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第9章 — 閉じたはずの絵

「治療は終わった。

でも、説明はまだ始まっていない。」




車内には、病院の匂いが残っていた。

薬品ではなく、待ち時間の残り香。


マルコスは、まだ痛む方の手を避けながら煙草に火をつけた。

背中の傷は、肉に刻まれた警告のように脈打っていた。


「“退院”って言葉、便利だな。

まるで“もう大丈夫”って意味みたいに使われる。」


ラジオは切ったまま。

沈黙が車内を満たしていた。

あの屋敷と同じように、許可もなく入り込んでくる。


カップホルダーのコーヒーは冷え切っていた。

だが、それしかなかった。

一口飲んで顔をしかめ、マルコスは車を走らせた。

目的地に向かうというより、ただ“そこ”から離れたかった。


「途中で死んだら、誰か俺のノート読んでから埋めてくれ。

せめて、バカだったって思われないように。」


街の灯りが流れていく。

誰も知らない。

一枚の紙のせいで、少年が死んだことを。


マルコスはアパートの前に車を止めた。

ゆっくりと降りる。

筋肉一つひとつと交渉しながら。


階段を上がり、ドアを開ける。

鍵をカウンターに投げ、コートを脱ぎ、椅子に沈む。


部屋は変わっていなかった。

壁のボード、机の上の紙、煙草と古いコーヒーの匂い。

すべてが、彼の帰りを待っていた。


マルコスは遺言書を手に取る。

見つめ、折りたたみ、机の中央に置いた。


「これだ。

少年を殺し、探偵を刺し、狂人に鏡と会話させた紙。」


煙草に火をつける。

煙がゆっくりと立ち上る。

まるで、考え込んでいるかのように。


マルコスはボードを見つめた。

名前、日付、走り書き。

すべてが揃っている。

だが、何かが足りない。


「これが“終わり”なら、脚本が雑すぎる。」


彼はノートを開き、ある記録を読み返した。


「被害者の部屋。抵抗なし。ティーカップは無傷。

廊下に足音。誰かがいた。誰かが逃げた。顔は見ていない。」


マルコスはその行を線で消し、下に書き足した。


「廊下にいたのは誰だ?」


煙草の煙が揺れる。

頭の中は、すでに加速していた。


「執事は俺と一緒だった。

ベアトリスは部屋に閉じこもって泣いていた。

アルトゥールはいつも後から現れる。

ヘレナは音楽に逃げていた。でも、嘘はうまい。

クララは…いつも近くにいて、静かで、何かを知っている。」


彼は録音の書き起こしを手に取る。

少年の声が、紙の上で囁いていた。


「クララは聞いた。執事も知ってる。でも誰も話さない。」


マルコスはクララの名前を丸で囲み、矢印を引いた。

だが、すぐに手を止めた。


「彼女は犯人じゃない。

でも、すべてを見た可能性がある。

遺言書を改ざんしたのを見たかもしれない。

俺が部屋に入る前に誰かがいたのを見たかもしれない。」


彼は日記を開き、あるページを探す。


「彼女は聞いた。見た。でも沈黙を選んだ。」


煙草の灰が落ちる。

背中の痛みが再び主張する。

だが、今の彼には関係なかった。


「誰かが逃げたのは、知りすぎていたからだ。

クララが逃げたなら、それは恐怖じゃない。

誰かを守るためだったのかもしれない。」


彼はボードを見つめた。

遺言書。ティーカップ。足音。


「絵はほぼ完成している。

でも、最後のピースが隠れている。

名前は…アルトゥール。」


彼は日記を再び開いた。


「アルトゥールは全部を冗談にする。

でも、彼は見ていない。聞いていない。

それが、彼の武器だ。」


別のページにはこうあった。


「喧嘩の後、彼は何も言わなかった。

ただ俺を見ていた。まるで、俺が消えるのを待っているかのように。」


録音の中の声も、同じことを言っていた。


「彼は俺を見ていた。

まるで、俺が長くないと知っていたかのように。」


マルコスはクララの名前を消さずに、矢印を引き直した。

それは、彼女が見たものの先にある名前だった。


「もし彼女が逃げたのなら、それは彼を見たからだ。

あるいは、彼が何かをすると知っていたからだ。」


彼は立ち上がり、冷えたコーヒーを飲み干した。

背中が悲鳴を上げたが、無視した。


「ルベンスは、あまりにも早く罪を認めた。

アルトゥールは、何も否定しなかった。

ただ、話題を逸らしただけだ。」


彼はボードを見つめた。

それは、鏡のようだった。

歪んだ真実を映していた。


「もし事故だったなら、誰かがそれを犯罪に変えようとした。

もし犯罪だったなら、誰かがそれを沈黙に変えようとした。」


遺言書を手に取り、再び机の中央に置いた。


「これだ。

少年を殺し、探偵を刺し、そして今も誰かを守っている紙。」


彼は携帯を取り出し、番号を押した。

隣町の警察署。

ルベンスを連れて行った警官。


「屋敷に来てくれ。

もう一人、連れて行くべき奴がいる。」


電話の向こうで、短い沈黙。

そして、ため息。


「本気か?」


「ああ。

そして、耳のいい奴を連れてきてくれ。

これから語られることは、報告書には収まらない。」


電話を切り、コートを羽織る。

遺言書、日記、最後の録音。

すべてをポケットに詰め込んだ。


車は一度咳き込んだが、走り出した。

道は短く感じた。

あるいは、目的がはっきりしていたからか。


屋敷は静かだった。

以前のような沈黙ではない。

今度は、何かを待っている沈黙だった。


警官たちが到着する。

マルコスは玄関で迎え、言った。


「全員を集めてくれ。

主室に。

語るべきことがある。」


ベアトリスは顔をこわばらせて現れた。

ヘレナはイヤホンを首にぶら下げていた。

クララは目を伏せたまま。

執事は、いつものように無表情。

アルトゥールは、まだ観客。


アルトゥールは、まだ観客のつもりで立っていた。

だが、マルコスの視線は彼を舞台に引きずり出した。


「ルベンスじゃない。

彼はただ、息子のしたことを隠そうとしただけだ。」


部屋が静まり返る。

ベアトリスは口元を押さえ、クララは目を閉じた。

執事は動かず、アルトゥールは表情を変えなかった。


「事故だった。

だが、誰かが現場をいじった。

遺言書を書き換え、探偵を殺そうとした。

守るために。」


マルコスは一歩前に出る。

警官たちは黙って見守っていた。


「語るべきなのは、今だ。」


アルトゥールは全員を見渡した。

そして、床を見つめ、マルコスに向き直った。


「俺じゃなかったらよかったのに。

本当に。

彼が押した。俺も押し返した。

彼は倒れた。

俺は…立ち上がると思ってた。」


誰も言葉を発さなかった。

マルコスは目を逸らさず、警官は手帳を閉じた。


「ルベンスは?」


「全部を隠そうとした。

俺のことも。

あんたのことも。」


沈黙が落ちた。

だが、それは空虚ではなかった。

重く、確かなものだった。


アルトゥールは椅子に座った。

ベアトリスは泣き始め、クララは震えていた。

執事は目を閉じた。


マルコスは窓辺に立ち、庭を見つめた。


「絵は完成した。

だが、この家はまだ息をしている。」


アルトゥールは静かに連行された。

罪人としてではなく、真実を背負った少年として。

ベアトリスは何も言わず、クララは沈黙を守った。

執事は、すべてを見届ける者のように立ち尽くしていた。


警察署では、マルコスが証拠を提出した。

録音、日記、遺言書。

すべてが揃っていた。

そして、すべてが終わった。


マルコスは署を出た。

空を見上げ、ポケットの中の紙に触れた。

背中の痛みはまだ残っていたが、それはもう記憶だった。


車に乗り込む。

エンジンをかける。

ラジオは切ったまま。

沈黙は、もう何も語らなかった。


道は開けていた。

目的地はない。

謎もない。

ただ、次の事件がまだ始まっていないだけ。




第一巻 終わり。

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