おつかいは帰るまで
宇宙貨物船《ヒナギク13号》の船内、ミーティングスペースは、今日もやけに静かだった。
壁面を走る制御灯は冷たい青に設定され、船内重力はほぼ地球相当。航行中の振動は人工慣性によってほとんど感じられない。ここが時速数光年の速度で太陽系へ戻っている最中だという事実を、実感させるものはどこにもなかった。
部屋の中央に据えられた会議テーブルのホログラムには、過去のニュース映像が流れている。そこには、かつて地球で「文明の断絶」とも評された一連の事件——岸鳩政権の“公約軽視発言”、ユルダ=オルによる啓蒙艦隊の派遣、そして三割に及ぶ人々の処刑——が、淡々と記録されていた。
「……そもそもアメリカが我々と交渉したがらない理由は、ここに尽きるんだ」
アヤセが、ホログラムの一部を指先で拡大した。国会での発言が国際倫理を破ったこと、その報復として行われた文明監査と大規模粛清。事件から既に20年以上が経つが、その爪痕はいまだに生々しい。
「“契約は神聖”というユルダ=オルの倫理体系から見れば、たしかに耐え難い否定でした」
ツバキが小さく頷き、続ける。彼女の声はいつも穏やかで、だが芯に一本、確かなものを感じさせた。
「日本は“契約を裏切った文明”とされ、ユルダ=オルに保護される対象となった。それは、アメリカをはじめとする他の地球諸国から見れば……もう、別の惑星と同じです」
「事実、日米安保は破棄、在日米軍は撤退、外交官も全員帰国済み。向こうから見れば、俺たちは“契約文明の信徒国家”ってやつだ」
アヤセの指が、映像の中の“ユルダ=オル法廷”に止まる。電子裁判AIによって即時に裁かれ、記憶だけがデータ化されて残った人々。人権と倫理と主権が、一夜で書き換わった記録。
この空気の重さを振り払うように、ガチャリとドアが開いた。
「おはよう……まだアメリカ説得の作戦会議中?」
ハルオだった。Tシャツにジャージ、片手にマグカップ。髪は寝癖で跳ねている。船内時間では朝の六時。彼にとっては「業務開始前の珈琲」がすべての始まりだった。
「二ヶ月で案だしして資料も全て揃えるとか、たぶん脳みそから泡出るぞ」
「いや、泡出してんだよ今まさに」
アヤセが笑う。やや皮肉混じりだが、どこか救われる響きがあった。
ツバキも笑顔を見せた。
「ハルオさん、何か妙案はありませんか? この断交状態では、公的ルートがほぼ機能しません」
「んー、そもそもさ……“政府を説得しよう”ってのが無理筋じゃね?」
ハルオは椅子に座ると、マグカップを両手で包み込むように持ち、肩をすくめた。
「だったらさ、コーラ作ってる企業に話つけて、そっちから政府に話してもらえばよくね?」
沈黙が落ちる。
ツバキとアヤセが顔を見合わせた。その無言は、ただの“思考停止”ではない。目に見えない回路が二人の間で繋がり、情報が同時に処理されていく様が、はっきりと感じ取れた。
「……まさかとは思うが、本気で言ってるのか?」
アヤセが眉をひそめる。
「うん。だって企業って、利益になりそうな話にはフットワーク軽いでしょ? “異星人がうちの製品を神格化してます”って聞いたら、絶対目の色変えるって。マーケティングの鬼だよ?」
その言葉に、ツバキの瞳がゆっくりと開かれた。銀の虹彩が思考の起動を映し出す。
「企業外交……それは確かに、現実的です。政府の意向に縛られず、かつ経済的な正当性を持つ。場合によっては、政治家よりも実行力があることもあります。それに…前例もあります。」
「しかも、企業が自発的に動いたことにすれば、我々は“お願いした側”にならなくて済む。外交的な面子も保てる。……皮肉だな。ユルダ=オルの社会でも、“炭酸飲料が鍵を開ける”なんて誰が予想した?」
アヤセが深く息を吐いた。いつも理知的で冷静な彼女が、どこか肩の力を抜いたように見える。
「……お前、時々本当に地球外生物っぽい発想するよな」
ハルオは、にやりと笑った。
「まあな。こちとら、宇宙の宅配屋だからな。ルール外で生きてるのが仕事だし。俺ら、民間の代表だろ?」
マグカップの中で、残ったコーヒーが静かに揺れた。
そのわずかな震えを合図に、三人の戦略は静かに、確実に方向を変えた。
宇宙貨物船《ヒナギク13号》の船内、ミーティングスペース。地球への航行が始まり、艦内時間で約十日が経過した頃、三人の会話は次の段階に入っていた。
「企業にアプローチするにあたって、最大の説得材料は――」
ツバキがタブレットを指で操作しながら言う。
「《コハク・スパーク》を飲む、ユルダ=オル高位監査官・ガ=ルス氏の映像です」
画面に映し出されたのは、あの日の記録。彼が《コハク・スパーク》の瓶を丁寧に持ち上げ、琥珀色の泡をじっと見つめながら語っていた、あの場面だった。
「さて。歓談はほどほどに、本題に戻ろう。伝説のコーラ――《ペカコーラ》と《プシココーラ》――それらはユルダ=オルの象徴となった。だが我々は……未だ、それらを自由に再現できていない」
その声は日本語だった。ハルオたちへの配慮――あるいは、彼自身の敬意の表れかもしれない。
「我々はレシピを解析した。成分も手に入れた。だが……“宗教的な理由”により、特許と商標を破ることができない。契約こそ文化だからだ」
彼はその時、瓶をテーブルに置きながら静かに拳を握っていた。
「だからこそ、君たちの知恵が必要だ。アメリカを、よく知る日本の君たちの力を……!」
「お任せください」
その場でアヤセは、一礼を添えて応じていた。
「日本の交渉技術と文化翻訳力があれば、きっと突破口は見出せます。伝説を再演する――そのお手伝いを、我々がいたします」
ガ=ルスは深く頷いた。
「その言葉が、文明をひとつ動かすと信じよう」
記録映像はそこまでで終わっていた。
ツバキがそっと映像を止め、通信操作画面へと切り替える。
「この映像を、アメリカ企業向けの資料として使用する許可を、本人に申請します」
「よし、それで行こう」
ハルオが言った。簡潔だが、彼の声には確信があった。
「こんなに説得力ある飲みっぷりは、もう他にないからな」
アヤセが笑う。
「たしかに、“宗教的な理由で商標を破れない”という発言、向こうの企業には衝撃的かもね。『このコーラは神のレベル』って、宣伝文句にすればいい」
ツバキはすでに通信暗号キーの生成に取りかかっていた。
「では、この映像が、交渉の最初の扉を開く鍵となることを信じて、地球帰還後に申請を開始します」
彼らの手元には、確かな映像があった。そして、宇宙を超えた感動と信頼が、その一場面に凝縮されていた。
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【航行ログ:娯楽班活動報告「積みゲー庫の亡霊たち」】
「……どこまで増えてるんだよ、これ」
作業着のまま、船内娯楽用データライブラリの棚に立ち尽くすハルオの姿は、宇宙船の貨物員というよりはゲーム屋に迷い込んだ老店主のようだった。
その背後でホログラムが表示される。画面には“登録済タイトル数:1283本”と数字が踊っていた。
「また増えましたね。前回航行から帰った直後は、確か1162本だったはずですが……」
ツバキが資料端末を見ながら、事実だけを読み上げる。
「いや、俺、そんなに買ってたか……?」
「ハルオさんの購入履歴を参照したところ、“そのとき気になったから”“雰囲気が好き”“ジャケットが良かった”など、購入動機の80%以上が衝動的です」
「お前、なんでそこまで記録してんだよ」
「学習アルゴリズムの観点から非常に興味深かったので」
そこへ、アヤセが通信室から飲み物片手にひょっこり顔を出した。
「何してんの? また“積みゲー棚の亡霊”と戦ってんの?」
「……否定できないのが辛い」
地球時間で3〜6年分のゲームが、ワープ一往復ごとに棚に追加される。その習慣が数往復。気づけば世代をまたいだタイトルまで並ぶようになっていた。
「まあ、わかるけどね。プレイする時間より、買う判断の方が早いんだもん。戻ってきたら“これこれ、発売してたんだよな〜”ってノリで即ポチしてるでしょ?」
「なんなら発売されてるの知らなくても買ってる時ある」
「病気じゃん」
「それ言うな……俺だってわかってる……けど止められねぇんだ……」
そのまま三人で棚を眺める。自然と、視線が同じソフトに止まる。
『黙示病棟:第零症例』
グロテスクな手描き風ジャケットと、“心因性ストレススコア計測対応”のうたい文句が目を引く。
「うわ、出た。これ、やばいやつだよ」
アヤセが少し引き気味に言う。
「ホラージャンルの中でも、プレイヤーの脳波を読み取って恐怖演出が変化する“反応型恐怖生成エンジン”が搭載されています」
ツバキが冷静に説明を重ねた。
「ツバキ、お前が言うとホラーじゃなくて軍事訓練用に聞こえる」
「心理的プレッシャーへの耐性評価にもなりますし」
「それを理由にすな!!」
結局その場の流れで、三人はプレイすることになった。
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照明を落とした娯楽室。大型ホログラフに映る病棟の廃墟。
冷気処理ユニットの微かな音が、まるで画面の中の“何か”の気配のように錯覚させる。
ツバキは理詰めのロジックで異常を予測。アヤセは終始びびりながらも、茶化し笑いを忘れない。
そしてハルオは、思わず「あ゛っ!」とガチめの声をあげた瞬間、自分で自分に苦笑した。
「うわっ、やっべ……マジ声出た……」
「記録しています」
「やめて!? 恥ずかしいからやめて!?」
「分析用ログとして、後でご希望があれば再生できます」
「ぜってぇ希望しない!!」
アヤセは、自分のキャラが即死イベントで首を捻られながらも、笑い転げていた。
「も、もうダメ……このゲーム、笑う要素ないはずなのに……二人のやり取りが一番怖いわ……」
ゲーム終了後。
三人は疲れたような笑顔でソファに沈み込んだ。
「はぁ……あれだな。積みゲーって、数あるだけで怖いわ……」
「見なければ増えたことに気づかないのに、見たら遊ばなきゃってなるからですね」
「真理をつくな、ツバキ。お前たまに容赦ないぞ」
「つまり、まだ1279本あります」
ツバキが淡々と言った。
「……うん。やっぱ一回、娯楽デッキごと焼こうか」
「焼却は禁止されてます」
「知ってるよ!!!」
笑いながらも、ホログラフのゲームリストをスクロールする三人。
次にどれを遊ぼうかと悩む時間すら、彼らにとっては貴重な“航行中の日常”の一幕だった。
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【航行ログ:視聴記録「アメリカから見た日本」】
貨物船〈ヒナギク13号〉船内。休憩ブロックのソファには、ハルオが脚を投げ出して座り、ツバキが隣にぴたりと寄り添っている。少し離れた椅子にはアヤセがポテチ片手にリラックス。
「……で、これがその動画? 航海前に拾ってきたやつ?」
「うん。AIが纏めてくれたやつ。……まあ、アメリカ国民向けの日本紹介ってやつ?」
画面にニュース番組風の映像が浮かび上がる。左下に「2070年1月3日放送」の文字。
【忘れられた島国“Neo-Japan”の真実】
壮大すぎるBGMに、重厚すぎるナレーション。
「After the Yulda-Or intervention of 2035, the nation formerly known as Japan underwent what many experts describe as a complete ideological overwrite.」
《ユルダ=オルの介入以後、日本は“完全な思想書き換え”を経験した――らしいです》
(……思想書き換えって。言い方、重てぇな。まあ言いたいことは分かる。俺も「あれヤバくね?」って映像あったし。でも実際、俺はわりと受け入れちゃってるんだよな……慣れって怖いわ)
映像では、国会議事堂の上空に現れるユルダ=オル艦隊がCGで合成されている。
アヤセがポテチをバリバリ食べながら呆れる。
「これ完全にB級映画じゃん。“宇宙人、日本を支配”ってタイトルで配信されてそう」
「半分ぐらいは当たってるけどなー」とハルオが笑う。「今でもたまに国会の上に浮かんでたからな、ユルダ=オルの船」
(今思うと、街のどこからでも見えるあの異様なフォルム、よく日常風景に馴染んでたよな。いや馴染ませてた、が正しいのか。感覚麻痺ってすげぇ)
ツバキが笑顔で補足する。
「“思想書き換え”じゃなくて、もっとこう、“社会的リモデリング”って呼ぶべきだと思います。中立的に」
「中立的すぎて逆に怖い表現だな、それ」とアヤセがツッコミ。
画面はアメリカの街頭インタビューに切り替わる。
「昔は日本ってホバーカー作ってたよな。今? あそこは月面基地みたいなもんさ。テラマップすら使えねえ。気味が悪いよ」
(うん、まあ……言いたいことは分かる。“月面基地”って例え、案外的確かも。国内ルールがガラッと変わって、地球側アプリが軒並み無効だし。そりゃ“なんか異星国家できてる”って思うよな)
「やっぱ外から見ると、日本ってヤバい国に見えるんだな……」とハルオがポツリ。
「逆にブランドになってるかもよ? “入国できない謎の島国”、みたいな」とアヤセが笑う。
(ガチで隔離エリア感あるよな……日本って言うより“Neo-Tokyo Quarantine Zone”とかそんな感じ?)
続いて、2036年の大粛清について語るナレーション。処刑、記憶抽出、再教育。
「Many believe the Japanese now live under the illusion of order...」
《日本人は秩序という幻想の中で暮らしている――という説》
アヤセが鼻で笑う。
「向こうだって大差ないでしょ。広告AIに一日中追いかけ回されてるくせに」
「こっちはこっちで“国家製AI”が人生ガチャ回してるけどな」とハルオ。
(まあ、たしかに。就職先はAIに決められるし、人生設計も“適性”でサクッと割り振られる。でも俺的には、前世でブラック労働に沈んでた頃よりは全然マシ。けど、そりゃ外から見たらディストピアだわな)
「日本に戻って説明してもらえませんか?」って言われたらどうする? とアヤセが聞く。
ハルオは即答。
「全力で断る」
(俺は別に今の日本、気に入ってる。でもこれ、他人に勧められるかって言われたら……うん、ちょっと無理。沼にハマったオタクが“今からでも間に合う”とか言い出すのと同じヤツだな)
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