第5話 — 沈黙は共犯者
「喪失とは鏡である。 誰も見ていない時の自分を映し出す。」
部屋は人でいっぱいだった。 だが、誰もそこにいたいとは思っていないようだった。
中央のテーブルには、コーヒー、ビスケット、そしてティッシュが並べられていた。 クララは疲れた目をしながらも、しっかりとした手つきでそれらを整えていた。
ベアトリスがゆっくりとした足取りで入ってきた。 顔は腫れ、目は赤く、手にはティッシュ。もう一枚はポケットに。 彼女は控えめに鼻をすすったが、その音は沈黙を鋭く切り裂いた。
ヘレナがその後に続いた。首にイヤホンをぶら下げ、バンドのロゴが入った黒いTシャツを着ていた。 その目は、生まれることも、ここにいることも望んでいないようだった。
アーサーはすでに座っていた。足を組み、攻撃的なほどの退屈そうな表情を浮かべていた。
ルーベンスは深いクマを目の下に刻み、まるで一晩で十年老けたように見えた。 彼の隣には兄の書類が入ったフォルダーが置かれていた。無言の記憶のように。
マルコスが立ち上がった。
「来てくれてありがとう。簡単なことじゃないのは分かってる。」
アーサーがぼそりと呟いた。
「人によっては、もっと難しいだろうな。」
ベアトリスが鼻をすすり、ヘレナは目を回した。
「アーサー、やめてくれ」と、ルーベンスがかすれた声で言った。
「ただの事実を言ってるだけだ。誰かが言わなきゃ。」
マルコスは無視した。
「ここに集まったのは、一人の少年が亡くなったからだ。 どうして、何があったのか、誰も正確には知らない。 だが、何かがおかしかったことは、全員が分かっている。」
ベアトリスはティッシュを握りしめた。ヘレナは皆から離れて座った。
「彼は繊細だった」と、ベアトリスが震える声で言った。 「ずっとそうだった。小さい頃から。」
「誰も、彼が沈んでいくのに気づかなかったのか?」と、マルコスが尋ねた。
ベアトリスは身を縮めた。
「私…私は気づこうとした。でも彼は心を閉ざしていて…私も、いろいろあって…」
アーサーが乾いた笑いを漏らした。
「見栄を張ることが最優先だったからな。この家では。」
ヘレナが彼を見た。
「まるで自分が皆よりマシだって言いたげね。」
「マシじゃない。ただ、目を背けてないだけだ。」
ルーベンスが顔を手で覆った。
「兄を失った。そして今度は甥を。たった一週間で。」
ベアトリスが強く鼻をすすった。クララがティッシュを差し出したが、彼女は断った。
「私は責められるために来たんじゃない」と、ベアトリスが少し強い声で言った。 「私は喪に服している。ここは裁判所じゃない。」
マルコスが近づいた。
「裁判所じゃない。だが、共犯者で満ちた部屋だ。」
ベアトリスは立ち上がった。
「私はこんな話、聞きたくない。少なくとも今日は。」
「じゃあ、いつ聞くんだ?」とアーサーが問いかけた。
彼女は答えず、素早く部屋を出ていった。 ティッシュを握りしめ、それがまるで盾のようだった。
ヘレナは扉を見つめ、それからマルコスに目を向けた。
「彼女は話さないよ。いつもそう。泣くだけで、世界が察してくれるのを待ってる。」
マルコスはうなずいた。
「君は?話す気はあるか?」
ヘレナは肩をすくめた。
「私は聞いてた。ずっと。でも誰も、私に聞こうとしなかった。」
ルーベンスが彼女を見た。
「彼が言ってたこと、聞いてたのか?」
「彼が言わなかったことを、聞いてた。」
沈黙。
マルコスは椅子に腰を下ろした。
「じゃあ、そこから始めよう。語られなかったことから。」
アーサーは腕を組んだ。
「長い朝になりそうだな。」
ベアトリスが去ったことで、部屋は少し空いたように見えた。 だが、空気の重さは変わらなかった。まるで彼女が喪をそのまま残していったかのように。
マルコスはヘレナを見た。
「君は“彼が言わなかったことを聞いた”と言ったな。それを説明してくれ。」
ヘレナはイヤホンをいじりながら、今にもそれを耳に戻して逃げ出したいような仕草をした。
「彼は独り言を言ってた。時々録音してた。時々、ただつぶやくだけ。でも私は聞いてた。」
アーサーが鼻で笑った。
「誰だって独り言くらい言うだろ。犯罪じゃない。」
「それだけじゃなかった」とヘレナが言った。 「彼は、誰かに返事してるみたいだった。」
ルーベンスが眉をひそめた。
「家の誰かか?」
「分からない。でも一度…彼がこう言うのを聞いた。“話せない。理解してもらえない。”」
マルコスが身を乗り出した。
「それはいつのことだ?」
「全部が起きる、二日前くらい。」
「それで、何も言わなかったのか?」
「ただの発作だと思った。彼にはそういうのがあったし。誰も、聞こうとしなかったから。」
アーサーが腕を組み直した。
「聞いてたって、気にするほどじゃなかったんだろ?」
「じゃああんたは?いつも彼を馬鹿にしてたじゃない。」
「彼はただの劇場型だったからだ。」
「違う。彼は助けを求めてた。」
マルコスが割って入った。
「彼は録音してたんだろ?そのテープ、まだあるか?」
ヘレナはためらった。
「たぶん。ラジオの中か、リュックの中。でも、まだ残ってるかは分からない。」
ルーベンスが立ち上がった。
「聞きたい。今すぐ。」
マルコスが彼を見た。
「今になって?」
「必要なんだ。理解するために。…自分が失敗したかどうか、知るために。」
アーサーがぼそりと呟いた。
「ネタバレすると、失敗してるよ。」
ルーベンスは何も言わなかった。
ヘレナは部屋を出ていき、数分後に古いラジオとリュックを持って戻ってきた。
「ここに一本ある。でも、ちょっと劣化してる。」
マルコスがラジオを手に取り、ボタンを押した。 ノイズが走り、その後に彼の声が流れた。
「話せば、狂ってるって言われる。 黙れば、あと一日くらいは生き延びられるかもしれない。」
ルーベンスは目を閉じた。アーサーは床を見つめた。ヘレナは動かずに立っていた。
マルコスは心の中で思った。
狂気とは、他人が見ないふりをしているものを見てしまった時に与えられる名前だ。
テープは続いた。
「執事は知ってる。知らないふりしてるけど、知ってる。 クララも…クララも聞いた。思い出したくないだけ。」
マルコスは一時停止した。
「これは…すべてを変える。」
ルーベンスが彼を見た。
「どうするつもりだ?」
「いつも通りさ。掘り起こす。骨が見つからなければ、沈黙を掘り返す。」
アーサーが立ち上がった。
「ご自由に。ここじゃ、沈黙すら嘘をつく。」
図書室は静まり返っていた。クララが本を開いたまま、読まずに座っていた。 執事は几帳面に本棚を整理していた。
マルコスはノックもせずに入ってきた。
「話がある。」
クララは目を上げたが、何も言わなかった。 執事は手を止めず、本を並べ続けていた。
「録音を聞いた。彼は言ってた。君が知ってるって、執事。 そしてクララも何かを聞いた。でも、思い出したくないだけだって。」
執事は手を止め、ゆっくりと振り向いた。
「若様は色々なことを口にしていました。 すべてが意味を持っていたわけではありません。」
「でも、いくつかは意味があったんでしょう?」
クララは本を閉じた。
「彼は被害妄想に取り憑かれてた。 皆が彼に対して陰謀を企んでると思ってた。」
「そして…実際に企んでいたのか?」
沈黙。
マルコスが一歩近づいた。
「彼は“黙っていれば、あと一日生きられるかもしれない”と言っていた。 それは妄想じゃない。恐怖だ。」
執事は背中で手を組んだ。
「この家では、恐怖はありふれたものです。 彼だけのものではありません。」
「何を恐れていた?」
「本当の自分を見られることです。」
クララが立ち上がった。
「私は…聞いたの。廊下での会話。 彼は誰かと話していた。でも見に行ったら…誰もいなかった。」
「何を話していた?」
「“真実は遺言書には収まらない”。 “遺産なんて、うまく語られた嘘にすぎない”って。」
マルコスは心にメモを取った。
「それを、なぜ今まで話さなかった?」
「この家では、話すことはそのまま裁きに繋がるの。」
執事が近づいた。
「若様は知りすぎていた。 そして、それをどう背負えばいいか分からなかった。」
「君たちは、その重荷を一緒に背負ったのか?」
「いや、隠す手伝いをした。」
マルコスは二人を見据えた。
「じゃあ、彼は狂っていたわけじゃない。」
クララは床を見つめた。
「違う。ただ、孤独だった。」
執事が低く呟いた。
「孤独になると、真実さえも妄想に見えてくる。」
マルコスは図書室を後にした。 答えよりも疑問が増えたが、ひとつだけは確かだった。 彼らの沈黙は無知ではなく、“選択”だった。
部屋は暗かった。 スタンドライトの明かりだけが灯り、クララが緊張した面持ちで座っていた。 ヘレナはその隣でラジオを握りしめていた。 マルコスは立ったまま、まるで法衣を纏わない裁判官のようだった。
「もう一本テープがある」とヘレナが言った。 「リュックの奥から見つけた。彼が前日に録音したもの。」
クララは目を閉じた。
「聞かなくていい。」
「聞く必要がある」とマルコスが言った。 「もう沈黙は誰も守ってくれない。」
ヘレナがボタンを押した。 若様の声が流れた。先ほどよりも、はっきりと、力強く。
「クララは知ってる。彼女は見た。彼女は聞いた。 でも、彼女は黙ることを選んだ。 話せば、家族の名前が灰になるから。」
クララは身を縮めた。
「彼女はそこにいた。執事が書類を渡した時。 遺言書を“調整する”と言われた時。 彼女はすべてを聞いていた。」
マルコスはクララを見た。
「君は、改ざんの場にいたのか?」
クララは答えなかった。
「彼女は言った。“関わらないで”。 でも、どうやって関わらずにいられる? 消されるのは、僕の名前なんだ。」
テープが止まった。
沈黙。
マルコスが近づいた。
「君は知っていた。遺言書が改ざんされたこと。 彼が相続権を失うこと。すべてが隠されること。」
クララはついに口を開いた。
「守ろうとした。 でも彼は守られることを望まなかった。 彼は、正義を求めた。」
「そして君は沈黙を選んだ。」
「この家では、正義はただの美しい言葉。 沈黙こそが、生き延びる術なの。」
ヘレナがクララを見た。
「全部、止められたかもしれない。」
「違う。私にできたのは…彼と一緒に死ぬことだけ。」
マルコスは深く息を吸った。
「もう皆が知っている。 沈黙は共犯者じゃない。 被告人だ。」
クララは立ち上がり、二人を見つめた。
「ならば、裁きを受けましょう。」
彼女は部屋を出ていった。 ヘレナはラジオを止めた。 マルコスは虚空を見つめていた。
救いにはならない真実もある。 だが、尊厳を持って裁くことはできる。
この章では、沈黙が背景ではなく、ひとつの登場人物となった。 それはただ空間を包むだけでなく、行動し、隠し、守り、そして裁いた。
ここでの痛みは叫ばない。 それは囁きとなり、テープに残され、途切れた言葉や逸らされた視線に潜む。 登場人物たちはそれぞれの“真実”を抱えているが、どれも完全ではない。 亡き彼は、姿はなくとも声で存在し、皆の恐れと過ちを繋ぐ糸となった。
恐れて黙ったことは、やがて罪となる。 正義のために語ったことは、関係を壊す刃となる。
この章は、簡単な答えを与えてはくれない。 だが、ひとつの問いを残していく。 私たち自身の物語の中で、沈黙が共犯者だったことは、何度あっただろうか?
読んでくださって、ありがとうございました。 次回の話で、誰かがついに語ることを選ぶかもしれません。