激して、じんわりと視界が歪んでいく。
自分がこんなにも脆い人間だったなんて知らなかった。
以前のように、ルカが隣にいる生活を送りたいだなんて贅沢は言わない。
もう1度、もう1度だけルカに会いたい。
そして、ちゃんとした別れの言葉を交わしたい。
それだけなのに……。
それだけが、俺の望みなのに……それさえも叶わないとは……。
胃液の浮いた水を流し、ズボンを履いたまま便座の上に座る。
もうこの便器は、2度と異世界に繋がることはないのに、俺は未練がましく、便座から立ち上がれないでいた。
このままいくら水面を見つめていても、2度とワームホールは現れないというのに。
たった半畳しかないこのスペースは、まるで俺を囲う棺のようにも感じられた。
「…………ん?」
――そう、思っていた。
手紙にはこう書かれてあった。
十分に復興が進み、ルナが繋いだ異世界へのゲートを閉ざす事になった――と。
しかしどうしたことか。
俺の太ももの隙間から覗く水面が、まだら色に輝き始めたではないか。
先ほど吐いたゲロが、排水管から逆流してきた――訳ではなさそうだ。
「ま、まさか……っ!?」
便座から少し腰を浮かせた――直後。
便器に展開されたワームホールから、褐色肌の小さな顔が飛び出してきて――
「ぷぎゃっ!?」
「んお゛ッ///」
――その鼻っ面が、吸い込まれるように俺のケツの割れ目に衝突した。




