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第1話 ─ 死体だけが礼儀正しい

「答えを得るには、代価が要る。 それが血であれ、沈黙であれ──支払わねばならない。」


──またかよ……。 今週こそ静かに過ごせると思ったら、地図の端っこで誰かが死ぬ。

片手でハンドルを回しながら、もう冷めたコーヒーをもう片方の手で持っていた。 道は細く、曲がりくねっていて、両側は背の高い木々に囲まれている。

──「簡単な案件です」だとさ。 ──「死因の確認だけです」だとさ。

車窓の外に看板が流れていく。 「アカシアの谷へようこそ」

彼はため息をついた。

──花の名前の町かよ。 死神って、皮肉が好きなんだな。

遠く、丘の上。 木々の隙間から、あの屋敷が見えた。 黒く、古く、まるで彼を待っていたかのように。

探偵は砂利道の終点に車を止め、 鞄を取り、コートの襟を整え、屋敷を見上げた。

──さてと。 今回は、誰が誰を殺したんだ?

扉を開けた男は、痩せすぎていた。 髪は無理やり撫でつけたように、頭に貼りついている。

「マルコス探偵ですね?もっと……若い方かと」

探偵は笑ったが、目は笑っていなかった。

「俺は、もっと秘密の匂いがしない家を期待してたよ」

遺体は書斎の床に、半身をひねるように倒れていた。 争った形跡はない。 だが、ソファの肘掛けに置かれたままのティーカップが、別の物語を語っていた。

「これを淹れたのは誰だ?」

沈黙。 時計のチクタクが、まるで嘲笑のように響く。

「悲劇ですね」 そう言ったのは、長男の甥だった。

「全然」 探偵は目も向けずに返した。

マルコスはもう一度、遺体を見下ろした。 抵抗の跡はない。 ティーカップは、完璧なまま、そこにあった。

「発見者はあんたか?」 探偵は執事に尋ねた。

「はい、探偵様。今朝七時に。 扉は……少し開いておりました」

「誰も、何にも触れていないのか?」

「はい、探偵様」

探偵は本棚へ歩み寄り、埃をかぶった本の背に指を滑らせた。 一冊の地図帳の裏から、くしゃくしゃになった封筒を取り出す。 中は空だった。

「家の中を見せてくれ。案内を」

執事は一瞬、ためらった。

「どのお部屋をご覧になりますか?」

「死んだ奴が見ていたもの、全部だ。 寝室、廊下、庭も含めてな」

時計の音が加速しているように聞こえた。 まるで、時間が尽きかけているのを知っているかのように。

マルコスはソファの肘掛けに置かれたティーカップを見つめた。

「……これか。 妙に“さりげなさ”を演出しすぎたな」

そして、自分が数時間前に飲んだ冷めたコーヒーを思い出す。

「……俺は運がいい。 毒なんて──家を出る前に、もう飲んできた」

探偵は執事と目を合わせた。 執事はごくりと喉を鳴らす。

「他の人と話す前に……まずはこの家を見ておきたい」

「かしこまりました、探偵様」 執事は表情を変えずに答えた。

マルコスは階段を上がる。 一段ごとに、床がきしみ、家が文句を言っているようだった。

執事は扉を一つひとつ、慎重に開けていく。 まるで、何か恐ろしいものが出てくるのを警戒しているかのように。

「故人の寝室でございます」 塗装の剥がれた扉の前で、執事が立ち止まる。

「許可なく入室は禁止です」 その声は低く、まるで何度も繰り返してきた警告のようだった。

彼はゆっくりと扉を押し開けた。 部屋は薄暗く、空気は重い。 カビの匂いと、未亡人の安っぽい香水が混ざっていた。

探偵は肩をすくめた。

「許可を取りに来たわけじゃない」

部屋の中は、ほとんど乱れがなかった。 ただ一つ──机の上に開かれたままの手帳だけが、異物のようにそこにあった。 黄ばんだページに、乱雑な文字が並んでいる。

マルコスは手帳のページをざっとめくった。 内容を読むというより、何かを探すような動きだった。 そして──一枚、折りたたまれた紙が目に留まった。

彼はその紙を取り出し、そっと折り直して、何気なくポケットにしまった。

「……誰も、これを読んでないって言うのか?」 指先で紙を軽く叩きながら、まるで言葉が叫んでいるのを感じるかのように。

その時、寝室の外。 廊下に足音が響いた。 誰かの影が視界を横切り、角を曲がって消えた。

マルコスは眉をひそめた。 ──ゲームが始まった。

「巡回を続けますか?」 執事が静かな声で尋ねる。

探偵はうなずいた。 二人は慎重に部屋を出た。

執事はある扉の前で立ち止まる。

「こちらには入れません、探偵様。 奥様はこの部屋に戻りたくないと……ご主人との思い出が多すぎるそうで」

マルコスは食い下がろうとしたが、執事は譲らなかった。

二人は別の扉へ向かう。 マルコスがノブを回すが、扉はびくともしない。

「鍵は?」 そう尋ねた。

「誰が持っているのかは……分かりかねます」 執事の声には、わずかに戸惑いがにじんでいた。

二人が廊下を進んでいると── バンッ!と窓が激しく閉まり、浴室の方で音が響いた。 マルコスはすぐに反応し、音の方向に鋭い視線を向けた。

さらに進むと、また別の扉。 鍵がかかっている。

その下から、爆音のロックが漏れていた。 歪んだギター、重たいドラム── この屋敷の冷たい静けさとは、まるで別世界の音。

「……どうやら、邪魔されたくないらしいな」 マルコスはつぶやいた。 疑念が、じわじわと膨らんでいく。

二人は再び廊下を進む。 屋敷の静寂に、耳を澄ませながら。

浴室の前に到着。 執事が慎重に扉を開けると、 そこには陽の光が差し込む、明るい空間が広がっていた。 窓が開いており、風に揺れている。

マルコスは鋭い目で室内を見渡す。

「……こんな屋敷で、誰が窓を開けっ放しにするんだよ」 低くつぶやいた。

執事は肩をすくめ、マルコスの目を避けるように視線を逸らした。

マルコスはしばらく立ち止まり、 風に揺れるカーテンをじっと見つめていた。

──こんな古い屋敷で窓を開けっぱなしにするなんて、 無関心か……それとも、地獄への招待状か。 彼は目を細めた。

執事は何も言わず、背を向けて巡回を続けた。 マルコスはその後ろを歩く。 床がきしむたびに、屋敷の秘密が軋んでいるようだった。

寝室の前を通りながら、 彼は鍵のかかった扉、空っぽの部屋を観察していた。 何かが──どこかが──おかしい。 目には見えないが、確かにそこにある“脅威”。

この屋敷には、秘密が多すぎる。 そして、それを明かしたい者が……少なすぎる。

階段を下りながら、マルコスは思った。 ここは蛇の巣だ。 一歩ごとに、静寂が重く響く。

方向を定めようとしたその時── あの皮肉な声が聞こえた。

「やっと姿を見せたな? 一日中スーツの陰に隠れてるのかと思ったぜ」

マルコスは、かすかに笑いかけたが、 その言葉が喉に刺さり、表情が固まった。 足音を強めて踏み出す。 まるで「その舌、しまっておけ」と言わんばかりに。

──こいつ、自分が何を突いてるのか分かってない。 少しでも敬意があれば、黙ってるはずだ。

左の廊下を進み、屋敷の二つの客間の前を通り過ぎた。 その時──扉の向こうから、鋭い声が響いた。

「出てって!」

マルコスは扉の前で立ち止まり、手を上げて、ゆっくりと話しかけた。

「話がしたいだけだ。何があったのか、知りたい」

沈黙。 冷たく、重たい沈黙。 ──伝わったか?

彼女はもう、俺のことなんて見ていない。 俺も、世界も、もうどうでもいいんだろう。

マルコスはもう一度、声を落として言った。

「君の力が必要なんだ。 この真相を、明らかにするために」

また沈黙。 返事はなかった。 マルコスはそれ以上、無理に踏み込まなかった。

右の廊下に戻り、二人は食堂を通って、台所へと向かった。 そこでは、新人のメイドが、かろうじて笑顔を保ちながら、緊張を隠そうとしていた。

その隣で、執事が静かに様子を見ていた。 その目には、屋敷の長い歴史が滲んでいた。

「彼女か? まだ半年も経っていない。 この屋敷の“ルール”も、まだ分かっていないだろう」

マルコスは彼女に一瞥を送り、唇を引き結んだ。

──この屋敷では、 一歩踏み出すたびに、嘘の迷宮に沈んでいく。

マルコスは深く息を吸い込んだ。 これから待ち受けるものに備えるように。

彼はメイドの前で立ち止まった。 彼女は視線を逸らし、指先でエプロンの裾をいじっていた。

「何か……気になることでもあるのか?」 マルコスの声は落ち着いていたが、芯のある口調だった。

彼女はごくりと喉を鳴らし、震える声で答えた。

「……この家、探偵様……ちょっと、変なんです。 説明しにくいことが、いろいろあって……」

その言葉を遮るように、隣の執事が口を挟んだ。 その目には、どこか守るような色があった。

「彼女はまだ慣れておりません。 あまり詮索なさらぬ方がよろしいかと」

探偵はうなずき、踵を返して台所の出口へ向かった。

「庭を見て回ろう。 この家の隅々まで、目を通しておきたい」

勝手口の扉がきしみながら開いた。 朝遅くの冷たい空気が、こもった室内に流れ込んでくる。

庭には、踏みつけられた葉と折れた枝が、 不自然な軌跡を描いていた。 まるで誰かが慌てて通り抜けたかのように。

マルコスはしゃがみ込み、潰れた葉の上に手をかざした。

「……妙だな」 誰が、何のために、こんな足跡を残していった?

二人はガレージまで足を運んだ。 扉は開け放たれ、陽の光が古びた壁を照らしていた。 床には、つい最近ついたタイヤの跡が残っている。

「誰か、もう出て行ったのか?」 マルコスは床の跡を見つめながら、執事に尋ねた。

執事は落ち着いた声で答えたが、 その言葉の奥には、わずかな動揺がにじんでいた。

「ルーベンス様の車です。 ですが……出て行くところは見ておりません。 いつ戻るかも、分かりかねます」

マルコスは深く息を吐き、開け放たれたガレージを見つめた。

「こんな屋敷で、ガレージを開けっぱなしにするなんてな…… 誰にも知らせずに、ってのも妙だ」

──誰かが、何かを隠そうとしている。 あるいは、俺の目を逸らそうとしている。

二人は屋敷の側面にある扉から中へ戻った。 長い廊下と、静寂が響くホール。 この屋敷は、すべてを見届けてきた者のように、ただ静かに待っていた。

マルコスは執事を見た。 執事もまた、無言で彼を見返す。 その目が語っていた──「この奥には、まだ何かある」と。

「……続けよう」 マルコスは拳を握りしめた。 「この家じゃ、答えを一つ見つけるたびに、 もっとでかい謎が顔を出すらしい」

彼は踵を返し、短気な将軍のように命じた。

「全員、居間に集めてくれ。 ──家族劇場の幕を開けよう」

執事は一瞬ためらったが、無言でうなずき、廊下の奥へと消えていった。 その足音が遠ざかるたびに、屋敷の沈黙がさらに重くのしかかってくるようだった。

しばらくして戻ってきたのは、執事ではなかった。 代わりに現れたのは、エプロン姿のメイド。 顔は青ざめ、まるで死人が起き上がるのを見たかのような表情だった。

「た、探偵様……」 声は震えていた。 「ヘレナ様を呼びに行ったんですが……あの、イヤホンをつけてて……それで、“また誰か死んだからって、部屋から出る気はない”って叫ばれて……」

「……“また”?」 マルコスは片眉を上げた。 「この家じゃ、死が日常茶飯事ってわけか?」

メイドはごくりと喉を鳴らし、必死に平静を保とうとしていた。

「それと……ベアトリス様は鍵をかけて……“すべてを失った”と…… “息子がすべてだった”と…… “話したいなら、あの世と話せ”って……」

「……詩的だな」 マルコスは腕を組み、ぼそりとつぶやいた。 「夫の次は息子か。 この家に必要なのは慰めじゃなくて──エクソシストだな」

メイドはうつむき、明らかに動揺していた。 その背後から、執事が戻ってきた。 まるで、自分がこの状況の元凶であるかのように、気まずそうな顔で。

マルコスはため息をついた。 この茶番には、もううんざりだった。

「驚いたな。 こんなに人がいるのに、誰一人まともに出てこない。 母親は永遠の悲劇に閉じこもり、娘は叫び散らし、 お前たちは──まるで昭和のラジオドラマの脇役だ」

「最善は尽くしております、探偵様……」 執事はおずおずと答えた。

「最善? そのテンションで? まるで電気代の値上げでも発表してるみたいだな」

その時、居間の扉の方から声が飛んできた。

「文句はインテリアだけにしとく? それとも、まだ弾は残ってる?」

マルコスはゆっくりと振り返った。 その顔を見た瞬間、まるで二日酔いの朝に目覚ましが鳴ったかのような、うんざりした表情を浮かべた。

「またお前か……」 そう言って、ため息混じりに続けた。 「まだ名前も聞いてなかったな。今が“適切なタイミング”ってことにしとくか。で、なんだっけ?」

「アルトゥールです」 男は肩をすくめ、すでに礼儀なんて信じていないような笑みを浮かべた。 「でも“お前”って呼び方、嫌いじゃないですよ。その調子でどうぞ」

「アルトゥール……」 マルコスは繰り返した。 「故人の甥だな。 悲劇の舞台に立つには近すぎて、 観客席から茶化すにはちょうどいい距離ってわけか」

「“劇場”って言葉が聞こえたから来ただけですよ。 ちゃんとした脚本があるのかと思って」

「あるさ。 運が良ければ、悲劇の脚本と、リハーサル不足の容疑者たちが揃ってる」

マルコスは執事とメイドに目を向けた。

「よし、こうしよう──メモ取ってくれ。 “神と交信中の母親”、 “音楽で現実逃避中の娘”、 “舞台評論家気取りの甥”、 そして──“今のところ、この家で一番礼儀正しいのが死体”ってな。 ……他に誰か忘れてるか?」

執事は部屋を見渡し、わずかにためらったが、何も言わなかった。

沈黙が、代わりに答えた。

マルコスは深く息を吐き、階段の空白を見つめた。 まるで「どこに倒れたら一番マシか」を計算しているかのように。

「……いいだろう。 まずは、“生きてるのに死んだふりしてる連中”から始めよう。 誰が最初につまずいて、真実をこぼすか──見ものだな」

彼は再び踵を返し、コートの裾を翻しながら暖炉のそばの一番近い肘掛け椅子に腰を下ろした。 指を鳴らしながら、ぼそりとつぶやく。

「コーヒーを。濃いやつを。 毒が入ってたら、なお良し。 ……俺より先に、そいつが口を割るかもしれないからな」

こうして、第一幕が始まった。 ──全員が台本なんて知らないふりをしながら。


──第一章、終わり。

読んでくれて、ありがとう。 ……なんて、礼儀正しいことを言うのは、死体の役目だろう。


第一章、どうだった? 静かな家、沈黙の家族、そして一人の探偵。 誰も泣かず、誰も語らず、でも何かが確かに腐っている。 そんな空気が、少しでも伝わっていたら嬉しい。いや、嬉しいというより、「伝わってしまったら」って感じか。


マルコス探偵は今日も疲れている。 でも、まだ終わらない。 沈黙は、これからもっと騒がしくなる。


次の章で、また会おう。 できれば、まだ誰かが生きているうちに。

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