008 片桐リナ説得作戦その2
それは雨の日の出会いだったと、市鷹見景は記憶している。
学校からの帰り道、傘を持っていたミケイは、あえてそれを使わずに歩いていた。
彼女は、ヒトの持つ生物学的な能力値に抗ってみていたのだ。
たかだか雨水に濡れるくらいのことで、なぜ傘を使わなければいけないのだろうか。考えてみれば不思議なことだった。
この薄っぺらい傘は、雨に濡れても問題ないじゃないか。
それに比べて私はどうだろう。なぜ傘なんてものを必要とするんだ。
ミケイはその答えも知っている。ほんの少しの間、雨水で濡れると、体調を崩すかもしれないからだ。
人間はなんて脆弱な存在なのだろうかと感じ、彼女は世の中に失望を感じていた。
ミケイは脆いモノや柔いモノが好きじゃない。
皮膚や肉の弱さは仕方ないとしても、骨なんて物は、真っ先に強化するべき箇所じゃないかと考えている。
私の周りの人は何故、人間であることの脆さや弱さに耐えられるのだろうか。
自分の考え方が異質であることは肌で感じつつ、ミケイは、弱いままでいることが我慢ならなかった。人はさっさと科学を発展させて肉体を改造するべきだと考えている。
ミケイが土砂降りの雨の中を歩いていると、彼女の前方に、同じように雨に打たれながら歩いている少年がいた。
それがミケイと田原清士郎の出会いだった。
何かを感じ取ったのか、それとも偶然なのか、清士郎がミケイの方を振り返る。
雨の中、二人は視線を交差させた。
清士郎はミケイが持つ傘に視線を移し、無言で何かを考える素振りを取った後、再びミケイ本人に視線を戻す。
ミケイは、清士郎が物欲しそうな顔をしている事に気が付いた。
傘を貸して欲しいのだろうか?
自分は今さら傘など要らない。そこで彼女は、自分自身も雨に打たれているという状況を無視して提案する。
「この傘、貸そうか?」
土砂降りの雨の中の出来事だった。
しばらくの間、二人は押し黙り、雨粒が道路に出来た水たまりを叩く。そんな音がしきりに聞こえていた。
ミケイの申し出に対して、清士郎はゆっくりと微笑んだ。
だがしかし彼は、断りの意を持って返事をする。
「ありがとう。でも、いいよ。ここまで濡れたら、もう手遅れだと思うし」
雨は容赦なく降り続いていた。
ミケイは思う。
だったら物欲しそうな顔なんてするなよ。
ミケイにとっての清士郎の印象は、他人の物を欲しがるくせに、いざとなったら受け取らない、妙な男というものだった。
時は現在に戻り、ミケイは清士郎の隣に立ち、その横顔を見ている。
場所は極楽寺レモンの実家だ。片桐リナとかいう人物に対して、説得と言う名の勝負を仕掛ける舞台として清士郎が選んだのがここだった。
ミケイは片桐とかいう女に目を向ける。黒髪で一見して派手な所はないが、眼光鋭い面構えだ。服装はスポーティーで、野球観戦をするなら似合いそうだと感じた。
ミケイは再び清士郎に視線を戻す。広々としたリビングに我が物顔で立つ清士郎が、片桐リナに向かって口を開くのが見えた。
「えぇー、初めまして。俺はゴッちゃんの先輩をやらせてもらってる、田原っちゅーもんや」
あんじょう、よろしゅうなぁ。清士郎は、何故か極道物の登場人物みたいな口調を取っている。
演出のためなのか、清士郎は派手な柄のシャツを着て、そのシャツの胸元を開いていた。さらに金のネックレスをぶら下げている。
ただし本物のゴールドではない。金属製ですらなく、プラスチック製のネックレスだった。
レモンの手引きで清士郎と対面させられた片桐リナは、得体の知れない態度を取ってくる清士郎に対して、警戒心を隠さずに言った。
「アタシは、今日はホームパーティーをやるって聞いて来たんだけどな」
片桐リナは、レモンから誘われたものの、ホームパーティーって何だよと内心で疑問には思っていた。
しかし彼女は断らなかった。
レモンの家族関係が気になっていた事もあるし、なにより、リナにとって友人の家に行くということには特別な意味があるからだ。
それは彼女にとって一種の通過儀礼として捉えられていた。
知り合いという関係を超えて、腹を割った関係性になるためにはどうするべきか。
そのためには、相手の家に行くことが必要だとリナは考えている。
これは別に、実家に限定されているワケではない。
スポーツで言えばホームの概念であり、自らの安全な場所、テリトリーの中に相手を招く事に意味があるのだ。
リナはレモンが、彼女のテリトリーに自分を招こうとしているのだと考えた。
ホームパーティーの提案は、そのための名目のようなものだと判断している。
一方、清士郎にはリナの考えている事が分からない。
ただしホームパーティーって何だよと、内心で疑問に感じている点は共通していた。
清士郎はホームパーティーという単語を、リナを呼び出すための方便だと判断している。
なぜなら、最初から勝負の話を出すと断られるかもしれないので、怪しまれないような理由をでリナを誘っておいてくれとレモンに頼んでおいたからだ。
だからこう思った。バカめ、騙されおって。
清士郎はリナの発言を鼻で笑いながら言った。
「ホームパーティーって! そんな欧米みたいな事を、日本の一般家庭でするワケがないだろう!」
そうだよな、ゴッちゃん。
清士郎は、確認の視線をレモンに向ける。レモンは困惑した様子で清士郎に向かって答えた。
「あの……アチシのパパとママは、わりと頻繁にホームパーティーを開くんスけど」
「えっ? マジで?」
しばらく無言で考えた後、清士郎は言った。
「じゃあ本日はホームパーティーってことで、ひとつ、あんじょうよろしゅう……」
「結局あんたは何がやりたいんだ?」
片桐リナの硬質な声が清士郎を射抜く。
段取りが早くも失敗気味なことをスルーしつつ、清士郎はリナの態度に臆することなく言った。
「俺がやりたいのはオハナシ合いさ。ゴッちゃんの事を含めて、色々な」
「それならアタシも確認したいことがある」
この男がレモンにとって、本当に大丈夫な男かどうかを見極めたい。
そう考える片桐リナは、続けざまに、清士郎の隣に立つ安原詩弦と市鷹見景に視線を向けた。
「それで? そいつらはアンタのオトモダチってワケ?」
少なくとも、話し合いの場に自分の味方を引き連れてくるようなヤツに、対等な話し合いをする気があるヤツはいないとリナは考えている。
清士郎のオトモダチかどうかを問われた安原は、リナからの咎めるような視線に怯えたのか、言い訳がましい口調で答えた。
「ええと、僕は久々に交友を深めたいだけっていうか、そもそも今日の集まりの目的が分かってないんだけど」
あはは、と笑って誤魔化そうとする安原。
そんな安原の姿勢に対し、清士郎は俄然とした口調で言い放つ。
「ヤッさん! また俺たちを裏切るのかヤッさん! あんたはいつだってそうだった!」
「…………」
やっぱり過去のことを根に持っているじゃないかと思い、安原は困ったような笑い顔を浮かべる。
安原が黙ってしまったので、続いて、ミケイがリナの質問に答えた。
「オトモダチかどうかと言う質問なら、私は清士郎の味方だ」
彼女は何の躊躇も無くそう言った。
そして次なる言葉を放つ。
「だから今日は、全力で清士郎を叩き潰すつもりだ」
そう告げると、ミケイは笑みを浮かべた。
リナはしばらくミケイの発言の意図を考えてみる。そして言った。
「ちょっと意味が分からないんだけど」
リナに続いて清士郎が口を開く。
「大丈夫だ、俺も意味が分からない」
レモンがミケイを擁護するように言った。
「ミケイ姉さんは、あれっスよ。全力で戦うことが友情の証とか、そういう感じじゃないデスか?」
しかしミケイはレモンの言葉を否定する。
「それは違うな極楽寺」
ミケイは、まるで靴ひもを結び直す時のような淡々とした態度で、彼女の考えを披露してみせた。
「私は叩いても壊れないものが好きなだけだ。だから清士郎を全力で叩いてみて、コイツが壊れないことを確認してみたいだけなのさ」
それは、まるで鋼のような思想だった。
あるいは刀を鍛錬するために、刀身をハンマーで叩く事に似ているのかもしれない。
しかしその考え方を人体に当てはめると、大変な事になってしまうだろう。
清士郎は、前々からヤバいとは感じていたミケイの発想が、相当にヤバい事に改めて気付かされ、心が受けた衝撃から、思った事をそのまま口に出してしまった。
「何が叩いて壊れないか確認したいだよ。俺の儚い人体をどうするつもりなんだよ。イッチーの考え方はぶっ壊れてるよ」
「ぼ、僕は個性的で良いと思うけどね」
個性的の範疇を超えたことを、個性的の範囲で済まそうとする安原。
清士郎の発言も安原の発言も、どちらもスルーしながらミケイは宣言する。
「そういうワケで、私は清士郎の味方ではあるが、今日はそちら側に立つ事になる」
そうじゃないと清士郎を潰せないからなと、ミケイは物騒な言葉を続ける。
レモンもこの流れに乗ってリナ側に付くことを宣言した。
「アチシもリナちゃんの味方です!」
その言葉がきっかけとなって、お互いの立ち位置を移動していく。
かくしてリナの方にはレモンとミケイが、清士郎の方には安原が立つ。
三対二の構図になりながら、リナは清士郎に対して挑戦的な態度を取った。
「それで結局、何をやろうってんだい?」
「単純な話さ。俺と勝負しよう」
「勝負?」
ルールメイカー気取りの清士郎は、得意気な顔になって言った。
「ああそうさ。三本勝負をして、二本取った方が勝ちだ。そして敗者は勝者のいう事に、何でも一つだけ従ってもらう」
「なんでオレがそんな勝負を受けなきゃいけないんだ?」
勝負事のためか、ヤンキー時代の口調に戻りつつあるリナ。
清士郎は思う。こう、流れで受けてくれないかな。
なんで勝負を受けなきゃいけないのかって問われても困る。彼は甘く考えていた。
上手い言い訳が思いつかなかった清士郎は、やけに腰が低い態度になりながら、
「その、ホームパーティーって、パーティーゲームとかやるじゃないっスか……?」
「…………」
疑問形で問いかける。
無言のままのリナに対し、さらにヘリ下りながら言った。
「そういう感じで考えてもらうのは、不可能でしょうかね?」
「…………」
「あ、あんじょうよろしゅう、お願いします」
えへへ、と愛想笑いを浮かべる清士郎を前にして、リナは思った。
さてはこいつ、何も考えてないな。
あるいはこれは演技で、アタシが思っている以上にトンデモなくヤバい人間なのかもしれない。
清士郎の人間性を確認しておきたかったリナは、この茶番に付き合ってみることにした。
「まあ良いよ。遊びみたいなモンだよな? それなら罰ゲームも遊びみたいなモンでいいか?」
「ありがとうございます! 恩に着ます!」
意気揚々と返事する清士郎は、周りの三人に自慢するように言った。
「みたか? 俺の交渉力」
「交渉のつもりだったんデスか?」
「うーん……、いや、あはは」
冷たくあしらうレモンと言葉を濁す安原。
そしてミケイは今のやり取りに全く興味が無かったのか、
「清士郎」
向かい合う形で清士郎の名前を呼びかけ、そのまま自身の疑問をぶつけた。
「今日は普段とは違う、特別なイベントだと思う」
「まあそうだろう」
清士郎の同意を得た上で、ミケイは言った。
「お前の骨、何本までなら折って良い?」
「…………」
「大丈夫だとは思うが、チカラの入れ方によってはイクと思う。骨は脆いからな」
こいつは何を言っているんだと清士郎は思った。
さてはハシャいでいるな。でもこのハシャぎ方ってどうなんだろう。
イッチーはテンションが上がると、他人の骨を折りたくなるんだろうか?
そんな事を思い浮かべながら清士郎は答える。
「うん、絶対に折らせないよ。そもそも、そういう危険な勝負は設定しないから」
「なんだ。相変わらずケチだな」
すねたように唇を尖らせるミケイ。
リナはヒソヒソとした小声でレモンに話しかける。
「あの人、大丈夫な人なのか?」
「確かに今日のミケイ姉さんは、ちょっとテンションがおかしいっスね」
でも、と付け加えてから、レモンは言葉を続けた。
「ミケイ姉さんは、高校の時は凄い人気があった人なんデスよ。大人のお姉さんっぽいっていうか……」
ちなみにミケイは、高校時代の非公式のグループチャットにおいて、女子からの『お姉さんにしたい人ランキング』で上位だった。
性格が無機質でさっぱりしている所と、男子に媚びていない姿勢が好かれていたらしい。普段は寡黙なので、おっとりした人だと勘違いされていた部分もある。
男子からの人気は微妙な所だ。
何の話題を振ればいいのか分からないという意見がある一方、ガチ恋勢が居るという未確認情報が飛び交っていた。
ここで注意したいのは、ミケイの「お前の骨を折ってもいいか」発言は、普段は行われないという事だ。
これはミケイなりの試してみたいランキングがあって、そこに該当するものは限られてくるし、骨に限られるわけでもない。
おすすめのスポットはホームセンター。
そこには、ちょうど試したい硬さの棒がたくさん集まっている。
そして大事なポイントは、ミケイは別に、折りたいワケではないのだ。
折れない強さを確認したいだけである。
最近の興味の対象は、ホームセンターで見かける色々な金属製パイプと、清士郎の持つ骨と人体の強さ加減と言えた。
ミケイの恐ろしい発想を直感で感じ取ったのか、清士郎は早口でリナに向かって告げる。
「片桐さん! 俺はこれから、あなたにカラオケ勝負を挑もうと思う! 理由は、骨が折れたりする要素が無いからだ!」
いいね、と念押しする清士郎。
なんなんだコイツらと思いながら、リナは口を開く。
「いいぜ。だけど、その前に……」
「その前に?」
「失礼が無いように、レモンのご家族に挨拶しときてーんだけど……」
それもそうだなとなり、一同でレモンの母親に挨拶することにした。
なお、パパは仕事で留守である。
経営者である極楽寺モンドは、休日が返上になるくらいに忙しい時があった。
また、そういう時だからこそ、レモンが遠慮なく実家に帰っているとも言える。
レモンの自宅には防音対策が施された部屋があった。
しかし重要なのは防音性だけではない。
大事なのは、その部屋になぜかカラオケ用の設備一式や、応接用のソファーが置かれていることだ。
まるでここでカラオケをしていって下さいと言わんばかりの内装になっている。ただしマイクやアンプが旧式であることが、年季の入りようを表わしていた。
「へへっ……アチシもカラオケが上手くなれば、もっと皆と仲良くなれるかもって、考えてた時期があるんスよ。それに自宅でカラオケできたら、皆がウチに遊びに来てくれるかもって」
カラオケ設備に触れた事でレモンの闇の部分が現れる。
なお、実際には友達を招いてカラオケをしたことは無い。
実質的に、この防音室はレモンが一人でカラオケを練習する部屋として鎮座してきた。
その歴史やオーラを深掘りしても闇しか出てこないと思われたので、リナは流れを変えるために、清士郎に対して手短に話を振った。
「ルールは?」
「ええっと、どうしよう。単純に機械の採点でいいかな?」
まんま普通のパーティーだとリナは思う。
勝負とは一体なんだったのか。そして、味方を決めてチームを分けた意味は何だったのか。
いや、そんな事は些細な問題だとリナは思い直す。
大事なのは、レモンのテリトリーに立ち入る事だ。それが友情ってもんなのだ。この場に適応するためにリナはマイクを握りしめた。
「じゃあ、まずはアタシから歌うぜ」
リナの選曲は女性歌手のロック調の歌だ。
レモンと安原は合いの手を入れて盛り上げ、ミケイは我関せずとソファーに座りながら聞いている。
味方がいつの間にか入れ替わっているように思える事をリナは疑問に感じていた。
いや、それよりも、機械採点で味方とか関係あるんだろうか。謎だった。
清士郎は腕組みをしながら仁王立ちしてリナの歌を聴いている。
それは対決ムードを演出するためだった。
そうでもしないと、もはや普通にカラオケをしているだけになってしまいそうだ。
勝負のことなど気にしていないのか、盛り上げ役もやらずにソファーでくつろいでいるミケイが、清士郎に話しかける。
「普通に上手いな」
それはリナの歌唱力を評しての言葉だろう。
そんな事よりもと、清士郎はミケイに忠告する。
「お前も一応あっちチームなんだから、ゴッちゃんみたいに盛り上げろよ」
そして何故だろうと清士郎は疑問に思う。俺側のチームのはずのヤッさんが、当たり前のように片桐の歌を応援している。
どうしてヤッさんと俺の関係はこうなっちゃうのかな。清士郎は裏切られ感を感じていた。
清士郎は何となくミケイを見つめ、思う。俺の味方になってくれるのは、俺の骨を折りたがるような危険なヤツしかいないのか。
果たしてミケイが何を考えているのか清士郎には分からない。ミケイは、歌い続けるリナの方に視線を向けたまま、清士郎に言った。
「私は歌はあまり好きじゃないんだ。歌うのも、人の歌を聴くのも」
「まあ無理に盛り上げろとは言わないよ」
そういや皆でカラオケに行った時は全然歌わなかったなと、清士郎は過去の出来事を思い出す。
リナの熱唱はサビの部分に入り、レモンと安原の合いの手も熱を帯びていた。
歌に参加できていない清士郎とミケイは、リナ達の作る音の世界からは弾き出されている。
過去を思い返していた清士郎に対し、ミケイが視線を向ける。そして二人にしか聞こえない声で呟いた。
「歌は好きじゃないが、好きな声はある。清士郎の声は、好きだよ」
俺の声帯を潰すところでも想像しているんだろうかと清士郎は考えた。
やがてリナの歌唱が終わる。
イエーイと盛り上がる三人。ミケイはいつの間にか清士郎から視線を外していて、まるで何事も無かったかのように、泰然とした態度でソファーに座っている。
彼女の言葉の意味を深く考えることなく、清士郎は歌うためにマイクを目指した。
「さぁて、次は俺の番だな」
「あの、アチシも歌っていいデスか?」
「僕もちょっと歌いたい気分だな」
なぜかレモンと安原がカラオケ勝負に参戦し始めた。
ええ~と思う清士郎だったが、ここで二人を止めるのもケチくさく思える。
レモンや安原が先に歌う事になり、清士郎はとりあえず腕組みしながら仁王立ちを続けた。
普通にカラオケして盛り上がるメンバー達。やがて対決ムードは消滅してしまい、グダグダになったカラオケ対決は、引き分けと言うことになった。