第3話 — 嘘をつかない“残響”(エコー)
「真実は叫ばない。 ただ、繰り返す。 誰かが耳を傾けるまで。」
部屋は空っぽだった。 だが、静寂ではなかった。
風が窓を叩き、カーテンが揺れる。 まるで誰かがそこを通り過ぎたかのように。 マルコスは肘掛け椅子に座ったまま、 消えた暖炉の縁に日記を置いていた。
彼の視線は、家長の肖像画に向けられていた。 硬い眼差し。 欠けた微笑み。 問いに答えず、沈黙だけを返す者の表情。
マルコスは日記を手に取り、 ゆっくりとページをめくった。 あの言葉は、まだそこにあった。
「彼女はもう上の部屋で眠らない。 父親がまだそこにいると言っていた。 彼が話しかけてくると。 沈黙が返事だと。」
彼は日記をそっと閉じた。 まるで棺を閉じるように。
「沈黙が返事なら……誰かが問いすぎているってことか。」
立ち上がる。 庭を歩いた時のせいか、コートはまだ湿っていた。 湿った土の匂いに、安っぽい香水の残り香が混ざっていた。
窓辺へと歩み寄る。 踏みつけられた葉はまだそこに。 折れた枝。 誰かが出て行った――あるいは逃げた痕跡。
「ルベンス……」彼は呟いた。 「不在の父。死んだ甥。 そして、行き先のない車。」
ゆっくりと振り返る。 部屋が狭く感じられた。 秘密が空間を占めすぎているように。
アルトゥールが入ってきた。 断りもなく。 まるでこの家の主であるかのようにソファに腰を下ろす。
「独り言は終わった?それとも独演会の始まりか?」
マルコスは答えなかった。 ただ、見つめるだけ。
「お前の父親は、死体が冷える前に出て行ったのか?」
アルトゥールは眉をひそめた。
「知らない。見てない。聞いてもいない。」
「でも、音は聞いたんだろ?」
「車の音は聞いた。 でもここじゃ、どんな音も怪しく聞こえる。 沈黙ですら、罪を持っている。」
マルコスは近づいた。 まだ日記を手に持ったまま。
「彼は君のことも書いていた。 君が嘲笑っていたのは、恐怖をどう扱えばいいか分からなかったからだ、と。」
アルトゥールは笑った。 だが、そこに喜びはなかった。
「恐怖なんて、まだ何かを期待してる奴のもんだ。 俺はただ、これが早く終わることだけを望んでる。」
「これ?捜査のことか?」
「茶番のことだ。」
マルコスは再び、家長の肖像画を見つめた。
「彼も演技は上手かった。 死ぬまで、何も言わずに。」
アルトゥールは立ち上がり、暖炉の前へと歩いた。 日記を見下ろす。
「それを台本にでもするつもりか?」
「告白と韻を踏むなら、使ってもいい。」
アルトゥールはそれ以上何も言わず、部屋を出て行った。
マルコスはその場に残った。 ひとりきり。 だが、沈黙の中ではなかった。
風が再び窓を叩く。 カーテンが揺れる。 肖像画が、こちらを見返しているように感じた。
「死なないものもある。 ただ、誰かが耳を傾けるのを待っているだけ。」
マルコスは日記を胸に強く抱きしめた。
「なら、聞いてくれ。 俺は誰かを黙らせに来たんじゃない。」
二階の廊下は、以前よりも狭く感じられた。 マルコスはゆっくりと階段を上がる。 踏み板が、訪問者に文句を言うかのように軋んだ。
左の部屋からロックの音が響いてくる。 歪んだギター。 拳のようなドラム。 誰も聞きたくないことを叫ぶボーカル。
マルコスはドアの前で立ち止まった。 一度、ノックする。 反応はない。
もう一度、今度は強めに。
「ヘレナ」 声を張り上げることなく言った。 「話がある。」
音楽の音量が上がった。 まるで、それが返事であるかのように。
マルコスは一瞬、額をドアに押し当てた。 音が木材を震わせていた。
「慰めに来たわけじゃない。 責めに来たわけでもない。 ただ、君の兄が説明する時間を持てなかったことを、理解したいだけだ。」
沈黙。 そして、押し殺したような叫び声。
「帰ってよ!」
マルコスは動かなかった。
「彼は君のことも書いていた。 君が耳を塞いでいたって。 音量に逃げていたって。」
音楽が止まった。 突然。 まるで怒りのコードが引き抜かれたかのように。
「彼が書いたの?」
「書いた。しかも、かなりの量を。」
ドアが少しだけ開いた。 ヘレナが姿を現す。 赤く腫れた目。 首にかけたイヤホン。 その背後の部屋は、服が散乱し、破れたポスターが貼られ、薄暗い光が漂っていた。
「彼は書きすぎだった。 話すのは少なかった。 世界がヒントで理解してくれると思ってたみたい。」
「君は?理解できたか?」
彼女はためらった。 そして、ドアをもう少し開けた。
「入って。 でも、何も触らないで。」
マルコスは部屋に入った。 そこには、混乱と痛みの匂いが漂っていた。 隅には投げ出されたバックパック。 机の上には、古い小さなラジオ――カセットテープ付き。
「これ、動くのか?」
「時々ね。 彼は録音に使ってた。 声とか、考えとか。よく分かんないけど。」
マルコスは近づき、ボタンを押した。 テープが回り始める。 ノイズ。 そして、彼の声が流れた。
「これを誰かが聞いているなら……沈黙が失敗したってことだ。」
ヘレナは顔をそむけた。 マルコスは聞き続ける。
「この家は語る。 でも言葉じゃない。 匂いで、音で、欠落で語る。 そして、誰かが聞きすぎている。」
マルコスはテープを止めた。 ヘレナを見つめる。
「知ってたのか?」
彼女はゆっくりと頷いた。
「でも、ただの妄想だと思ってた。 彼は変だった。 父親がまだ家にいるって言ってた。 母親が彼と話してるって。 執事が何かを隠してるって。」
「君は?」
「私はただ、全部が止まってほしかった。 音が、ただの音楽であってほしかった。」
マルコスはラジオを見つめた。 そして、バックパックへ。 少しだけ見えていたノート――端が破れていた。
「見てもいいか?」
ヘレナはためらった。 そして、頷いた。
マルコスはノートを手に取り、ページをめくる。 絵。 断片的な言葉。 その中で、ひときわ目立つ一文。
「もし僕が死んだら、それは事故じゃない。 それは“応答”だ。」
マルコスはノートを閉じ、ヘレナを見つめた。
「彼は分かってたと思うか?」
「彼はいつも分かってた。 ただ、誰が“それ”を許すかは分かってなかった。」
マルコスは立ち上がり、ドアへと向かった。
「ありがとう。」
ヘレナはイヤホンを耳に戻した。 だが、音楽は流さなかった。
マルコスはノートを手に、階段を降りる。 ラジオの声が、まだ頭の中で響いていた。
階段を一歩ずつ降りながら、 その言葉がリフレインのように繰り返される。
「これを誰かが聞いているなら……沈黙が失敗したってことだ。」
リビングでは、アルトゥールが再びソファに座っていた。 クララは、いつものように立ったまま。 執事は動かず、まるで判決を待っているかのようだった。
マルコスはノートをテーブルに投げた。 乾いた音が響き、全員の視線が集まる。
「彼は分かってた。 書いた。 録音した。 でも、誰も聞かなかった。」
アルトゥールは眉を上げた。
「また紙か? 展示会でも開くつもりか?」
「パズルを組み立てるんだ。 そして君たちは、 “はまらないふりをしてるピース”だ。」
クララは身をすくめた。 執事は目をそらした。
マルコスは暖炉へと歩み寄る。 家長の肖像画は、以前よりも暗く見えた。 あるいは、日が沈みかけているせいかもしれない。 もしくは、空気が重くなってきたからか。
「彼は香水のことを話していた。 閉ざされた部屋のこと。 足音のこと。 “あちら側”と話す母親のこと。 音に隠れる妹のこと。 そして、振り返らずに出て行った父親のこと。」
アルトゥールが立ち上がる。
「俺の父は逃げたわけじゃない。 ただ……これにどう向き合えばいいか分からないだけだ。」
「君は?」
「俺は俺なりに向き合ってる。 皮肉の方が、セラピーより安いからな。」
マルコスはクララを見つめる。
「君は何かを聞いた。 恐怖を感じた。 でも、それは自分の頭のせいだと思った。」
クララはゆっくりと頷いた。
「でも違った。 それは“家”だった。 それは“沈黙”だった。 それは、誰も聞こうとしなかったものだった。」
執事が咳払いをした。
「旦那様……ルベンス様が戻られるまで、お待ちになるのがよろしいかと。 彼なら、きっと説明を――」
「説明? 彼は、遺体が冷える前に出て行った。 行き先も分からない。 それが説明か? それは“逃避”だ。」
アルトゥールは腕を組んだ。
「もし戻らなかったら?」
マルコスは肖像画を見つめる。
「なら、この家が彼の代わりに語るだろう。」
沈黙。
マルコスは肘掛け椅子に腰を下ろす。 テーブルの上にはノートと日記。 手には、まだラジオが握られていた。
「彼は言っていた。 もし死んだら、それは事故じゃない。 それは“応答”だ。」
アルトゥールが近づいてきた。
「何への“応答”だ?」
「無視されたすべてに。 黙殺されたすべてに。 君たちが見ないふりをしたすべてに。」
クララは泣き始めた。 小さく。 痛みすら、誰かの邪魔にならないように。
執事が、ためらいながら近づいてきた。
「旦那様……お伝えすべきことがございます。」
マルコスは彼を見つめた。 沈黙が重くのしかかる。
「言え。」
「ルベンス様は……出発前に、甥御と口論をされました。 書斎で。 かなり激しい言葉を交わしたと聞いております。 少年は泣きながら部屋を出て…… その後、亡くなっているのが見つかりました。」
マルコスは立ち上がった。
「それを今になって言うのか?」
「私は……重要ではないと思っておりました。」
「重要じゃない? それは“痛み”と“罪”を分ける境界線だ。」
アルトゥールは執事を見つめ、 そしてマルコスへと視線を移した。
「俺の父は……暴力的ではない。 でも、触れずに人を殺す方法を持ってる。」
マルコスはラジオを見つめ、ボタンを押した。 テープが回り始める。 彼の声が再び流れる。
「もし僕が死んだら、それは事故じゃない。 それは“応答”だ。」
マルコスは全員を見渡した。
「この家は語っている。 そして君たちは……ようやく耳を傾け始めた。」
彼は家長の肖像画へと向き直る。
「この家では……死者ですら、語るものを持っている。」
風が窓を叩く。 カーテンが揺れる。 クララはすすり泣き、 アルトゥールは沈黙し、 執事は頭を垂れた。
マルコスは立ったまま。 ラジオはまだ鳴っている。 テープは回り続ける。 そして、“真実”が、ついに音を立て始めた。
いくつかの家は秘密を隠さない――繰り返すのだ。 言葉ではなく、音、匂い、欠落で語る。 誰も耳を傾けなくても、語り続ける。
この章が語るのは、答えではなく、残響。 聞こえないふりをされたものが、何を残すか。 マルコスは慰めに来たのでも、責めに来たのでもない。 彼は、ずっと前から語られていたものに耳を傾けに来た。
沈黙が失敗するとき、それは声になる。 そして時に、痛みこそがマイクを見つけるのだ。