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第6話 ― 青い棚

「それを開ければ、もう戻れない。」



部屋にはまだ埃と記憶の匂いが漂っていた。 カーテンは閉じたまま。まるで窓を開ければ、真実が逃げてしまうかのように。


ヘレナは本棚のそばに立ち、何年も触れられていないような箱をいじっていた。 マルコスは黙って見守っていた。


「彼が残したのは、それだけじゃないの」 彼女の声は、ほとんど聞こえないほどだった。


箱の中から、小さなポータブルレコーダーを取り出した。古いラジオとは違う。 傷だらけで、電池の蓋はテープで留められていた。


「これ…誰にも見せたことがないの」 ヘレナは座り、まるで薄いガラスのようにレコーダーを抱えた。 「彼がここじゃない場所で録音したの。すべてが起こる、前の日に」


マルコスはノートを手に取り、書く準備をした。


再生ボタンが押された。 最初にノイズが流れ、すぐに彼の声が現れた。 他のテープよりも低く、急いでいるような口調だった。


「これを聞いてるってことは、俺の予想通りになったってことだ。 奴らは書類をいじる。遺言だけじゃない。 ある場所がある…ここじゃない。 俺が言えなかったものを、そこに隠した。 見つけられたら、すべてが崩れる。 でも誰も探さなければ、奴らの物語が勝つ」


背景に急ぎ足の音。ドアが閉まる音。


「ルベンスを探すな。奴は嘘をつく。 クララを探すな。泣いて、黙るだけだ。 場所を探せ。ヒントを残した。青い棚の中だ」


テープは突然終わった。まるで切られたように。


マルコスは最後のテープと古いラジオを思い出した。 彼はそれぞれに違う警告を残していた。 本当に注意深く聞いていなければ、意味がわからないように。 だからクララは、黙っていても多くを知っていたのだ。


「青い棚?」 マルコスが尋ねた。


ヘレナは答えなかった。 レコーダーを見つめていた。まるで、まだ何か語り出すのではと恐れているように。


マルコスはノートを強く閉じた。 この家に来てから初めて、沈黙でも記憶でもない何かが現れた。 それは“運命”だった。


ベアトリスの部屋へ続く廊下は、以前よりも長く感じられた。 床は軋み、空気は重く、歩くたびに警告のような音が響いた。


ドアは開いていた。 ベアトリスは椅子に座ったまま。 手には同じハンカチ。 だが視線は床ではなく、反対側の壁を見つめていた。 まるで、誰にも見えない何かを見ているように。


「青い棚」 マルコスは前置きなしに言った。 「どこにある?」


彼女は瞬きをするまで時間がかかった。 まるで、深い夢から抜け出す必要があるかのように。


「そんな棚、ここにはないわ」


「じゃあ、彼は嘘をついた?」


ベアトリスは短く、苦笑に近い笑いを漏らした。


「彼は嘘をつかなかった。 ただ…いつも分かりやすく話すわけじゃなかったの」


マルコスは一歩前に出た。


「彼は、あなたが知ってるって言ってた」


ベアトリスはハンカチを握りしめた。 指先は白くなっていた。


「知ってる…でも言えない。 口を開いたら、奴らに喰われる」


マルコスは心の中でメモした。 「ベアトリス:秘密は防御。真実よりも恐怖が勝る」


彼女は嘘をついていない。 ただ、沈黙というゲームの中で生き延びているだけだった。


マルコスはさらに近づき、彼女の目線まで腰を下ろした。


「彼は言ってた。青い棚の中のものが見つからなければ、奴らの物語が勝つって。 “奴ら”って、誰のこと?」


ベアトリスは視線を逸らした。


「ルベンス。クララ。 そして…沈黙で得をした人たち、みんな」


マルコスはノートに書きながらも、声の調子は崩さなかった。


「あなたは、あの会議にいたの?」


「いいえ。でも、聞いてた。 時々…見るより、聞く方が辛いのよ」


沈黙が広がった。 だが、それは空虚ではなかった。 言葉が閉じ込められているような、重さがあった。


「ベアトリス…」 マルコスは立ち上がりながら言った。 「その棚に、何があったんだ?」


彼女はようやく彼を見た。 その一瞬、マルコスは彼女の瞳に“恐怖”を見た気がした。


「時には、大事なものほど隠されない。 誰にも探されないように、見える場所に置かれるの」


マルコスは、これ以上は聞き出せないと悟った。 だが同時に、“青い棚”は確かに存在する。 そして彼女は、その場所を正確に知っている。


一階の廊下は薄暗く、ゲストルームの近くにある弱い電灯だけが灯っていた。 クララの部屋のドアは少し開いていて、石鹸とコーヒーの香りが廊下に漂っていた。


マルコスは軽くノックした。


「入っていいわよ」 彼女の声は低く、疲れたようだった。 だがその疲れの奥には、抑えられた“恐れ”があった。


部屋は小さく、壁は裸のまま。 片隅にシングルベッド、古びた棚。 クララは椅子に座り、制服の裾を縫っていた。 マルコスの目を避けながら。


マルコスはドアを閉めた。


「最後のテープで、君の名前が出てきた。 被害者は、君が計画を知っていたと言ってた」


針が空中で止まった。 クララは深く息を吸い、目を上げずに言った。


「ここでは、いろんなことが耳に入る。 でも、全部が口に出していいわけじゃない。 ある秘密は…人を殺すのよ、マルコス先生」


「彼は君を信じてた」


「私も彼を信じてた…」 彼女はため息をつき、生地を膝に置いた。 「…でも、信頼じゃ生活はできない。 沈黙は、無実を守ってくれない」


「だから黙ってたのか?」


「黙ってたのは、ここに残るため。 寝る場所を守るため。 路上に捨てられたくなかったから」


「君なら止められたかもしれない」


彼女は笑った。 だが、それは喜びのない笑いだった。 目には涙が浮かんでいた。


「使用人に何かを止める力なんてない。 従うだけ。 そして、できる時に生き延びる。 でも、生き延びることは、無実とは違う」


マルコスは心の中でメモした。 「クララ:受動的な証人。恐れによる沈黙。正義よりも生存」


ドアの前まで来たとき、クララが囁くように言った。


「それを最後まで追えば…彼と同じになる。 そして、誰もあなたの名前を覚えていないわ」


マルコスは立ち止まり、その警告の重みを受け止めた。 そして廊下を進んだ。 残された言葉の一つ一つが、彼の背に重くのしかかっていた。


図書室は薄暗い光に包まれていた。 執事はいつものように正確に本を並べていたが、マルコスが入ってくると手を止めた。


「夜にここへ来るとは、珍しいですね」


「君が自分の物じゃないものを保管するのも、珍しい」 マルコスは近づいた。 「鍵を探してる」


執事は本に目を落としたまま、言葉を慎重に選んだ。


「私の手を通る鍵は多い。 だが、すべてが同じ重さを持つわけではない」


「これは違う。青い棚を開ける鍵だ」 マルコスは一拍置き、沈黙を広げた。 「相続人が証拠を隠していた、あの棚だ」


執事は手にしていた本を離した。 それは机の上に鈍い音を立てて落ち、ほぼ空の空間に響いた。


「クララは…余計なことを言ったな」 彼は呟いた。


「クララは必要なことを言った。 次は、君の番だ」


執事は最も高い本棚へと歩き出した。 その一歩一歩が、警告のように響いた。 彼は擦り切れた表紙の分厚い本を引き出し、開いた。 中には、テープで留められた小さな鉄の鍵があった。


「彼らへの忠誠心で保管していたわけじゃない。 いつか、誰かが開ける勇気を持つと信じていたからだ」 彼の目は揺るぎなかったが、長年の沈黙の影を宿していた。


マルコスは鍵を手に取り、冷たい金属の重みを感じた。


「棚の場所も教えてくれるか?」


「東棟の地下。食堂の下だ。 木製の偽装パネルの裏にある。 だが…」 執事は声を落とし、ためらった。 「…開ければ、もう戻れない」


マルコスは鍵をコートのポケットにしまった。


「戻るために来たわけじゃない」


図書室を出るとき、執事の視線が背中を追ってくるのを感じた。 それは秘密以上のものだった。 無言の警告。 青い棚を開けることは、決して戻れない一線を越えることだった。


廊下を歩きながら、鍵は鉛のように重く感じられた。 マルコスは知っていた。 そこにあるのは答えだけではない。 歴史からもう一つの名前を消そうとする“敵”が待っているのだ。

この章で最も存在感を放っていたのは、“沈黙”だった。 叫ぶこともなく、走ることもなく、弁解することもない。 それでも、すべての仕草、選択、そして黙殺を形作っていた。


マルコスが見つけたのは、簡単な答えではなかった。 そこにあったのは、恐怖と生存の層だった。 そして、本当の謎とは―― 隠されたものではなく、誰の目にも触れていたのに、誰も見ようとしなかったものなのかもしれない。


鍵は渡された。 棚は存在する。 だが、それを開けるということは、ただ真実を知ることではない。 ある扉を越えた者は、もう元には戻れない―― その事実を受け入れることなのだ。

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