007 片桐リナ説得作戦その1
同僚からヘコまされていた立花左京だったが、何とか経済に関する講演会を無事に終わらせた。
お義理で聴衆として参加した清士郎とレモンは、講演の内容より、左京の助手を務めていたカナデのスリリングなやり取りに注目してしまう。
まさか質疑応答の時間に、真っ先にカナデが手を挙げるとは思わなかった。
さらに、やたらシビアで数値的な指摘をした。左京の慌てぶりが目に鮮やかに焼き付いている。
多くの聴衆はそれを一種のパフォーマンスに捉えたことだろう。
普通は、助手が講演者に対して攻撃的な質問をするとは思わない。質問しやすい空気を作るための作戦だと考えるものだ。
しかし左京は泣きそうな顔だったなと、清士郎は今になって思い返す。
組織内で孤立してそうな男、左京。彼が世界を救える日は来るのだろうか。
どちらにせよ清士郎も動かなければならない。
世界を救うという話は横に置き、極楽寺モンドとの約束を果たす時を見計らっていた。
休日となり、清士郎はいよいよ、片桐リナを巻き込むための作戦を実行しようと考えている。
それがレモンの父親であるモンドとの契約だ。
清士郎はモンドを通し、片桐リナに割りの良いバイトを斡旋する代わりに、モンドの下についてもらおうと考えていた。
娘であるレモンの事が気になって仕方が無いモンドに対し、レモンの近況を伝える諜報員を演じて欲しいのだ。
片桐リナの説得を行うに際し、清士郎はまずレモンの協力を取り付けようとしている。
しかしリナの友達であるレモンは、清士郎の意を即座に否定した。そして今や清士郎に対して反旗を翻している。
「アチシは反対っスよ」
レモンは清士郎に向かって堂々と言い放った。
二人は高校時代から利用していた馴染みの喫茶店の中にいる。
なぜか店内の壁には船のイカリが展示されていた。
見るたびに、なぜイカリが飾られているんだろうかと不思議に思う清士郎。だがそんな疑問を横に置いておき、彼はレモンに向かって言った。
「なぜだゴッちゃん?」
「アチシはリナちゃんの味方だからデス」
鼻息も荒く言い放つレモン。
ひたむきな瞳で清士郎を射貫きながら、次の言葉を放つ。
「これはアチシとパパの問題っスよね? そこにリナちゃんを巻き込むのなんて、ダメじゃないデスか」
清士郎は、フッと笑った。
何も言い返せなかったからだ。
正論はいつだって正しくて美しい。それは理想であり、理想に生きることを誰もが望んでいるだろう。
過去にはそんな哲学者もいて、イデアなる理想を夢見た。しかし人はイデアの世界に生きているワケではない。そんな事を考えながら、清士郎は口を開いた。
「逆に聞くけどさぁ」
言葉と共に鋭い視線でレモンを射抜く。
「困った時はお互い様の精神って、大事だよね?」
「……パイセン」
レモンもまた、鷹のようにシャープな目つきになって清士郎を見つめ返した。
「それが今、関係あるっスか?」
清士郎は、声を出さずに口の端だけで笑った。
レモンの言う通りだと感じていたからだ。話の脈絡から言っても全く関係なかった。
理屈はいつだって整合性を求める。整合性がある論理は正しく、そして美しい。
過去にはそれを追い求めた哲学者もいて、ロゴスという概念が育った。しかし人は感性だって持っているんだぜ。そんな事を考えながら、清士郎は、
「お互い様のお互いって、どこからどこまでの範囲だと思う?」
質問に対して質問で返すという方法を取った。
一体、パイセンは何を言い出しているんだ?
そんな表情を浮かべているレモンに対し、清士郎は言葉を重ねた。
「お互い様が成り立つのは、家族だけだと思うか? それとも友達も含まれるかな? 顔見知りとか同級生はどうなるだろう。たまたま道で通りがかっただけの人は、お互い様には含まれないのかな……」
誰もが寂しさを抱えながら生きているのに、他人に手を差し伸べることを怯えている。
手を差し伸べることで、自分が握りしめているものを失いたくないからだろう。
握りしめたお金と余裕のある暮らし。あるいは将来の幸福。理想の自己像などなど。
何かを失いたくなくて、人はその手を差し伸ばさず、何も得ず。ずっとずっと寂しいままだ。そんな寂しさが広がる宇宙を想像しながら清士郎は言った。
「考えてみても結局は分からないんだよ、人の縁なんて。ゴッちゃんは片桐って子を巻き込みたくないみたいだけど、どれくらいの関係の深さだったら、家族の問題に関わらせてもいいんだろうな。そんな基準は誰にも分からないから、やってみるしかないんだよ」
「イロイロ言ってますけど、田原パイセンの都合の話デスよね?」
ムッとした表情で言い返してくるレモン。
清士郎はあえて、レモンを怒らせるような言葉を選ぶ。
「ゴッちゃんの都合も含まれてるよ?」
「アチシはいいって言ってるじゃないデスか」
おお、怖い怖い。
清士郎はレモンから視線を逸らすと、窓の方を眺める。
そして街路を行きかう人々の姿を見るともなく見つめた。
通り過ぎていく彼らの事を、自分は何も知らないんだなと感じる。
すれ違っていく人々は無数にいても、それは出会いと呼べないまま終わるだろう。
自分はこれまで誰と出会い、そしてこれから誰と出会っていくのだろうか。
答えの無い問答を思い浮かべる清士郎。
さしあたっては、これまで実際に出会ってきた人の事と、出会う予定にしている人の事を考えようと思いながら、清士郎は言った。
「ゴッちゃんのパパの都合も含まれてる」
「それも……!」
怒りのままに叫ぼうとするレモン。
その機先を制するように清士郎は、視線を合わせないまま言葉を被せた。
「片桐って子が抱えてる問題も、当然含まれてる」
そのセリフによって一瞬の沈黙が訪れる。
片桐リナが問題を抱えているという指摘により、虚を突かれた想いになったからだ。
レモンの中に生じていた怒りの感情が、引き返す波のように遠のいていく。
怒りが押し返してくるまでの間の冷静な感情。そんな気持ちでレモンは言った。
「なんでリナちゃんの話になるんデスか?」
清士郎は視線をレモンに向けた。
レモンは清士郎の瞳の奥に透明な光を感じる。
それは意図的に発せられたものではないだろうけど、レモンに対し何かのメッセージを伝えていた。
言葉は口からだけ伝えられるのではない。文字に書いたり、視線の中に織り交ぜられることもある。清士郎はそれを無意識に行いながら口を開いた。
「人から聞いた話をそのまま信じるのもアレだし、個人の事情に突っ込むのも野暮だとは思うけどさ。その片桐って子、生活に苦労してるみたいじゃん」
レモンの脳裏に、食堂で無料の水だけを頼むリナの姿が思い浮かんだ。
そんなレモンの前で清士郎は言葉を続ける。
「お金に困ってそうなのに、他人を頼ろうとしない。そういう姿勢は立派だと思うよ。でも、こっちが差し伸べた手を握り返してくれないのだとしたら、それは多分、寂しい事だよ」
寂しいという言葉で、レモンはかつてリナと語り合った時に感じた思いを呼び起こした。
相手がこちらの気持ちを受け取ってくれない事への寂しさ。
それをリナが理解していないだろうという、わびしさ。
踏み込んだ話をするには時間が必要だと思っていた。そんな思いにひたるレモンの耳に、清士郎の語る言葉が届いてくる。
「他人を手助けするのに、自分の問題には関わらせない姿勢は、気高い生き方だと思う。ゴッちゃんの事とか、周りの人のことを考えての行動なんだろうな」
清士郎は、片桐リナの生き方を凄いと思っていた。
だけどその生き方は、ひどく残念で、悲しい結末が待っているとも考えている。
誰かが犠牲になって得られた未来で、笑い合えるような人はいないと清士郎は考えていた。
それでも皆が笑うのは、犠牲になった人が、友人や知人達に笑っていて欲しいと願うから。そう信じるからだ。
誰もが笑っているのに心の中では泣いている。
無理矢理に笑い合うことで、犠牲になった人に向けて、幸せを与え返そうとする。
それは天国によく似た別の何かの光景に思えた。
酷く美しく、そして悲しい物語。清士郎は片桐リナの生き方を想像しながら言った。
「でも俺は、そういう生き方は幸せじゃないと思ってる。何かを与えてくれた人に、こっちが何も返せないのは寂しい事じゃないかな。そういうのは、好きじゃないんだ。だから片桐って子の生き方に、少しばかり手を貸したいとも思ってる」
悲しい物語を聞くのは嫌だから。そう清士郎は考えている。
俺は片桐って子に会ったことは無いわけだけど、と前置きしてから、清士郎はレモンに質問した。
「俺と片桐って子の間に、お互い様は成り立つのかな。それとも余計なことかな。ゴッちゃんはどう思う?」
「パイセンは、言い方がズルいっすね」
苦笑を浮かべるレモンに対し、清士郎は肩の力を抜きながら言う。
「まあ俺が考えてるのは、今のままだと俺がオゴってもらえる余地が無いってことなんだ。片桐って子が余裕を持って生活してくれる方がベストなんだよ」
「そーいう事にしとくっスよ」
緩く微笑むレモンを見て、清士郎はラッキーと思った。
どちらも彼の本心だが、順番を工夫することで印象を変える事ができる。ゴッちゃんはまだまだ素直でやりやすいなぁ。そんな事を清士郎は考えている。
かくしてレモンを味方に付けた清士郎は、片桐リナ説得作戦を練り始めた。
そしてリナの事をよく知っているだろうレモンに、作戦の良否を判断してもらう事にした。
「普通にやっても説得できなさそうだな。だから特別な方法で行こうと思う」
「特別な方法?」
「勝負を仕掛けるんだよ。しかも三本勝負だ。負けたヤツは勝った人の言う事を聞くってルールで、片桐って子とバトルしてみようと思う」
「説得って概念を投げ捨てたようなやり方っスね」
清士郎は思う。相手は極楽寺モンドの提案を既に蹴っている。普通の説得を試しても面白くないだろう。
自信満々な清士郎に対し、レモンは浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「でもリナちゃん、素直に勝負なんて受けますかね?」
「大丈夫でしょ。元ヤンらしいし勝負事は好きなはずだ」
「えっ? 元ヤン?」
「あっ」
ヤベエ、これ秘密の情報だったかと、清士郎は内心で冷や汗をかく。
モンドから得たシークレット気味な個人情報を、ついつい漏らしてしまった。
これは片桐に申し訳ないと思い、清士郎は言い訳を考える。
何とか誤魔化そう。彼は動揺する心を表に出さないで言った。
「元ヤングースのファンだよ。野球のチームの」
「リナちゃんって野球が好きだったんデスか?」
「ああ、そうみたいだよ」
どうかそうであって下さいと清士郎は祈った。
なお片桐リナは野球はそこそこ好きだが、熱烈に応援しているチームは無い。
どちらかと言えば高校野球のファンで、球児の活躍に一喜一憂する感じだ。
エラーがあるからドラマが生まれるというのがリナの自論だったりする。
「しっかし、どういう勝負を仕掛けようかな」
清士郎が何気なくレモンに話しかけた時に、突然、横から声が降ってきた。
「料理勝負なんてのはどうだ?」
「うん?」
横を向いた清士郎の目に映ったのは、黒い前髪が、鋭角に切り揃えられた女性の姿だ。
それは清士郎がよく知っている顔だった。
知っているというか、同級生で友達の市鷹見景だった。
清士郎とは違い芸術大学に行った人物だ。清士郎とレモンは驚きながらミケイの名前を呼んだ。
「イッチー!?」
「ミケイ姉さん!」
黒いチョーカーに黒いロングニット。
見ようによってはマントを羽織った黒服の特殊戦闘員みたいにも見える。
日常生活に溶け込むことを拒絶してるとしか思えない市鷹見景は、今も喫茶店の中を荒廃都市の空気に変えようとしていた。
レモンに対し、久しぶりだね、と声をかけながら横に腰掛けるミケイ。清士郎は久々に会うミケイに対し、思った事をそのまま口にした。
「なぜこんな所に?」
そして何故、この喫茶店の閑静な雰囲気をぶち壊そうとするんだ。
それは言葉に出さない言葉だった。
ミケイは、ふっと笑うと、
「私が居ちゃマズイかな? 清士郎」
どこか挑戦的な笑みを浮かべてみせる。
白く、少女の面影を残す顔。黒くて鋭角的な髪。そこに、やけに鋭い眼光があって、独特の世界観を感じさせる。
ミケイがそこに居るだけで、硝煙のニオイと、生き残りを賭けた戦いが始まりそうな予感があった。
ディストピアでバトルなシティ生活が似合いそうな女だ。そう思いながら清士郎は言った。
「別にマズイってわけじゃないけど、お前、さっさとスマホ持てよ。メッセージのやり取りできねーじゃん。連絡取れないし、久しぶりに会うからこっちは驚いてるんだよ」
和風サイバーパンクの世界に生きていそうな見た目のわりに、ミケイは機械類が苦手だった。
清士郎から責められたと感じたのか、彼女はスネたように唇を尖らせる。
「携帯電話なら持ってるぞ。電話してくればいいじゃないか」
「電話も出ねーだろお前は……」
特に何かの美術作品を制作していると思われる時には一切出ない。
電話に出ないと言うか、たぶん、携帯電話を携帯していないんだと清士郎は予想していた。
ミケイの登場に驚いていた清士郎だったが、さらに驚くことが起きる。
それは、さらなる別の友人の登場だった。
「ははっ、僕もいるよ。お久しぶり」
「ヤっさん!?」
「安原先輩!」
これまた清士郎の同級生である安原詩弦が現れた。
清士郎は、メガネをかけた優男である安原に対し、元気ハツラツな声で言った。
「俺たちとの連絡を断ち切ってまで受験勉強したヤッさん! とても偏差値が高い大学に進学したヤっさんじゃないですか! こんな下々の集まりに何か御用でしょうか!?」
「…………」
毒のある言い方だなあ、と安原は思った。
清士郎はすぐに、
「冗談っスよ」
と笑ってみせたが、安原の気は重たかった。
なぜなら高校二年生の終わり頃からは、実際に清士郎との関係を断っていたからだ。
安原はチラリと、レモンの隣に座るミケイに視線を送る。
久しぶりに見た彼女はやはり美しく、安原は胸の傷が疼くのを感じた。そんな感情を押し隠しながら言う。
「受験に集中するためとは言え、付き合いが悪くなっちゃってた僕も悪いんだけどさ」
「いや、メッセージ送っても全然連絡なかったのに、今日はどうしちゃったの?」
連れだって来たのかと思い、清士郎はミケイに視線を送った。
しかしミケイはスマシ顔で目を閉じている。どうやら違うみたいだ。
安原は清士郎の隣に座ると、顔の横をポリポリと掻きながら、困ったような笑顔を作る。
言いづらそうな様子を見せた後、戸惑いがちに口を開いた。
「なんていうのかなー……。ははっ、信じられないんだけど、呼ばれたと言うか」
「呼ばれた?」
誰に、と考えていた清士郎の目に、安原の肩に乗っかる小さな影が見えた。
それはチャーハンの妖精、ハーンだった。
手のひらサイズのハーンは、安原の肩の上で腕を組み、鼻の穴をピスピスと動かしている。
どうやらこいつがヤっさんを呼んだらしい。清士郎は思う。チャーハン好きだったのかよ、ヤっさん。
そうなると、ミケイの方も似たようなものだろう。
そう考えながら清士郎がミケイを見ると、そこには卵スープの妖精、スウの姿が見えた。
スウは小さな湯飲みを使ってお茶を飲んでいるようだ。
妖精もお茶を飲むのかよ、っていうかアレって実体じゃないよな、一体何を飲んでいるんだと清士郎は疑問を持った。そんな清士郎の反応に気付いたミケイは、
「ん? この子か?」
妖精スウに目を向ける。
そして妙に納得したような口調で言った。
「しかし、やはり清士郎にも見えるか……」
やはりって何だよ、俺のどこに妖精が見えそうな要素があるって言うんだ。
そう思った清士郎だったが、ミケイに質問することはしなかった。
なぜなら、ミケイの説明は独特の概念が多すぎるからだ。
しかもそれは鉄のように無機質な概念で、終末世界の住人でなければ上手く理解できなさそうな響きがあると感じていた。
この妖精が何を考えているのか分からないんだと言うミケイ。
そんなの俺も分からないよと答える清士郎。
妖精に関するトークを続ける二人を安原は隣で見ていた。
キュッと締め付けられるような胸の痛みに耐えきれず、彼は二人の間に割り込むようにして口を挟んだ。
「二人には見えるみたいだけど、僕にはさっぱり見えないんだよね」
「えっ? ヤッさんには妖精が見えてないの?」
清士郎からの質問に対し、安原は普段通りの笑みで答える。
「そうなんだ。突然、頭の中に声が聞こえてきてさ。ネットで知ったこいつを試してみたら妖精が見えたんで、なんか安心したよ。あはは」
そう言いながら安原はスマホを取り出して妖精ハーンの姿を映す。
妖精を映像化するアプリケーション『現世虚構:ホロウ・リアクション』を起動しているのだろう。
とにもかくにも、せっかく妖精が縁をつないでくれたんだし、この二人も巻き込むことにしようと清士郎は考えた。
片桐リナとの対決に際し、こちらのメンバーは四人だ。そのことを勘定に入れながら、清士郎は来たる対決へと思いを馳せた。
「これで四対一か……」
数が多い方が絶対的に有利だ。
そんな事を思う清士郎に対し、レモンがおずおずとした口調で言った。
「あの、パイセン。アチシはリナちゃんの方に付きますよ?」
「それなら私もそちらに付こう」
レモンもミケイもリナ側に味方するようだ。
おいおい、なんてこった。清士郎は目を閉じて黙考する。
そして思う。数が多い方が有利とは限らない。
清士郎は、なんら動揺を表に出さないまま言った。
「これで二対三か……」
「うん、まあ、僕はキヨちゃんに付くよ」
何が面白いのか、あるいは本当は笑えないのか、困ったように笑う安原。
こうして旧友の助力を得た清士郎は、その旧友の一人を早々に敵に回していた。
だがこれで作戦の準備は整ったはずだ。そう信じる。
清士郎は、まだ見ぬ片桐リナとの対決に、改めて思いを馳せた。