第7話 ― 沈黙の階段
「一発で、すべてが黙った。」
東棟の廊下は地図に載っていなかった。 マルコスはそれを知っていた。以前、屋敷の構造を描こうとしたことがあるからだ。 だが、家はまるで嘲笑うかのように、図面を拒んだ。 壁の裏にはさらに壁があり、扉の先には計算違いが待っていた。
「この家族は、埃まみれの悲劇博物館だな。」
ポケットの中で鍵が重く感じられた。 金属の重さではない。 それが開けるものの重さだ。
執事の話では、東棟の地下室は食堂の裏にあるという。 「裏」とは、かなり都合のいい表現だった。 マルコスは、木製の偽装パネルを見つけるまでに十数分かかった。 額縁や、わざとらしく掛けられたタペストリーの陰に隠されていた。
押した。動かない。 もう一度押す。カチリ。 木が軋みながら開いた。
階段は狭く、湿っていて、踏むたびに抗議するように軋んだ。 空気は重いだけではなかった。 沈黙が質量を持っているかのように、空間を満たしていた。
「やれやれ。秘密ってのは、狭苦しい地下室がつきものか。 機能不全家族のマニュアル通りだな。」
階段の先には、青い扉。 塗装は剥がれ、古びていた。
「青い棚か。隠す気ゼロだな。」
マルコスは鍵を取り出し、差し込んだ。 回す。カチリ。 錠が乾いた音を立てて開いた。
中には書類が山ほどあった。 だが、ひときわ目を引いたのは――遺言書。 修正跡。入れ替えられた署名。 一致しない日付。 声を上げずとも、偽造を叫んでいるような文書だった。
「死んでもなお、あの子は黙らされるのを拒んでる。」
マルコスが息を整えた、その時だった。 背後から足音が聞こえた。
ルベンスが現れた。 まるで待ち構えていた影のように。 冷たい目。硬直した体。 その後ろには執事――焦りと後悔を滲ませた顔。
「ここに来るべきじゃなかった。」 ルベンスの声は低く、感情がなかった。
マルコスは振り向かず、遺言書を見つめたまま言った。
「それでも来た。 お前が隠しきれなかった鍵を持ってな。」
ルベンスが一歩近づく。
「それはお前のものじゃない。」
「この家に“誰のもの”なんてあるか? 真実も、罪も。 誰かが引き出しを開けなきゃ、何も始まらない。」
執事が震える声で割って入った。
「マルコス様、私は…止めようと…」
ルベンスは無視した。 目はマルコスに釘付けだった。
「お前は分かったつもりだろうが、何も分かっていない。 この紙は書かれるべきじゃなかった。 弟は遺言なんて残すべきじゃなかった。」
マルコスはゆっくりと振り向いた。 顔は青ざめていたが、声の調子は変わらなかった。
「この家族は、遺産じゃなくて病気として研究されるべきだ。」
――その一撃は、冷たく、静かだった。
背中にナイフが突き刺さる。 マルコスはよろめき、目を見開き、体が崩れ落ちた。
世界が暗転した。
意識が戻ったのは、雑音のような感覚だった。 まず音――ガレージの軋む音、床に擦れる体の音。 次に痛み――熱く、脈打ち、背中全体に広がる。 そして匂い――油、錆、そして古い香水の残り香。
マルコスはゆっくりと瞬きをした。 ガレージの光は容赦なく、冷たかった。 彼は縛られていた。 手首には荒い縄。 体は、忘れられた荷物のように引きずられていた。
ルベンスは独り言を呟いていた。 叫ぶことはなく、誰もいない相手に語りかけるような声だった。
「彼があの子に遺したのは間違いだった。 遺産は俺のものだ。ずっとそうだった。すべてが始まる前から。」
マルコスは指を動かそうとした。 痛みが走る。だが、感覚はある。まだ生きている。
「もし、あいつがあんなことをしなければ…」 ルベンスは言葉を止め、虚空を見つめた。 「こんなことにはならなかった。お前を消す必要もなかった。」
「出たよ、典型的なやつ。 罪悪感の処理失敗と声に出す妄想。 殺人犯の危機マニュアルってやつだな。」
マルコスは乾いた咳をした。 喉は焼けつくように痛み、背中の傷は脈打っていた。 だが、皮肉は健在だった。
「慰めになるなら、俺もここにいたくはなかった。 あの子は、喜んで遺産を渡すつもりだった。 でも、お前らが急ぎすぎた。 彼は、もう耐えられなかったんだ。」
ルベンスは顔を向けた。 目を見開いていた。
「彼はまだここにいる。死んでもなお。 俺を見てる。 ベアトリスは彼と話す。 彼女は、彼が返事をすると言う。」
マルコスはむせながら笑った。
「最高だな。意見を持つ幽霊か。 この屋敷、ついに心霊ドラマに突入か。」
ルベンスは近づき、マルコスの横に膝をついた。
「お前には分からない。 彼は俺を責める。 俺を責め続ける。 そして今、お前がそれを外に持ち出す。 語る。 残されたものを壊す。」
マルコスは疲れた目で彼を見た。
「壊したいわけじゃない。 ただ、理解したいだけだ。 でも、お前らは、答えをすべて脅しに変える。」
ルベンスは立ち上がった。 目は虚ろだった。 彼はガレージの扉へ向かい、勢いよく開けた。 夜風が吹き込み、森の匂いを運んできた。
「彼はそこにいる。 俺を呼ぶ。 挑んでくる。」 そう呟きながら、庭の小道へと消えていった。
マルコスは一人残された。 痛みは波のように押し寄せていた。 だが、頭はすでに出口を探していた。 縄、工具、何でもいい。
「これを生き延びたら、残業代請求してやる。」
小道の地面は不規則で、湿った葉と折れた枝に覆われていた。 マルコスは引きずられながら、石の一つ一つを背中で感じていた。 世界は痛みとめまいの中で回っていた。 ルベンスは意味不明な言葉を呟き続けていた。 まるで、隣にいる誰かと話しているかのように。
「彼はまだ俺に話しかける。 俺が失敗したって。 全部、俺のせいだって。」
マルコスは目を開けようとした。 背中の痛みは激しかったが、意識は鋭かった。
「これを生き延びたら、マニュアル書いてやる。 『狂人に拉致されても皮肉を忘れない方法』ってな。」
ルベンスは突然立ち止まった。 前方の茂みを見つめ、森からの返事を待っているかのようだった。 そして、何の前触れもなく、マルコスを地面に放り出し、木々の中へと消えた。
その後に訪れた沈黙は、ほとんど暴力的だった。
マルコスは体を動かそうとした。 手首の縄はきつかったが、完全ではなかった。 周囲を見渡す――石、金属片、何か使えるもの。
その時、軽い足音が聞こえた。 クララが茂みの間から現れた。 息を切らし、目を見開いていた。
「なんてこと…」 彼女は駆け寄り、膝をついた。 「彼にやられたの?」
「いや。これはちょっと乱暴な家族のハグってとこだ。」
クララはその皮肉を無視し、震える手で縄を解き始めた。
「今すぐ逃げて。彼が戻る前に。」
「遺言書なしで? 誰が殺したか、なぜかを示す唯一の証拠を置いて? クララ、俺は生き延びるために来たんじゃない。 解決するために来たんだ。」
クララはためらった。 目には涙が浮かんでいた。
「分かってる。でも、あなたがここで死んだら…誰も何も知らないままになる。」
その時、背後から足音が聞こえた。 二人は凍りついた。 執事だった。 小道の入り口に立ち尽くし、蒼白な顔でマルコスを見つめていた。
「私が…」 彼は唾を飲み込んだ。 「私が何とかします。行ってください。助けを呼んで。今すぐ。」
マルコスはクララに支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。 体の動き一つ一つが痛みを訴えていたが、意識は鋭かった。
「血を流しながらでも、俺はまだ伝令役か。 ついてないな。」
クララは彼を車まで連れて行った。 執事はその場に立ち尽くし、崩れかけた彫像のようだった。 マルコスは、頭に遺言書、背中に血を背負いながら、エンジンをかけた。
車が走り出す。 暗い道が待っていた。
エンジンは一度むせた。 マルコスは鍵を強く回す。 エンジンが咳き込み、そして唸った。 背中の痛みは絶え間なかったが、彼はもう、すぐに死なない痛みには慣れていた。
「もし道中で死んだら、誰か俺のノート読んでから埋めてくれ。」
道は前方に伸びていた。 暗く、標識もない。 ヘッドライトが闇を切り裂く。 クララと執事は後ろに残った。 それが勇気だったのか、絶望だったのか、マルコスにはまだ分からなかった。
遺言書、ナイフ、妄想。 すべてが頭の中で、壊れた扇風機のように回っていた。
車は速度を上げる。 マルコスはハンドルを握りしめ、意識を保とうとした。 横の森が揺れて見えた。 木々の間に、存在しない影が動いているようだった。
そして、彼は見た。
路肩に立っていたのは――ルベンス。 憎しみの彫像のように動かず、 腕には散弾銃。 目は車を捉えていた。
マルコスは考える暇もなかった。 ただ、理解した。
乾いた銃声が響いた。 窓ガラスが紙のように砕け散る。 破片が飛び散る。
「完璧だな。 今日の締めに聴覚トラウマまで追加か。」
棚が開いた。
真実が崩れ落ちた。
血も一緒に流れた。
マルコスには結論を出す暇なんてなかった――ただ、生き延びるだけ。
それでもなお、妄言を聞かされ、偽造された書類を抱え、武装した亡霊から逃げる羽目になった。