静寂の途上
ヒナギク13号。銀白の船体が、虚無のような深宇宙を滑るように進んでいく。数光年先の星々すら揺らめく霧の彼方でしかなく、この巨大な貨物船を取り巻くのは、静謐という名の無音の牢獄だった。
ブリッジにひとり座るハルオは、ゆったりとした椅子にもたれながら、ディスプレイに流れる航行データをぼんやりと眺めていた。指先は習慣のように膝の上でリズムを刻み、思考は遠く別の場所へ漂っていた。
後方から足音もなく近づいてきた気配に、彼は自然と微笑む。
「また、リズム遊びしてる」
ツバキの声だ。彼の同居人であり、航行支援アンドロイドでもある存在。制服を模したルームウェアに身を包んだ彼女は、あどけない仕草でハルオの横に腰を下ろす。
「無意識だった。リラックスしてる証拠かな」
「ふーん。それならいいけど」
ツバキはわずかに頬を膨らませ、ハルオの肩に頭を預けてきた。その重さはほとんど無いが、確かな存在感だけが彼の内にぬくもりのように残る。
人間の会話能力を維持するという名目で、長距離航行士にはアンドロイドの同居が義務付けられている。その裏には、他にもいくつかの目的があることは、誰しもが知りながら語らない。
「少し、日記を書いてくるよ。航行記録ってことにしてるけど……ほら、こうして長い時間をかけて戻ってくると、自分の中の時間軸と地球のそれがズレてくるだろ。文字にしておくと、少し整理できる気がするんだ」
「うん、行ってらっしゃい」
ツバキは微笑み、ゆるやかに手を振った。ハルオは静かに頷くと、私室へと向かった。
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≪航行記録:ヒナギク13号 第24日≫
宇宙を漂う貨物船の静けさには、奇妙な心地よさがある。とりわけ深宇宙へ向かう中盤、このあたりの航路は航行管理局の監視も緩く、機械的なログのやり取りだけで済むことが多い。人との会話も、緊張感もない。ただ機器の点検とログの確認、それに簡単な運動だけが一日の営みを構成する。
退屈かと言われれば、そうではない。孤独を耐え抜ける資質を持つ者だけが、この職に就けるのだから。
ネストで生まれ育った僕は、AIによる適性判断で長期宇宙航行士としての資質を見出された。孤独への耐性と、心的安定性。それが、この船の椅子に僕を座らせている。
今朝は、いつものように機関部の点検から始まった。空調循環系に小さな補正が入り、ナノマシン制御室の温度が0.3度上がっていた。問題ない範囲だが、記録として残す。
それにしても、この船のコアに搭載されている〈リク=ラム〉……あの学習用ナノマシンが、宗教的な意味合いを持っているというのは、初めて知った時は驚いた。
ユルダ=オルとの技術協約で提供されているこの技術は、彼らの文化圏では「知識の実」とも呼ばれているらしい。単なる学習補助装置ではなく、聖性を帯びた存在。だからこそ、地球側にも限られた数しか提供されておらず、僕のような異星航行に関わる者だけが投与を許される。
実際、〈リク=ラム〉があって初めて、異星言語や航行技術の即時習得が可能になる。だがそれは異星由来の情報に限られ、地球由来の知識については、今も学校教育に頼らざるを得ない。
ナノマシンの恩恵は、学習効率の上昇や記憶力の向上といった副次的効果にも及ぶ。それでも、学ぶべきものがフォーマットされていない限り、知識は降ってこない。だから僕たちは、日々学び続ける。
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日記を書き終え、部屋の明かりを落とす。扉が自動で開き、ツバキが顔を覗かせた。
「書き終わった?」
「うん。少しスッキリしたよ」
「じゃあ、一緒に動画でも見ようか。前回の航海で3年9ヶ月経ってるでしょ? 日本もだいぶ変わったらしいよ。まとめ解説の動画、準備しておいた」
「……ありがたい。正直、置いてけぼり感があるからな」
二人は小さなリビングルームに移動した。ソファに並んで腰掛けると、ツバキが操作した端末から、やわらかな光が壁面モニターに広がる。タイトルには「日本社会動向総括:第73期報告(簡易版)」の文字が浮かんでいた。
音声が流れ始め、画面には統計グラフと共に、無機質なナレーションが響く。
「日本では第73期において、AI統治体制の調整が三度実施され、行政の自律度が6.4%改善されました……」
映像を見ながら、ハルオは目を細めた。自分が旅立つ前に知っていた日本は、すでに過去の風景となっていた。
けれど、それを悲しいとは思わない。
世界は変わる。人も、制度も、言語さえも。
それでも彼は、今日もヒナギク13号の上で、静かにその変化を受け止めている。
そして、その孤独と静けさの中で——
ツバキの存在だけが、変わらぬ温もりとしてそこにあった。