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第4話 ─ 家には目がある

「隠れない秘密もある。 …それらは、ただ見ている。」



朝は、少しだけ明るく感じられた。 だが、屋敷は違った。


マルコスは廊下を歩いていた。 まるで誰かに後をつけられているかのように。 ラジオは切られ、日記はしまわれていた。 それでも、誰かに見られているような感覚は消えなかった。


階段の軋みは、以前より静かだった。 それとも、ただ演技しているだけか。


居間では、クララが床を拭いていた。 短く、慎重な動き。まるで秘密を起こさないように。 執事は、誰も読まない本を並べ直していた。 アーサーは姿を見せなかった。 皮肉を盾にする必要のない場所に、隠れているのかもしれない。


マルコスは、家長の肖像画の前で立ち止まった。 硬い眼差し。笑みのない口元。 すべてを見ていながら、何も語らない表情。


「この家には目がある」 彼はつぶやいた。 「そして、まばたきはしない」


クララが驚いたように顔を上げた。


「…ご主人様?」


「いや、独り言だ。声が小さすぎたかもな」


彼は書斎へ向かった。 扉は半開き。 あの“跡取り”が見つかった場所。 ソファの肘掛けには、まだカップが置かれていた。 まるで、誰かの帰りを待っているかのように。


マルコスは本棚に近づき、指先で背表紙をなぞった。 古びた一冊で手を止め、引き抜く。 その奥に、小さなカメラが隠されていた。 ソファに向けて、静かに構えられていた。


「…ビンゴだな」


彼は執事を呼んだ。


「これ、お前のか?」


執事の顔が青ざめる。


「いえ、ご主人様。見たこともありません」


「誰かは見た。誰かは、録っていた」


マルコスはカメラを手に取った。 小型で、目立たない。 だが、電源は入っていた。


「録画されてるか?」


「…わかりません、ご主人様」


「…今、わかるさ」


マルコスはカメラを居間へ持っていき、 手持ちのラップトップに接続した。 画面が点灯。 短い映像が並ぶ。 日付は、最近のものばかり。


マルコスはクリックした。 映し出されたのは書斎。 跡取りが一人で座っている。 やがて、ルベンスが入ってくる。 口論が始まる。 音声はない。 だが、動きがすべてを語っていた。


ルベンスが指を差す。 跡取りが身を引く。 ルベンスは出ていく。 跡取りは残る。 カップを手に取る。 見つめる。 飲まない。 ソファに寄りかかる。 目を閉じる。


マルコスは映像を一時停止した。


「…彼は飲んでいない。 でも、誰かはそう見せたかった」


クララが近づいてきた。


「昨日の映像ですか?」


「そうだ。 そして、これが屋敷の“目”が見たものだ。 さて…この目が見ていることを、誰が知っていたかだな」


マルコスは執事を見た。


「誰がこれを設置した?」


「…わかりません。誓って」


「じゃあ、誰かがこの家の“物語”を、 始まる前から見ていたってことだ」


彼は画面を見つめた。 跡取りは動かない。 カップはそのまま。 沈黙が重くのしかかる。


「この家には目がある。 そして今…証拠もある」


マルコスは三度、映像を再生した。 一つ一つの動き、視線。 跡取りは、何かがおかしいと気づいていた。 だが、反応はしなかった。 まるで、見えないものと戦うことに疲れ果てていたかのように。


アーサーがノックもせずに部屋へ入ってきた。


「…お前、取り憑かれてるな」


「好奇心だよ。 そして、好奇心が過ぎると…危険に近づく」


アーサーは画面を覗き込んだ。 眉をひそめる。


「昨日の映像か?」


「そう。 そして、このカメラの存在を誰も知らなかった。 …知らないふりをしていたのかもしれないが」


アーサーは腕を組んだ。


「屋敷の誰かが仕掛けたと?」


「隠す場所を知っていた者。 そして、何を待つべきかも知っていた者だ」


マルコスは映像を止め、 アーサーを見つめた。


「…ルベンスについて話してくれ」


「…彼がどうかした?」


「存在してることしか知らない。 家長の弟。跡取りの叔父。 そして、姿を消した」


「出ていったんだ。 すべてが起こる前に」


「どこへ?」


「誰も知らない。俺もだ」


「お前は彼の息子だろ」


「それでGPSがついてるわけじゃない」


マルコスは立ち上がった。


「…何の前触れもなく?」


「そうだ。 部屋を空にして。 全部は持っていかなかった」


「それを不自然だとは思わなかったのか?」


「思ったさ。 でもこの屋敷じゃ、“不自然”が日常なんだ」


マルコスは廊下へ向かい、 鍵のかかった部屋の前で足を止めた。 冷たいドアノブ。 鍵は見当たらない。


だが、床には跡があった。 足跡。 新しい。


彼はしゃがみ込んで観察した。 一つは小さめ。 誰かが入った。 そして…出ていない。


マルコスは立ち上がり、ドアを見つめた。


「この家に“目”があるなら… この部屋には“記憶”があるかもな」


アーサーが近づいてきた。


「彼が入った。跡取りだ。 昨夜のことだ」


「…出てきた時は?」


「黙ってた。 そして、怯えていた」


マルコスはドアを見つめ、 それからアーサーに目を向けた。


「ルベンスは知っていたのか? 甥が怯えていたことを」


「知っていても、言わなかった。 知らなかったなら…それが理由で出ていったのかも」


「…あるいは、別の理由で」


アーサーは黙った。 その沈黙が、何より雄弁だった。


マルコスはルベンスの部屋を探っていた。 好奇心ではない。 必要に迫られて。 すべてが“演出”に見えてくる時、 人は真実を探さずにはいられない。


クローゼットは半分開いていた。 いくつかの服がなくなっている。 床には、投げ出されたファイル。 「逃げた」とも言えない。 だが、「すぐ戻る」とも言えない。


マルコスはファイルを開いた。 古い書類。 証明書、領収書、送られていない手紙。 宛先は家長。 手書き。 インクは滲み、感情は抑えられていた。


「もっと、そばにいるべきだった。 でも、お前はいつも誰も必要としていないように見せていた。 …俺は、それを信じすぎたのかもしれない」


マルコスは手紙を閉じた。 考える。


罪悪感は、安物の香水みたいなものだ。 誰もがつけているのに、誰も認めようとしない。


アーサーがドアのところに現れた。


「…部屋を荒らす趣味でも?」


「調査中だ。 でも“侵入”って言ってくれるのはありがたい。 ちょっと洒落て聞こえる」


アーサーは部屋に入り、本棚にもたれた。


「何を探してる? 宝の地図か? “ちょっと死にに行ってくる”って書かれたメモでも?」


「…理由でもいい。 あるいは、ただのミス。 俺はミスが好きだ。 告白よりも、よく語ってくれる」


アーサーは笑った。


「…お前、見た目よりずっと皮肉屋だな」


「そして、お前は思ってる以上にルベンスの息子だ」


アーサーは眉を上げた。


「それ、褒め言葉か?」


「事実だ。 …そして、警告かもしれない」


アーサーはベッドに近づき、床を見つめた。


「彼は何も言わずに出ていった。 俺にも。誰にも。 ただ…消えたんだ」


「…それで、探しに行かなかったのか?」


「…彼には、消える必要があったと思った。 時には、消えることだけが爆発しない方法なんだ」


マルコスはアーサーを見た。 それから、手紙に目を落とした。


「彼は、罪を感じていた。 兄に対して。 お前に対して。 …すべてに対してかもしれない」


「罪悪感は簡単だ。 難しいのは、それをどうするかだ」


マルコスは立ち上がった。


「お前は、言ってる以上のことを知ってる」


「そして、お前は、知ってる以上のことを言ってる」


沈黙が落ちた。 重く、だがどこか心地よい。


その時、玄関の扉が音を立てて閉まった。


足音。 重く。 聞き覚えがある。 …認めたくない者にとっては、なおさら。


マルコスは部屋を出た。 アーサーが後に続く。


居間には、一人の男が立っていた。 疲れた顔。 沈んだ目。 手にはファイル。 ――ルベンスだった。


誰も口を開かなかった。 彼も、何も言わなかった。


マルコスは心の中で思った。


沈黙が扉から入ってくる時、 そのすぐ後ろに、真実がついてくる。


ルベンスはアーサーを見た。 次にマルコス。 そして、兄の肖像画。


「…戻ったよ」


ルベンスは居間に立ち尽くしていた。 ファイルを握りしめたまま。 戻ってきたはずなのに、 どこへ戻ったのか分からないような顔。


マルコスは黙って見つめていた。 アーサーは壁にもたれ、腕を組んでいた。 その表情は、望んでいない再会を語っていた。


「…戻ったんだな」 マルコスの声には、感情がなかった。


「…ああ。 いくつか、片付けなきゃいけないことがあって」


「…片付いたのか?」


ルベンスはためらった。


「…全部じゃない」


マルコスは近づき、 ファイルに目を向けた。


「…死亡届か?」


ルベンスはうなずいた。


「兄のだ」


「…そして、君の甥のは?」


ルベンスの眉がひそめられた。


「…何?」


「彼は死んだ。昨日。オフィスで。 俺が着いた時、まだ体は温かかった」


沈黙。


ルベンスは目を伏せた。 ファイルが床に落ちた。 書類が散らばった。 まるで、誰も読みたくない告白のように。


アーサーは動かなかった。


「…おめでとう。 すべてに遅れてきたな」


ルベンスは息子を見た。


「…アーサー…」


「やめて。 後悔してる大人のドラマに付き合う気はない」


マルコスは腕を組んだ。


「14歳なのに、 40年分の失望を背負ってるような口ぶりだな」


ルベンスは膝をつき、 散らばった書類を拾い始めた。 その手は、震えていた。


「…知らなかった。 誰も…教えてくれなかった」


「誰も君がどこにいるか知らなかったからな」 マルコスが言った。 「…なぜ消えたのかも」


ルベンスは彼を見つめた。


「…時間が、必要だったんだ」


「時間は待たない。 ただ、死体を積み重ねるだけだ」


アーサーは鼻で笑った。


「誰かが君を必要とする時、君はいつも消える。 …才能みたいなもんだな」


ルベンスは黙った。 その沈黙は、どんな言い訳よりも重かった。


マルコスは暖炉に近づき、 日記帳を手に取った。 それを、散らばった書類の上に投げた。


「彼は書いた。録音した。感じた。 …でも誰も、耳を傾けなかった」


ルベンスは日記にそっと触れた。 まるで、爆発するかもしれないものを扱うように。


「…彼は、怖がっていたのか?」


「怖れも、怒りも、沈黙も。 全部抱えてた。 …でも誰も、見ようとしなかった」


アーサーは背を向けた。


「俺は見てた。 でも、ただのドラマだと思った。 …君のと同じような」


ルベンスは息子を見た。 それから、マルコスを。


「…これから、どうなる?」


マルコスは家長の肖像画を見つめた。


「これから? これから、この家が話し始める。 そして君は…聞かなきゃならない」


ルベンスはうなずいた。 だが、言葉はなかった。


マルコスは心の中で思った。


赦しを求めて戻る男もいれば、 戻る場所が他にない男もいる。


彼はアーサーを見た。 そして、すべてを見ていたクララを。


「…全員を集めろ。 明日から尋問を始める。 今度こそ――芝居抜きで」


アーサーは何も言わずに部屋を出た。 ルベンスは膝をついたまま。 クララはコーヒーを淹れに向かった。 執事は、いつものように音もなく姿を消していた。


マルコスは肘掛け椅子に座った。 日記を手に。 ラジオは止まっていた。 だが、残響はまだそこにあった。


「…これを聞いている誰かがいるなら―― 沈黙は、失敗したということだ」

記憶を保つ家もあれば、 記憶を見張る家もある。


この章で、登場人物たちは再会した――だが、それは癒しではなく、置き去りにされたものの重さだった。 甥の死、兄の沈黙、息子の軽蔑。 すべてが、古い家具に積もる埃のように蓄積されていた。 誰かが窓を開けるまで、見えなかっただけだ。


マルコス、アーサー、クララ―― 彼らは、ルベンスが語らなかったことを聞いていた。 そして家は、静かな存在として、すべてを聞いていた。 裁くことも、赦すこともない。 ただ、見ている。 家長の肖像画のように。 忘れられた日記のように。 止まったラジオのように――それでも、残響は消えない。


沈黙は、失敗した。 沈黙が失敗する時、それは誰かがついに聞く準備ができたということ。 あるいは、聞かれる準備ができたということ。


だが、聞くことは終わりではない。 それは――尋問の始まりだ。

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