表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

意地っ張りな私と、臆病だった貴方。

作者: いちごあめ


「はいこれそっちの鍵。私の家の鍵も返して。」


ガサガサと自分の鞄を探って、鍵ケースを取り出すと鍵を一つ外して渡した。それからこっちの鍵を返してもらうように言うと、鍵を渡したばかりの右手を差し出したままじっと待つ。


とてもゆっくりしとした動作でそれを受け取った彼は、眉間をギュッと寄せて泣きそうな顔をしながらも、「……分かった。」と絞り出すように言って同じように鍵ケースから一つ外して渡してくれた。私はそれを無言で受け取り、雑に鍵ケースに付けるとサッと鞄に仕舞ったのだった。


そうして目の前の彼を見つめる。未だに眉間に皺を寄せたまま下唇を噛んでおり、ああ痕になっちゃいそうだなとボンヤリ思ったが、もうそれを指摘するのは私ではない。だからこの胸を刺されたような痛みをグッと抑え込んで、スッと立ち上がると彼に言った。


「ありがとうね。私の事は気にしないで、自分の幸せをしっかり考えて大切にして。 バイバイたっくん。」


震えそうになる声を必死で堪え、毅然とした様子に見えるように取り繕って言う。しっかり目に焼き付けようと見つめているのに、彼はこちらを見てくれもしない。最後なのにな、綺麗な目を見てお別れしたかったのに。


仕方無い人、と思わず微笑むと、驚いたような彼がようやく顔を上げた。やっぱり泣きそうな顔のまま、見開く彼の目は相変わらず綺麗で。私はその色を忘れないと誓いながら、詰め終わった荷物を肩にかけて立ち上がる。そうして玄関に向かい彼と一緒に選んだローヒールのパンプスを履くと、ドアを開けて外に出た。


当然彼は追ってこない。分かっていたけど、やっぱりなと思いながら沈みかけの太陽を見る。それはあまりに綺麗で、昔から自分の意地を曲げられない最低な自分に対しての嫌気が猛烈に込み上げてくるが、どうしたって治せないからどうしようもない。別れると決めたのは自分。それを止めなかったのは彼。だからこれが全て、それ以外のナニモノでもない。今から戻って抱きつくなんて事は、私の意地が許さない。


「……本当に大好きだったなあ。」


ポツリと呟いた声は、あの日にそっくりな夕星(ゆうづつ)の空に溶けて消えたのだった。

















私と彼の出会いは、バイト先のキャラクターショップの店員と常連として。大学からの一人暮らしのための資金として、少しでも親の負担を減らそうと始めたデパートの中の有名キャラクターショップに、彼が常連として数日に一度は訪れるからすぐに覚えてしまった。圧倒的に女性客や子ども達が多いショップに男性が一人で、しかも長身にスーツ姿で細めフレームの黒縁眼鏡に、奥二重のスッとした印象の美形さんが来ればそれは目立つのである。


店長曰く、彼は毎回プレゼントだと言って買って行くという。それはそうだろう。これは偏見だけどあんなに素敵な人なんだから奥さんや、娘さんがいてもおかしくない。そうして週に4日程バイトとして入る私も何度か彼の接客をして、言われずとも速やかにラッピングをして迅速にお会計を済ませると、営業スマイルを振りまいてお見送りするという事に慣れていった。


そんなある日、彼の買う物はいつもショップ代表キャラの赤いリボンを左耳に着けたネコさんが主であると気付く。たまにツンツン頭の黒いペンギンくんやネクタイを365本持っているオシャレな水色のペンギンさんのグッズも買うが、やっぱり毎回買うのは赤いリボンのネコさんだったのである。私も母親が黒いネズミモチーフのキャラクターシリーズが苦手だった事もあり、赤ちゃんの頃からこのネコさんグッズが当たり前だったから勝手に親近感が湧いてしまったのだ。そして思わず、いつもの迅速な対応の合間に話しかけてしまった。


「来週の水曜日に入荷する新商品、チェックされてますか?レトロモチーフで懐かしいうえに、すんごくかわいいんですよ。」


手際よく袋の口を扇形にしつつ、大体月に一度変わるおまけとモールを一緒にくくりながら言うと、彼は嬉しそうに奥二重で切れ長の目を見開いて言った。


「え?!あ、まだ見てなかった……絶対欲しいな。どんなのですか?」


ソワソワして言う彼につい微笑むと、少し照れながらも私が開いたカタログを一緒に覗き込む。そうして「確かにかわいい!!」とはしゃぎながら言い、「絶対買います。欲しすぎるので必ず来ます。教えてくれてありがとう!!」興奮した様子で言うと、包み終わった手提げ袋を持って帰って行ったのである。


「……まるで自分用みたいな感じ。」


心做しか浮き足立ったように帰っていく彼に見送りの言葉を贈りつつ、そう呟くとなんとなくしっくりきた。そうか、きっと彼は自分用に買っているのではないか?だって指輪をしていない。最近はしない人も少なくないが、こんなにプレゼントを買うならしてない方が珍しい気もするし、もしかして赤リボンネコさんが推しで集めているのかもしれない。月初めの限定ショッパーも必ずゲットしに来るし、新商品を吟味する顔は真剣そのものである。贈り物だから仕方ないと言われればそれまでだが、それとはまた違った真剣さを日頃から感じ取っていた私としては自分用という事がとても納得いった。


そうして彼の対応を私がする時は必ずおまけをネコさんにしたし、それを付けるシールもネコさんを選ぶようにした。既に持っている可能性もあるため確認する事も欠かさず、そんな配慮が彼は相当嬉しかったらしい。少しづつ心を開いてくれて、会計の際に雑談を交えるようになっていった。


徐々に分かってきた彼は、近くのビルで働く銀行員で年齢は35歳。そしてやっぱり赤リボンネコさん推しの独身だった。そのカミングアウトを受けた時に彼は眉間に皺を寄せて不安そうだったが、予想していた事もあって特に驚きもせずに微笑み、「推し活って楽しいですよねえ。」と言うととても驚かれたのである。


「……引かないの?こんなおじさんが赤リボンネコさんのファンでグッズ集めてるなんて。」


目を逸らしながらそう言う彼に、キョトンとした顔のまま思った事を正直に言った。


「どうしてですか?確かに色んな考えの人がいますけれども、私は全く引きません。好きな物があるって素敵な事じゃないですか。生き甲斐になりますし、何より癒されますしね。馬鹿にしてくるような人には、むしろ捕まえて布教してしまったらいいんですよ!赤リボンネコさんがかわいいのは事実なんですから。」


すると彼はポカンとした顔をした後で、突然お腹を抱えて笑い出してしまったではないか。当然だがこんなに笑う姿を初めて見たし、理由もよく分からないので思わずラッピングする手が止まり、戸惑って見つめていると気付いた彼が「ごめんごめん。」と言いながら涙を拭いた。


「いやまさかそんな意見があるとは思ってなくてさ。多様性とはいえまだまだ冷たい世の中だから、話すのはちょっと勇気が必要だったんだ。君すごく面白いね。変わってるって言われたりする?」


楽しそうに目を細め、口角を上げながらそう言う彼にちょっとムッとする。変わってるとは言われるけど、それは私が意地っ張りだからだ。一度決めた事を曲げられないゆえに、差別的思考や間違っていると思った事は絶対に譲れないところがあるため、総合的に友達にそう言われる事もある。でも私は変わっていてもいいと思う派で、こうして笑われるのはなんとなくムッとしたのであった。


「……言われます。けどそれは意地っ張りだからです。」


ムスッとしたまま言うと、彼は更に楽しそうに笑った。店員としてあるまじき表情をしてしまったと、慌てて営業スマイルを貼り付ける。そうして止まっていた手を再び素早く動かし、迅速にお会計を済ませて手渡したのだが。


「ふふふ、怒らないでよ。意地っ張りなのが君の個性なんだね。けど理不尽に押し付けるわけじゃないんでしょ?じゃあ問題ないよ。俺なんて逆にヘタレだからさ、君みたいなハッキリした子はすごく良いと思うんだ。」


受け取りながらもそういう彼は、いつもなら雑談を切り上げて帰るのに今日はまだ居るつもりらしい。それならば、普段あまり時間が無いようだからこちらからは訊けなかったポイント交換をするか問う。すると目の色を変えて興奮したまま、貯めまくっていたポイントを使ってたくさんのグッズも一緒にとても嬉しそうに受け取ったのである。


「ありがとう。交換出来る事は知ってたけど、他の店員さんは勧めてくれないしこっちから声掛けづらくてさ。助かったよ、このコップ欲しかったんだ。」


本当に嬉しそうにそう言うと、途端に眉毛をハの字にして何かを悩み出す。今日は空いていて他にお客様がいないから特に気にせず待っていると、彼はスーツの内ポケットから名刺とペンを取り出し、サラサラと何か記入すると遠慮がちに差し出してきた。


「……あの、良かったら。そのぉ……、君の気遣いとかいつもありがたいし、話してみると楽しくて。もう少し市村さんを知りたいなと思ってたんだ。良かったら連絡くれると嬉しい…。」


顔を赤くしてそういう彼は、私が受け取ったのを見るとそそくさと立ち去っていく。呆然としてしまっていたがハッと意識を戻してお見送りの言葉を言うと、手元にある名刺を見つめた。どうやら彼の名前は佐原拓郎さんというらしい。役職は主任のようだ。私の名字を知っていたのは、胸に付けている名札のせいだろう。なんだかとんでもなくドキドキしてきて、慌ててデパート従業員用の透明バッグに入っている財布に名刺を仕舞うと、店長が休憩から戻ってくるまで顔の熱が引く事は無かったのだった。


そうして悩んだ末、次の日の夜に通信アプリの彼のIDを入力して連絡した。悩みすぎて大学の講義に少し集中出来なかったため、それならいっそ連絡してしまった方が良いと判断して送ったのである。


『キャラショップ店員の市村詩織です。よろしくおねがいします。』


と送ってすぐに既読が付いた。時刻は20時を過ぎており、彼も仕事から帰宅してスマホをいじっていたのかもしれない。それ程に早くてドキドキが爆発しかけてしまい急いで画面を閉じると、一人用にしては少し大きめのソファーのクッションに向かって投げてしまった。ポスッと落ちたスマホが、メッセージを受信した音を鳴らす。彼とは限らないが、あまりの胸の高鳴りにアワアワした結果シャワーを浴びに行くという奇行をしてしまったのだった。


そうして40分後、サッパリして落ち着いた状態で開いたスマホには彼からのメッセージを受信しており、せっかくぬるま湯を浴びて下がった熱が再び上がるのを感じた。


『連絡ありがとう。赤リボンネコさんの話とかしてくれると更に嬉しい。よろしくね。』


書かれていたなんて事ないはずの内容に、心臓が高鳴ってしょうがない。どうしてしまったんだろうか。私よりも14も歳上の彼のギャップに普段からやられていたというのもあるし、見た目も実は好みだったのだ。だからこんなにドキドキするんだろうか。これが恋愛に発展するか分からないが、そうなるのであれば高校を卒業したと同時に2年付き合った元彼と別れて以来のため、やたら緊張したのである。




そのまま毎日、不思議と途切れる事なく日常の会話をなんとなく続け、お互いを下の名前で呼ぶようになった数日後。彼から初めてごはんに誘われた。すんごく緊張したが、実際会ってみると普段のカッチリした姿とは違ってラフに下ろして流した髪型、ちょっとダボッとした白シャツと黒の細身のデニムパンツに、ボルドーのハイカットスニーカーを履いているというギャップに卒倒するかと思った。本当に35歳なん?!という程に若く見えたのである。


「詩織ちゃん、かわいいから緊張しちゃうな。……えっと、行こうか。」


驚きすぎて何も言わない私に対して、彼はちょっと照れたように褒めてくれながらエスコートするように誘導してくれる。そんな彼にハッとして、「拓郎さんの方がすごく素敵です。」と伝えると、彼は嬉しそうに頬を染めたのだった。一応オシャレして来たつもりだが、これはもっと頑張らないといけない気がする。しかし私が買う服屋さんは一箇所のみで、変えるつもりはないので突き通すしかないが。


お互いに緊張しながらも着いたお店は、落ち着いた雰囲気の和食居酒屋だった。小さな仕切りで個室になっており、周りを気にせず話が出来るので心置きなく赤リボンネコさんや仕事の話、私の大学の話が出来そうだなと安心したのである。


「俺はビールにしようかな。詩織ちゃんはお酒飲めるって言ってたけど、どれにする?」


メニューボードを傾けてくれながら問われ、無難にウーロンハイにしておいた。そしてサッと飲み物と軽く食べ物を相談しながら決めて注文し、届くまでの間に近々発売される赤リボンネコさんの新商品について語り合った。やはり白熱したが、ドリンクとお通しが届いて中断され、乾杯して飲むとなんとなく話題は彼の仕事と私の大学にシフトした。


彼は私の話を懐かしいと言いながら聞いてくれるが、仲良しの友達の話になると少し眉毛を下げる。その理由はよく分からないが聞きたそうなので続けていると、ビールからハイボールに変更したグラスを置いたり持ったりしながら目を左右に動かして忙しなくなる。どうしたんだろうと様子を見ていると、一度ギュッと目を閉じた彼がモニョモニョと口を動かした。


「……彼氏いるの?」


それはとても小さな声だった。しかし私を見る目が真剣で、途端に心臓が壊れるかと思う程に強く脈打つ。今度は私が忙しなく目を動かしながら、テーブルの下でグーに握った両手をコツコツぶつけ合う。そうしてじっと見ている彼を見つめながら、お酒で赤くなった顔が更に熱くなりつつ答えた。


「……今はいません。拓郎さんは…?」


もじもじしすぎて自然と上目遣いになったのは許してほしい。それに彼も顔を更に赤くしながら、「…俺もいない。」と答えてくれたのである。それからお互いに照れすぎてしまい、むずがゆい沈黙が訪れたが追加のフードを持ってきてくれた店員さんによって空気が上手く壊れ、その後は照れつつもまた会話を再開出来たのだった。


楽しい時間はあっという間で、気付けば既に3時間が経過していた。とても名残惜しいが、またすぐに出掛けようと約束してお開きにする事になった。当然のように奢ってくれようとしたが、私の意地っ張りが発動して割り勘にしてもらった。彼の顔を立てろと言われるかもしれないが、私としては付き合っていないのに相手に奢ってもらうのはちょっと違う。だから譲らずに払うと、彼はヘニョッと笑って受け取ってくれたのである。


それから酔った勢いなのか、ヘタレとは?!と思う程に強引に私のアパートの前まで送ってくれ、別れ際にはスリッと右手で左頬を撫でられてしまった。それに真っ赤になって戸惑いつつも嬉しくて口角を上げると、同じように笑った彼が「おやすみ。」と言いながら帰って行く。どうしても名残惜しくてすぐに入らず見送っていると、彼は何度も振り返りながらその度に手を振ってくれて、あまりの嬉しさにヘヘッと声を出して笑ってしまったのであった。



それからも毎日の連絡と週末はごはんや少し出掛けるという事を繰り返し、順調に仲を深めていった私達は、もうすぐ私の誕生日という知り合って半年後に付き合う事になったのだった。彼の運転する黒いSUVに乗って少し離れた海辺に連れて行かれ、停めた車内も夕星(ゆうづつ)の世界に染まる中で、緊張した彼に手を握られながらされた告白は、あまりにも嬉しくてすぐに言葉が出なかった。しかし懸命に首を縦に振り、答えた私に彼はとても嬉しそうに笑うと、「好きだよ。」と言いながら握っていた手を引き寄せて抱きしめてくれた。それに私もギュッと背中に手を回しながら、「……私も好き。」と返す。そして自然と離れて、初めての口付けを交わしたのだった。


もうまさに幸せの絶頂、と見つめあっていると、彼は急に眉毛を八の字にして私の両手を握り、「話さなきゃならない事があるんだ。」と言った。なんとなく嫌な予感がして、姿勢を正して改めて向き合うと、ポツポツと話してくれる。



「実は俺、バツイチなんだ。28歳の時に上司から勧められた女性と交際4ヶ月で押されるように結婚したんだけど、入籍して3ヶ月で浮気されたんだ。」



それは衝撃の内容だった。バツイチだけでも驚いたのに、たった3ヶ月で浮気されてしまうなんて。思わず目を見開くと、彼は苦笑いしながら続けた。



「……彼女の理由としては、俺はとてもつまらなかったらしい。確かに申し訳ないが愛するまでいけなかった。でも真摯に向き合ってしっかり家庭を築いていく覚悟を持って入籍したんだ。だけど彼女は、それじゃ物足りなかったみたいでね。呆気なく浮気された挙句に振られたよ。」



眉毛を八の字にしたまま悲しげに口角を上げて笑う彼は、とても苦しそうだった。私としては元妻の話なんて気分が悪いが、それでも私と真剣に向き合うと決めてくれたから話してくれるんだと思って聞いていた。しかしあまりに酷くてどう言葉を返していいか分からない。


確かに愛せなかった彼も悪いのかもしれない。しかし上司に勧められた事と、恐らく末永く一緒にいても良いと思えるぐらいには相手の人柄も悪くなかったんじゃないだろうか。それならゆっくり愛を育んでいけるだろうし、だから押されたとはいえ入籍したんだろう。それなのに元妻はたった3ヶ月で浮気したって?


私にはその元妻がどんな人か全く分からないが、それでも腹が立っていた。好きな人をコケにされたというのも大きい事は否定しない。でも私の持論では、浮気する人はどんな事があってもいずれは浮気すると思っている。だからきっと結婚生活が続いていたとしても、何かと理由をつけて浮気したと思う。そんな事を悶々と考え続けてしまい、気づけば眉間に皺が寄っていたようだ。それを彼がとても不安そうに見ながら、「ごめん、俺がこんなだから。」と言って下を向く。だから思わず握られていた両手を解き、こちらから強く握り返して見つめると、驚いた彼が俯いていた顔を上げて困り顔のまま目を合わせてくる。


「あのね、これは持論なんだけど。浮気する人はどんな時でもする。だからその人とは別れて正解だと私は思うよ。それに拓郎さんはちゃんと向き合おうとしたんでしょ?ゆっくり愛を育もうともしたんじゃない?それなのに逃げたその人のために謝るのは違うし、罪悪感を抱き続けるのも間違ってると思った。だから悪いという気持ちを引きずりすぎないでほしい。」


一気に言いたい事を吐き出すと、ポカンとした顔の彼を改めて見つめた。するとヘニョッとした顔のままではあるけど、フフフッと楽しそうに笑って彼は言う。


「やっぱりしおちゃんはすごいや。強いんだね、とっても。」


ニコッと言われたそれは、決して当たりじゃないけど外れでもないから敢えて否定しなかった。私は別に強いわけじゃない。ただ意地っ張りなだけで、本当はきっと弱い。だからこそ自分を守るために、どうしようもなく意地っ張りになってしまったんだろうな。


「だからね、俺は恋愛に対して物凄く臆病になったんだ。元妻には明かせなかった趣味も、しおちゃんは最初から否定しないし、むしろ肯定的だった。」


私が思考の海に潜りかけた時、彼が少し照れながらそう言う。明かせなかったのか、それはそうだろうな。きっと私が彼でもその人には言えなかっただろう。


「最初は、この子はきっと俺の趣味に気付いてるなと思ってちょっと警戒したんだ。なのにむしろ気を遣って赤リボンネコさんを選んでくれるし、情報共有も自然にしてくれる。そんな配慮が凄く嬉しくて、そして君が気になって気になって仕方なくなった。」


私が握っていた彼の手が、解かれて再び強く握られる。そして右手の親指が私の手をスリスリと撫で、それがくすぐったくて笑ってしまうとそれを見て彼も笑い、嬉しそうに更に撫でられた。


「ほんっとうに勇気を出して連絡先を渡して、一緒に出掛けられるようになったのは嬉しすぎて毎回緊張したよ。こんなの10年振りぐらい。しおちゃんいつもかわいいから、こんなにかわいい姿を大学で晒してるのかと思ったら段々腹が立ってきちゃった。」


そう言って不敵に笑うと、撫でていた私の手をそっと彼の左頬に当てて、ゆっくりスライドすると手のひらに口付けられた。突然の事に驚きすぎて固まった私の頭の中は、恋愛に臆病とは一体なんだ?!という思考でいっぱいだったのである。そんな私を見ながら、彼は猶も手のひらへの口付けを続けながら言う。


「どうしても、他の誰かに渡したくないと思ったんだ。だから臆病で足踏みするのはやめた。おじさんだからとか、裏切られたらどうしようとか、そうやって悩んでるうちに横取りされたら嫌すぎて行動したけど、頑張って良かったなあ。」


そうしてニッコリ笑うと、口付けていた手をグッと引っ張って抱きしめてくれる。なんかいろいろ言われてドキドキしすぎた結果、顔が真っ赤になったけど彼の胸に押し当てて隠してしまったのだった。


「しおちゃん、俺頑張るから。だからお願い、よそ見しないでね。」


まるで懇願するように言いながら、旋毛に口付けする彼に答えたくて一生懸命に頷く。そうして照れながらも合わせた唇は、とても優しくて温かかった。







それからの日々は、とても穏やかに過ぎていった。たまには喧嘩をする事もあったけど、意地っ張りながらも悪いと思ったらしっかり謝る私と、基本的に穏やかな彼では大きな衝突も無く、順調に仲を深めていっていたのである。相変わらず私はキャラショップでバイトを続け、彼は定期的に通い、そうして家にどんどんグッズが増えていくのを微笑ましく見ていた。


こうして付き合って8ヶ月経つ頃には、お互いの家の鍵を渡しあい、赤リボンネコさんのグッズがたくさんある彼の部屋でごはんを作って待っていたり、仕事に疲れた彼が癒しを求めて急に家に来たり、誕生日を2人きりでお祝いしてゆっくり過ごしたりと、それぞれの家をまるで自分の家のように感じ始めた頃。





「しおちゃんは大学に良い人いないの?」


「きっと俺みたいなおじさんよりも、同世代の人の方が話が合うだろうし、幸せにしてくれそうだよね。」





という、まるでお試し行動のようなものが始まったのだった。恋愛に対して臆病で、元妻のせいでトラウマになっているんだと理解している。だから最初は必死で否定して、たっくんが大好きで、私には心底必要なんだと訴えていたのだけど、私の就活が無事に終わって大学4年生になると更に酷くなっていき、徐々に心が疲れてしまったのである。


私としては頻繁に彼に言われる度に否定し、ホッとした顔をするのを見るのは最初は良かった。ああ、間違ってなかった、正しい事を言えたと思って安心していたんだけど、それが数を減らすどころか増えてきてしまって、どうしたらいいのか分からなかった。彼こそ私を好きだと言ってくれる回数が減っている事に気付いているんだろうか。私だって、伝えてばかりではなくて、言ってほしい時も多いんだけどな。だけどそれを無理やり飲み込んで微笑みながら彼の期待に応える自分に、だんだん疲れて麻痺して分からなくなっていったのだった。



そんな時。お互い忙しくて数日会えなかった彼の家に泊まって、久しぶりに一日中何度も愛してもらった日。気を失うように眠って幸せな気持ちに包まれていたのに、ボソボソという話し声でふと意識が浮上した。ボンヤリと薄目を開けて棚のデジタル時計を見ると、時刻はどうやら16時前。身体がだるくて重く、動かすのがしんどいながら瞼をしっかり開けて部屋を見ると、彼はベランダに出て誰かと電話しているようだった。隣にあった温もりが無くて寂しい思いでいると、再び眠りそうになる前に彼の言葉が耳に入ってくる。




「うん、うん、まあ確かにね。だけどでも、未来は分からないだろう?俺は信じるのが怖いんだよ、裏切られるのは嫌なんだ。だったら最初から信じなければいい。それならいずれ浮気されても俺は大してダメージを受けないし、パッと別れられると思わないか?だから信じていないんだ、しおちゃんは本当に良い子なんだけどね。」




バチンッと思い切り横っ面を引っぱたかれたような気がした。それはあまりにも衝撃的で、積み上げてきた彼への想いや気持ちが水に溶けるわたあめのように無くなっていくのが分かる。そして鈍い痛みが徐々に強くなりガンガン頭痛がしてくる。もともと偏頭痛持ちだけど、それとはまた違う痛みが激しくて涙が溢れそうだった。しかし泣きたくない。今泣くのは私の意地が許さない。


とんでもなく重い腰を必死で動かして彼がまとめてくれたらしい服を、赤い花が所狭しと見えないラインギリギリに覆っている肌に着ていく。そうしてゆっくりしか動けないせいか、物音があまりしなかったようで彼は私が起きた事に気付いていない。いつもなら起床即構ってアピールがすごいけど、もうそれをされても純粋に嬉しいという気持ちで構い倒す事はないだろうと思った。


そのまま鈍足で動き、泊まりだからと大きめの鞄を持ってきていたので、その中に荷物を入れていく。あまり多くは置いていなかったけど、部屋着やスキンケア用品を詰めると意外と鞄が膨らんでしまった。まあ入ったからいいやと思い、その他のお揃いで買ったマグカップやお茶碗、スリッパなどの赤リボンネコさんグッズは置いていくことにした。取っておくのも捨てるのも彼が決めればいい。


虚しい気持ちで台所に立ち、バイト中に新商品として入ってきたのを見て一目惚れし、すぐにお揃いで2つ買った少し大きめのマグカップを手に取る。何度もこれにコーヒーやお茶、ジュースをいれて一緒に並んで座って飲んだ。映画を観ながら、音楽を聴きながら、課題を解きながら、いつも彼の足の間に挟まれて座って、すぐ抱きつく彼にこぼれるからと怒って控えてもらってたっけ。


「……本当に好きだったのになあ。」


まるで息を吸って吐くように、当たり前に彼が大好きだった。どんなにお試し行動があろうと、私の心が徐々に疲弊していこうと、彼が私を好きで信じてくれるから、信じようとしてくれているからだと納得していたのに。それが端っから信じるつもりも無かったなんて。だったらどうして、こんなにも好きにさせたんだろう。もっと早くに見切りをつけてほしかった。傷ついて立ち直るのが難しそうな今じゃなくて、もっと前に。むしろただの店員と常連客としてあり続けてほしかった。


油断すると今にもこぼれそうな涙を、強い意地でなんとか堪える。するとようやく電話を終えた彼が、閉めていた窓を開けてベランダから入ってきた。そうして私が起きていて、しかも着替えが終わっている挙句に無表情で戸棚にマグカップを戻すのを見て、目を見開いて固まった。しかしすぐに正気を取り戻し、慌てて私を抱きしめるべく両腕を伸ばしながらこちらに来ようとして、リビングに置いてある鞄が不自然に膨らんでいるのに気付いて足を止めてしまった。


そうして眉毛を八の字にして、今にも泣きそうな顔をしたかと思うと、光の速さで寄ってきて骨が軋む程の力で抱きしめられた。あまりにも必死すぎたせいで、本当に息が止まりかけた私に気付いた彼が少し力を弱めてくれたが、放してはくれなかった。けれどようやく吸えた息をいっぱい吸い込んで深呼吸すると、先程までの悲しみが怒りに変わっていくのが分かる。手のひらの上で踊る私は満足のいくものだったかしら?心から好きだっただけに、反動なのか私の怒りは強いものだった。


確かに今でも大好きで大好きで、こんなに酷い人なのに嫌いになれない。しかし私は最初からバカにされていたのだと知った。彼のくれる優しさも、愛の言葉も熱を孕んだ行為も全て、偽りだったのだろうか。ああどうして、どうして嘘をつくなら最後まで突き通してくれなかったの。こんなに苦しくてつらいなら、ずっと騙されていたかったのに。詰めが甘い。


許せない。それでも好きという気持ちがある自分自身も許せない。今にも泣いてしまいそうな彼を、酷い人ねって言いながら抱き締め返したい気持ちがあるのも許せない。だから、それならばいっそ。彼の要望に応えたらいい。それが最善策なんだろうし、彼の望むエンディングだろう。これ以上私が傷つくのも嫌だし、好きという気持ちをいち早く消してしまいたかった。それにはやっぱり、別れるのが一番だろう。


いずれそうするんでしょう?貴方から切り出すつもりだったんだろうけど、それは私に言わせてもらうからね。私が意地っ張りだっていうのは、よく知ってるでしょうし?それにちょっとタイミングが早くなっただけ。きっと後悔するだろうけど、このままではいられないのも事実だから。まだ彼を好きなままで、完全に嫌いになる前に別れてしまうのが一番なのだ。


必死で強く抱きしめたいのを我慢しているのか、何度も背中を撫でながらもう片方の手で私の右頬をさする。そんな彼の胸を思い切り押して、不意を突かれて離れて驚いている彼を強い目で見つめた。


「とりあえず、座って?」


そうして向き合って座り、始まった話し合い。私は正直に先程の話を聞いてしまったと伝えると、彼は目を見開いて口をパクパク動かした。しかし何も言葉に出来なかったのか、結局下を向いて唇を強く噛んでいるだけである。そんな彼の頭を撫でてあげたいけど、意地っ張りだからそれは絶対にしない。一度決めた事は曲げられないのだ、かわいくない程に、どうしようもない程に。


だから合鍵を返して、彼にも私の合鍵を渡してもらった。幸せになってほしいと心から思う。私がそうしたかったけど、出来ないから祈るだけでも許してほしい。本当はこんな願いをする事も意地っ張りな私は許せないんだけど、容易く許しちゃった。


そうして歩きながら一人で見あげた夕星(ゆうづつ)の空は、まるで告白してくれた大切な日の色に似ていて、必死で堪えていた涙が堰を切ったようにあふれて落ちた。こうなったら枯れるまで泣いたらいい、そうして満足したら、もう彼のために泣いたりしないと決めたのである。だって私は、意地っ張りだから。


















そうして数日後、彼を忘れて日常を過ごしている私。


……とはならず、なんと翌日から怒涛の勢いでたっくんが迫ってきたのである。臆病とはなんだったのか、信じずにいたとはなんだったのか、パッと別れられるとはなんだったのか。すっかり頭に入っているらしい私の大学やバイトのシフトに合わせて終わる頃に出現し、さすがに心配になって仕事はどうしたのかと問うと有給を取ったという。


どうしてここまでするのか分からないし、待ち伏せされていても送迎のみ、家に入りたそうにしているが、私が拒絶しているからかゴリ押してくる事も無く、


「またね。しおちゃん、今日も好きだよ。明日も好き。」


と言って帰っていく。本当は無視したいしすべきなのに、なかなか難しい。今日も来てくれた、待っていてくれたと思ってしまう私はやっぱり彼が好きだし、だからこそどうしてと一人で泣いてしまう事もある。信じていないんじゃなかったのか、簡単に絆されると思っているのか。


そうは問屋が卸さない。私は彼への愛を貫いていた。信じて貰えるように言葉でも態度でも惜しみなく伝えていた。それなのに信じなかったのは彼だ、簡単に行くと思うなよ。それでもどうしても私の心を取り戻したいのならば、本気であるならば、私の意地っ張りを超えてみせてほしい。脆くも強固な私の壁を、ぶち壊して乗り越えてみせてほしい。本当に覚悟が決まったのなら、次に骨を折るのは貴方。


私の意地っ張りの壁が壊れて彼が乗り越えるのが先か、すっかり諦めてまたお客様とショップ店員に戻るのか。簡単に壊されないために、さらに意地を張る準備をしながら唇を噛みしめて、私は戦いの火蓋を切ったのである。






これは彼には伝えていないから知らないだろうが、開始された戦いは彼の有給が終わる10日間で行われる。彼は私の予定を知らないはずなのにもはやストーカーと化していて怖いくらいだった。怒涛の追い込み日数に限りがあるから焦っているのか、彼の行動はGPSや盗聴器でも仕掛けているのではと思う程に的確だったのである。そうして8日目、教えてないのに大学の友人達との飲み会が終わって外に出た瞬間に手首を突然掴まれた時は、さすがに驚きすぎてちょっと悲鳴をあげたぐらいだった。


「あのねしおちゃん、男の人がいるんだったら行っちゃダメでしょ?ただでさえ心配なのに、男がいるってだけで俺の心臓止まるからもうダメだよ。次は許さないから。」


出てきた私の右手首を強い力で握りながら、友人達に挨拶もさせてもらえない速度で引きずりこまれた彼の黒いSUVの車内で、低い声で彼は言う。おかしい、別れたのではなかったか?それならばいちいち言う必要も無いと思うのだけど。


そんな事を眉間に皺を寄せながら考えていると、流れるように運転しながら相変わらず私の右手を掴み続けている彼が見覚えしかない道路を走り、予想通り彼の住むマンションの駐車場に着いたのだった。


正直あれれ?と思わなくもなかった。これまではちゃんと、私の意思を尊重してくれていたしそのままのスタイルでいくんだと思ってしまっていた。だから完全に油断していた私が悪いが、こんな強制手段をとるとは思っておらず動揺が隠せない。そんな私を無言のまま助手席から抱えあげると、抵抗虚しく部屋へ連行されてしまったのだった。


くそ、鍛えておくんだった!と後悔しつつ、玄関の鍵を片手で掛け自分の靴を雑に脱ぐと、私の地味に着脱が面倒臭いアンクルストラップヒールは、そのまま抱えて行く事にしたようでズンズン進んでいく。「靴脱ぐから!!」と一生懸命伝えても無視で、ポスンと落とされた彼の匂いがするベッドに寝かされる。靴のまま寝るなんて!!とやっぱり暴れて脱ごうとするが、「俺がやる。じっとしないなら縛るよ?」という低い声に驚いて固まってしまった。


あれもしかして、知らない間に地雷踏んだ?と焦っても時既に遅し。赤リボンネコさんのグッズがたくさんある本来かわいい寝室は重苦しい沈黙に覆われており、彼が私のアンクルストラップを外す音がするのみである。出来れば一生外れないでほしいなという願いは儚く崩れ、左右共に脱がし終わったライトグレーのチャンキーヒールを部屋の隅にひっくり返して置くと、無言の圧を強めた彼が固まって動けず寝たままの私を跨ぐようにして、覆いかぶさりながら両手で顔を挟んで耳のそばに置く。そうして見下ろされた彼の暗い目は、初めてみるものだった。


細めフレームの黒縁眼鏡越しにじっと見つめられる、ただそれだけなのに暗い暗い目に射抜かれて、何故か逸らす事も出来ないし心臓が高鳴ってくる。あまりにもドキドキしすぎて聞こえてしまうのではないかという程だったが、そんな事を考える余裕もすぐに無くなった。



「しおちゃん、俺達は別れてないよ?了承してないからね。鍵は確かに1本だけ返したけど、それだけでしょ?すぐに追いかけられなかったのは、思考が追いつかなくて呆然としてたからだよ。だけど別れる事に同意してないし、喧嘩の一環だよね?」



そう言いながら私の右頬を撫でつつ親指で唇をスリスリされる。1本だけとはなんだ?と思ったものの、時折ふにふにと感触を楽しむようにして撫でられると、恥ずかしさが込み上げしまい考え事を忘れて、思わず指を噛んでしまいそうになるのを必死で耐えていた。知らず知らずに眉間に皺が寄っていたようで、暗い目をしたままクスクスと笑ってツンッとつつかれてしまう。


「かわいいね、しおちゃんかわいい。どうしよう、好きすぎてイライラしてきた。ふふふ、見栄なんて張らなければ良かったな。」


そうして苦しそうな顔をしたかと思うと、再び私の唇を撫でながら続ける。


「しおちゃんがくれる愛情が、あまりにも真っ直ぐで強くて、俺には眩しくて尊くてたまらなかった。温かくて嬉しくて、どんどん貪欲になって求めて求めて、止まらなくなってしまったんだよ。本当にごめん。」


気づけばパタパタと顔に温かい雨が降ってくる。思わず彼の頬に手を伸ばして流れる涙を拭ってしまったけど、話を続けて欲しくて無言のまま服の袖を掴んで頬を濡らす彼の涙を拭う。するとすごく嬉しそうに微笑んで、甘えるように擦り付けて来る姿は、まるで大きな犬のようだと思った。


「こんなに愛が欲しくて欲しくて頭が焼き切れそうになるなんて初めてだった。だからどうにも抑えが効かなくて、俺が好きだって、俺が欲しい必要だって求めてほしくて、甘えてそんなつもり1mmも無いのに、まるで別れてもいいみたいな言い方してたんだ。あまりにも情けないよ、しおちゃんが好きすぎていろんな視野が狭まってしまった。バカだよね、本当に。何よりも大切で愛おしくて愛おしくて狂いそうなのに、しおちゃんが離れてしまいそうになって気付くなんて。」


流れる涙は変わらず温かい。愛に臆病になってしまった彼は、与えられる喜びを知って貪欲になった結果、友人に要らない見栄を張って私を逃すところだったと言う。逃すところというか、私としては別れたつもりでいたために正直「ん?」という感じだったけど、それは空気を読んで言わなかった。


「しおちゃんごめんね。あの電話の相手は、俺の元妻の事が好きだったらしいんだ。だからか分かんないけど、それ以来敵視されてて、彼女が出来たって聞きつけて電話してきたんだよ。もしかしたら、しおちゃんを取られるかもしれないと思って、あんな思ってもない事言った。」


寄っていた眉間の皺が更に深くなり、つらそうに目を細めて私の手に必死に頬を擦り付ける。あまりにも苦しそうな顔をするから口を挟む事が出来ず、ただ黙って彼の話を聞いていた。


見栄を張って言ったというあの言葉は嘘だったらしい。しかしそれを証明する事が出来なければ、私はきっと信じられない。良くも悪くも意地っ張りな私は決めた事を簡単にはひっくり返せないし、自分が納得して負けを認めるまで曲げられないのだから仕方がない。


そしてそれは、彼も分かっている。


「しおちゃん、俺に負けて許してくれるのは確定だと思うけど、頑張って頑張って伝えるからね。」


そうして不敵に口角を上げると、擦り寄せていた私の手を甘噛みしながら言う。


「ふふふ、どうして俺が勝ち確って顔だね。だってしおちゃん、俺の事が大好きでしょう?だけど意地っ張りだから納得してくれるまで、抗おうとしてるって分かるよ。だから本気で頑張るね?」


ほらやっぱり分かってる。見破られていた事が悔しくて思わずムッとした顔をすると、愛おしくて仕方がないという風に私の顔中に唇を落としながら言う。


「愛してる、しおちゃん大好き。もう絶対に俺の気持ちを疑うような事にはさせないし、増してやよそ見なんて絶対許さない。他の誰かが隣にいるのもダメ、それが例え女の子でも嫌だし赤リボンネコさんでも嫌だな。このまま閉じ込めて、縛り付けてしまいたいよ。ネコみたいにどこか行かないように、他の誰にも懐かないように。世界が壊れて2人だけになれたらいいのにね?そうしたら絶対に俺だけのしおちゃんなのに。」


言うにつれてどんどん目の暗さが増していく。それなのに、口角は上がっていって最終的には楽しそうに笑い声も出していた。止まる事なく私の顔に唇を落としていた彼は、「絶対に逃がさない。」とうっとりした顔をして言うとゆっくり唇を合わせて、はむはむと食べながら指で私の耳をくすぐるように触る。そうして拒否されないと分かると、フフッと笑いながら唇を割って舌を入れてきたのだった。


それはまるで深い海に突然引きずり込まれたかのように、急速に酸素を奪われる口付けで。こんなのは今まで経験した事がないために鼻で息をするのを忘れてしまった。慌てて顔を左右に動かして隙間を作ろうとするが、それを許さないとばかりに顔をガッチリ押さえられて息が吸えない。「んー!んー!!」と必死で鼻から音を出しながら彼の胸を叩く。それでも止めてくれず、本当にこのまま窒息死するんだろうかと思い始めた頃、ようやく唇を離してくれた。


「はーーぁ………、死ぬかと思った……。」


肩で息をしながらそう言うと、何故か嬉しそうに蕩けた笑顔で私を見つめている彼が、再度顔を近づけてきたので強く睨みながら自分の口を手で覆った。まだ酸素が足りないのに本当に殺す気か!!という思いを視線に乗せていたのに、「かわいいね、かわいい。」と言って全く意味が伝わっていない。彼はいつだって甘えたがりでスキンシップが多かったけど、それでもこんなに自分本位で攻撃的な口付けなんてされた事がなかった。


「ふふ、かわいいねしおちゃん。あーー本当に大好き。こういう強引なキスも嫌いじゃないんだ?ならいっぱいしないとね。大丈夫、しおちゃんは俺の愛を受け止められるもんね。早くまた好きだって言ってもらえるように頑張らないと。」


赤く染まって蕩けた顔のまま、無理やり手を外して私の頬や唇を撫でながらうっそりと微笑んで彼が言う。そうなのだ、確かに嫌ではなかったのである。むしろ体の中が急速に熱くなる程に溺れてしまう寸前で、意地っ張りの壁を自分で取っ払ってしまいそうなぐらい思考が溶けていた。


「このまま隅々までしおちゃんを愛して愛して愛して抱き潰したら、どうなっちゃうんだろうね?意地っ張りなんて嘘みたいに、頭がとろとろになって俺の事正直に好き好き言ってくれるのかな。ふふふ。ね、しおちゃん食べちゃうね?」


暗い目は既に妖しい光をのせたブラックホールのようで、吸い込まれるように視線を逸らせないし、拒否しようなんて事も考えられなかった。ああ、これではすっかり。


「……私の負けが近いかもしれない、たっくん。」


悔しさに眉間に皺を寄せたけど、口角は上がってしまっていた。そんな私に心底驚いた顔をした直後、「ああ愛してるしおちゃん!!」とまるで叫ぶような声を出して性急に組み敷かれた。もう抵抗なんてしない。だけどまだ好きだって言ってやらないの。


「んっ……ふふ、たっくん頑張って骨を折ってね?たくさん愛して分からせてちょうだい。私の意地っ張りなんて壊してみせて。よそ見はしないから安心してね。」


だって私はやっぱり意地っ張り。そう簡単に言ってあげない。でも態度は隠せないから、あんまり意味が無いだろうけどこれだけはせめて、本当に赦したい時に言う事にした。


「はぁ……嬉しい。絶対に分からせるからね。何年かかってもいいんだ、ずっと一緒にいてもらうんだから。好き好き好き大好きしおちゃん、愛してる愛してる。絶対俺の方が好き。早く追いついて、そして一生並んでいて。放さないから離れないでね?」


服の中をまさぐり首に唇を落としながら、徐々に下がってうわ言のように彼は呟く。あまりにも幸せそうに、だけど必死に言う彼がかわいくて頭を撫でて、これは10日間では勝敗がつけられないなと思いつつ、溺れるような愛を全て受け止めたのだった。

















あれから半年。もうすぐ大学を卒業する私は、キャラショップのアルバイトに精を出していた。ここで働けるのもあと少し。本当はここで社員にならないかと声を掛けてもらったけど、休みが合わないとごねるたっくんに説得されて、既に決まっていた市役所で働く事にしたのである。


「しおちゃん、お疲れ様!!早く帰ろうね、休日だから人が多くて皆がしおちゃんを見てるよ。許せなくて潰したくなるから帰ろう?」


バイトが終わった夕方、従業員用出入口を出るとすぐ彼が声を掛けてきた。あまりにも早口でちょっと聞き取れなかったけど、相変わらず変な事を言ってるんだろうな。


サッと掴まれた右手が恋人繋ぎにされると、肩に掛けていた私の着替えやお弁当に水筒が入ったトートバッグを自然に持ちながら、近くの駐車場にある彼の愛車に向かって早歩きで連れていかれる。きっと以前から言っていた、付き合って1年半の記念日である明日が待ち遠しいのだろう。それは私もだから、フフッと微笑みつつ大人しく付いていき、車に乗って彼の家に向かった。


どんどん増える彼のコレクションは、最近は勢いが落ちていて不思議だったけど何も言わないから、敢えて私も問う事はしなかった。相変わらず来られる時は、私がバイトの日に限って来るのは変わらないのに、買う物はお菓子や、言わずとも分かるらしい私が目を付けていたグッズを口角を上げながら買うぐらいである。


そんな彼の部屋で、帰宅即一緒にお風呂に入りながら愛されて、バイトもあって余計にクタクタになった私を嬉しそうにお世話しながら、家事が絶望的なのに頑張って作ってくれたハムエッグとサラダ、それから即席の中華スープと冷凍ごはんを解凍してテーブルに並べていく。まだ腰がダルい私を膝に乗せて、嬉しそうにせっせとごはんを食べさせくれながら、さりげなく割れてない方の目玉焼きをくれる彼の優しが温かくて、足がガクガクするまで愛された事を少し許そうと思った。


後片付けも私の寝支度も、もちろん自分自身の寝支度も嬉々として最速で終わらせると、ベッドに運んで組み敷かれたのでさすがに文句を言った。だって明日は記念日で、出掛けるからねとしつこい程に前々から言われていたのである。それなのにいつもの休日のように抱き潰されたらたまったもんじゃない。


「大丈夫大丈夫、午後からだからね。今晩はたくさん愛しても問題ないでしょ?それにしおちゃんが歩けなくても、俺が抱っこするから何の問題もないよ?」


さっき自分で着せてくれた私の部屋着のショートパンツ越しにおしりを撫でながら、そんな事を蕩けた笑顔と暗い目をして言う彼に、これは朝方までコースだなと察して諦めると、彼の手で快楽の海に堕とされる事を体を熱くしながら、満更でもなく待ちわびたのであった。


そうして翌日の昼過ぎ。頭を撫でられたり首の匂いを嗅がれたり、ふにふにと温かいものが何度も当たる感覚がして重い瞼を開けると、幸せが溢れたように蕩けた笑顔の彼がすぐそこにいた。絶対にそうだと思っていたけど、やっぱり嬉しいような、安心するような気持ちが溢れてほにゃっと笑うと、一瞬で真顔になり目の色を獣に変えて襲われそうになったので、掠れた声で必死にダメだと言ってなんとか抑える事に成功した。今でさえ腰と股関節が痛いし、喉もしんどいから勘弁してほしい。


そんな私をやっぱり嬉しそうに抱えてお風呂場に行くと、優しく全身綺麗に洗って湯船の中でしっかり温めてくれた。それから私が出て行く時に全て持ったはずのスキンケア用品を、彼自身が同じ物を買って揃えていてくれたお陰で、置かれているそれを丁寧に塗ってくれる。無くなりそうになったら知らぬ間に補充されているし、シャンプーや洗剤等も全部私が使っている物に変わっていた時はちょっと怖かったけど、彼の愛情なんだろうなと思ったらあまりに気にならなかった。


少し復活した私と一緒にシュガートーストを作ってコーヒーを淹れると、膝に乗せて食べさせてくれる彼に思い切り甘えた。ちなみに彼はコンタクトにしたので、くっついていても眼鏡が気になって遠慮する事も無くなった。そのせいで塩顔で綺麗な事が周囲にバレているけど、彼は絶対に私を裏切らないから特に何も言っていない。一度私を失う恐怖を味わったせいか過剰な程に愛を示してくれるし、疑わしいと思われるような事は絶対にしないのである。


一緒に後片付けをして、並んで歯を磨いたり身支度をすると、まだ足がちょっと覚束無い私をうっとりした顔で見ながら左手を腰に回して、右手で右手を掴んで車まで誘導すると、発進した車内でも相変わらず右手は掴まれたまま。もう慣れた事だけど、やっぱり安心するし大きな温かい手が大好きだった。


それから私や彼の好きな音楽をかけながら、流れるような運転で目的地に到着する。そこはやっぱりなと言うべきか、きっとここだろうと予想していた通りの海辺で。あの日、私に告白してくれたこの場所、そしてもうすぐ空が夕星(ゆうづつ)に包まれる時間。彼は改めて連れてきてくれた。


自ずと静かになった車内が、泣きたくなる程に綺麗な空の色に染まる。思わず見とれてフロントガラスの向こうの海を見つめていると、不意に右手を強く掴まれた。ゆっくりと瞬きをしながら見つめた彼の顔は、まっすぐに私を見ていて息を飲む程に真剣だった。あ、これはと思った時には、もう遅い。



「しおちゃん、結婚してください。」



そう言いながら、掴んでいた私の手を口元に持っていき手のひらに唇を当てる。まるで懇願するかのように上目遣いで見つめられると、言葉がすぐには出てこなかった。絶対に彼は私に、まだ言わないでと言わせないように素早く言ったのだ。前々から匂わせがすごかったから、プロポーズされる気はしていた。だから事前に、私はまだ若いから大学を出たら少しの間だけでも、自分でしっかり働いてみたいと伝えてあったのに。そんな事はお構いなしに、まっすぐ想いをぶつけてくるなんて。


「返事は?……一つしか認めないけどね、やっぱりしおちゃんの口から聞きたい。」


勝利を確信しているようなそんな笑みを口元に浮かべて、相変わらず手のひらに口付けをし続ける彼に少しだけムッとする。確かに答えは一つに違いはないけど、私は未だに好きだと彼に伝えられていないという意地もある。だからどうしようと悩んで眉毛をハの字にしていたら、掴まれていた右手を強い力でグンッと引かれた瞬間センターコンソールを乗り越えて、彼の膝の上に勢いよく横向きに乗ってしまった。


「ちょっと!危ないじゃん!!」


あまりにも驚いて咎めるように言いながら睨むと、背骨が軋む程の力で抱きしめられながら溺れるような口付けをされる。その合間に何度も「しおちゃん好きだよ、愛してる。」と言われつつ必死に鼻で呼吸していると、快楽によってだんだん思考が溶けていく。なんかもう、意地とかいいのかもしれない。好きだって言っちゃおうかな、結婚したいのは私もそうだし。そんな風にしか考えられなくて、意地っ張りの壁をこんなにも脆くする彼を、やっぱり好きだなと改めて思ったのだった。


「しおちゃん、そろそろ観念しなよ。俺の事が好きだって、結婚したいって言って?」


ドロドロに思考を溶かされた後、肩で息をする私に暗い目をしながら彼が言う。満面の笑顔なのに目だけが暗くて、吸い込まれるような錯覚がする程に深くて重い。でもそれでも、それが嬉しいし好きで仕方ないと思う私は、既に勝てない事が決まっていたのだろう。


ここまでよく頑張った、と自分に言いたくなる。別れを切り出した時も、その前も後もずっとずっと好きで、だからこそ傷つけられてショックのあまりに簡単に赦してなるものかと意地を張っていたけど、もう降参かな。約束通り骨を折って、むしろ全身複雑骨折かのように毎日毎日惜しみなく、全力で言葉や行動で愛を伝えてくれる彼に絆されちゃった私は負けを認めよう。試合に負けて勝負に勝った、という事なのかもしれない。だから。



「ふふ、たっくん好き。結婚しちゃおっか。」



きっと私は今、だらしない程に蕩けた笑顔をしているんだろう。でもそんなの、彼にだったらいくらでも見せていい。だってきっと受け止めてくれるし、ほら彼も同じ顔をしてる。



「嬉しい……!!愛してるよ、明日市役所に行こうね。もうご両親には許可を貰ってるんだよ、だから絶対に明日行くよ。その帰りに指輪も選びに行こう。あと部屋も引っ越してね?そのために最近は赤リボンネコさんグッズ買ってないんだ、ふふ。何がなんでもどんな手を使っても逃がさないから、一生。」



強く抱きしめられないがら、囲い込まれるなんて事が現実でありえるんだ。なんて思うけど怖いと感じないのは、私も同じぐらい重いからなんだろう。いつ両親に連絡を取って、しかも許可を貰ったのか全く知らないけど、こうなったら開き直って喜ぼうと決めた。



「一緒に市役所行こうね。だけど結婚しても働かせてほしいな。

一生大切にしてくれないと許さないよ、旦那様?」



そう言った直後、彼は蕩けた顔をして幸せを溢れ出していたのに、眉間に皺を寄せて獣のような「ぐぅぅ……俺の妻がかわいすぎる…。本当は家に閉じ込めたいのに……!」という唸り声を出したかと思うと性急に深すぎる口付けをくれたのだった。


そうやって二人の幸せが溢れる車内は、すっかり日が沈んで夜の闇に包まれた海辺で光を放つ、灯台のように明るい事だろう。


これからも記念日や喧嘩をした時は、夕星(ゆうづつ)を見にここに来よう。そして気持ちを新たに、また一緒に歩いて行けたらいいな。何があってもずっと彼と生きていくと決めた。それが意地っ張りな私の、絶対に譲れない事。


きっと今日の幸せの灯台が、未来を照らして道を示してくれるはずだから。








終わり



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ