T-07 さくや奇譚
急速に近代化の進む、過渡期の日本。
その片隅にある狭い褥で、㐂弥彦はひとりの童女に弄ばれながら、昔話を聞く。彼女の艶やかで幼い声に魅入られながら、㐂弥彦は次第に不確かな世界に足を踏み入れていく……。
長く続いた幕政が終わり、過渡期を迎えた日本の話。
㐂弥彦は、古めかしい行灯に照らされる薄い布団に仰向けで寝たまま、椅子に座った童女の足指で汗ばんだ胸や腹を弄ばれていた。悦楽に身悶えしながら熱い吐息を漏らす㐂弥彦を見下ろす紅玉の瞳は艶かしく、愉しげに嗤うその顔は、村外れに住むキリシタンが声高に宣う悪魔とやらにも思えた。
人を誘惑し堕落させ、地獄に堕とす?
「くすっ、情けないお姿♪ そんなに好い?」
「あ、ぅおぉっ、」
あぁ、そりゃこの娘だ──被虐の悦びを噛み締めながら、㐂弥彦は法悦の吐息と共に胸を仰け反らせた。
西洋の価値観が流入し、その最中に起きた外国船の労働者を取り巻く事件の余波で、娼妓は「自由意思」での営業は禁じられていった。性病の検査なども義務付けられて安心だと述べる輩も多い。
だが、㐂弥彦のような童女趣味の好色漢にとって公的に許容された娼妓など年増も年増、昂ったものも萎えてしまう。それに、㐂弥彦が買っていたのは世間に顔向けできない背徳の悦びだ。お膳立てされた娯楽ではなく、隠れて耽る享楽がほしいのだ。
貧農の家から売られ、心細さや孤独のなか客を待ち、父親ほどの男たちから向けられる欲望に戦きながらも抗えずに受け入れ、恐怖や屈辱、苦痛の涙で褥を濡らす様にこそ男は滾るのだ。あれこれと規定を決め、それらを満たした公娼など──㐂弥彦が童女趣味を更に拗らせたのは言うまでもない。
しかし、規定はともかく実態では貧しい生まれの子女は“他所”へやられているし、犯罪にはなるが、㐂弥彦もその恩恵でおいしい思いをしていた。実入りのよい仕事を見つけては年端のゆかぬ娘で銭を使い果たすばかりだった㐂弥彦の日々を終わらせたのは法などではなく、ひとりの童女との邂逅。
それまでただ蹂躙するばかりだった㐂弥彦を、童女はいとも容易く飼い慣らしてしまったのである。㐂弥彦自身も知らなかった性を見抜き、被虐性癖を植え付けたのだ。
何度通い、何度彼女を求めたか。
彼女は巧みに㐂弥彦を焦らし、煽り、それでも決して本懐を遂げさせない。ただ㐂弥彦が情けなく喘ぐ様を嘲笑うのみだった。以前の㐂弥彦ならば腕ずくで本懐を遂げただろうが、童女──朔耶に飼い慣らされた今は、ただ彼女の興を買って許されるしか考えられなかった。
この夜も朔耶の責めに耐えていた㐂弥彦だったが、彼女はそんな㐂弥彦を見下ろし、嘲笑と共に彼の胸から足を離してしまった。
「あっ……」
切ない声をあげる㐂弥彦に、朔耶はクスクスと笑いながら囁いた。
「㐂弥彦様ったらずっと情けなく鳴いてばかりだもの、触るの飽きちゃった」
「そんな!」
「だから、今度は声で躾けてあげる」
朔耶の瞳が煌めき、㐂弥彦の視界は湿った布で塞がれる。
「な、なにを、」
「今晩から7日、あちきと会うときはこうして声だけ聞かせてあげる。いい子にできたら、㐂弥彦様がほしいご褒美も差し上げるから……いいでしょう?」
「うっ、ふ……っ、」
耳許で吐息混じりに囁かれる甘い誘惑に、㐂弥彦は為すすべなく身体を痙攣させる。それが問いへの答えだった。
満足げに笑う朔耶。その吐息すら今の㐂弥彦には至高の快楽に感じられて。
「それじゃあ、まずは……」
楽しげな声で、童女は語る。
【壱の夜 七郎】
七郎は、茫然自失として川縁を歩いていた。
村で仲のよかった娘・さきが、父や兄たちに目を付けられてしまったのである。粗暴で人倫など顧みない、近所でも聞こえの悪い家族だった。いっそ天災や流行り病にでも見舞われてしまえばいいと思っていたが、佳人薄命というならその逆もありうるのか、七郎の家族は飢饉でも旱でも生き抜き、それらが自信となったか益々傍若無人になっていった。
そんな家族から離れるために、七郎は故郷を出ようと密かに決めていた──浅からぬ絆を結んでいた、さきを除いては誰にも告げることなく。
そしていよいよ故郷を離れようという日、さきと待ち合わせた場所にいたのは下卑た笑みを浮かべる兄たちで。引きずり込まれた近くの小屋には、少し前に村を訪れた行商人が売っていたという薬の粉が散らばり、その奥では父とさきが……。
『さきっ!』
慌てて駆け寄った足を踏みつけられ、七郎は無様に倒れ伏す。そんな七郎に見せつけるように、父は更にさきの身体を責めたてる──薬のせいか、凶行に心を壊したか、何をされても声も上げず、ただ屍のようなさきを。
『お前ごとき小童が儂を出し抜こうなど、愚かなことを考えたものよ! お前と儂は家族ではないか、お前のものは儂のものよなぁ!』
響き渡る父の嘲笑と、玩弄され続けるさき。
呆然と見つめる七郎の目の前で、兄たちまでもが父による凶行に混ざり始める。何が愉快なのか、けたたましい声で嗤いながら。何が楽しいのか、児戯に耽る幼子のように。
やがて物言わぬ骸のようになったさきを放り出した後、総出で七郎に袋叩きにしたのである。骨が折れるのも構わず、臓腑が潰れるのも構わず、執拗に暴行を続けた。
目覚めると、ぼろ雑巾の自分と、廃人となった物言わぬさきを残して、小屋からは誰もいなくなっていた。
息も絶え絶えになり、もう何もその瞳に映すことのなくなったさきを背負うと、足と肺、腰の辺りに火が着いたように痛む。それでも、背負わずにいられなかった。
「さき、村を出ような……。それでふたりで……」
覚束無い足取りで川縁を歩きながら、その言葉を何度も繰り返す七郎。だらりとした背中の重みを手放さないように、もう彼女は手遅れなのだと悟らないように、必死で歩いた。
歩くごとに、折れた骨が周りの肉を突き刺す。
吹き荒ぶ山颪が骨身を軋ませる。肋骨の刺さった肺は碌に空気を取り入れられず、ただ呼吸のたびに身体中が痛むだけだった。意識を手放しそうになりながらも、最後の望みであった故郷の外だけを夢見て、七郎は歩を進める。口から血が溢れ、霞んだ目はもう月明かりすら見つけられない。それでも、それでも。
「そのまま歩くと、死んでしまうよ?」
暗闇から、声が聞こえた。
途端に七郎の視界が晴れて、見えてきたのは下弦の月に照らされた真っ暗な川縁。そして声の主と思われる、ひとりの童女の姿があった。その童女には、どこぞの物語で語られるような『香り立つ』という言葉がよく似合う美しさがあった。
月光のように蒼白く艶やかな肌、夜空よりも尚暗い濡羽色の髪、闇夜にあっても鮮やかに輝く紅玉髄のような瞳。月夜の他には何もない、普通ならば文目も分かないような中にあっても、その童女の周りだけは別世界のようだった。鮮やかすぎて毒々しくさえ見える蝶柄の黒い着物は、どこか高貴な生まれの娘のようでもあった。
しかしその白い顔に浮かぶ笑みには、この世ならざる気配すら滲んでいる。七郎は、痛む身体の苦痛以外の汗が自分の身体を伝うのを感じた。
「ねぇ、そのまま歩けば死んでしまうよ? ほら、背に負うてる娘など疾うに、」
「やめろ! 俺を惑わすな!」
七郎は思わず叫んでいた。張り上げた声は闇夜ばかりではなく傷ついた己の臓腑にも響き、苦痛に顔を歪めながらも、決して背負ったさきを離さぬよう懸命に堪える。
「すごいすごい! そこらの高物よりよっぽど面白いよ!」
さも可笑しそうに嗤い転げる童女に怒りのまま拳を振り上げたくなったが、今の七郎にはそれすらできない。いつしか不様に地面に這いつくばっていた七郎を見下ろしながら、童女は笑う。
「あちきは桜鵺。ねぇ、立たせてあげましょうか?」
どうしたことか、先程まで感じていたある種の禍々しさは消えていた。しゃがみ込んだ短い裾から覗く脚は滑らかで美しく、差し伸べられた手は仏の慈悲にすら見えたのだ。そんな己に戸惑う七郎に、桜鵺は紅玉髄の瞳でまた微笑む。
「さぁさ、この手を取って? きっと御心が楽になるから」
喉を潤す湧水のように、童女の声が七郎の心を侵食していく。まだ微かに残った不信感も、紅玉髄の輝きを見るうち些細なことに感じられてきて。
桜鵺に助け起こされた七郎が立ち上がると、そこには誰もいなかった。ただ静かな川が隣を流れるのみ。夢でも見ていたかと目を擦ったが、そんな七郎を、先を歩くさきが急かしてきた。
「ほら七郎、まだ誰も来ないうちに行こう? どんなとこでも、きっとここに比べたらいいところだよ。ふたり一緒なんだから!」
一瞬目を疑ったが、すぐにかぶりを振る。
いったい何を考えているのだ、俺は。さきがこうして目の前で笑っているだけで十分じゃあないか。
気を取り直した七郎は、今度こそ歩き始めた。ふたりだけの幸福へと向かって。
* * * * * * *
「恋人に蝿が集ろうと、膿んだ傷口から蛆が湧こうと、七郎様は最期まで幸せだったのでした。めでたし、めでたし」
「……その男は、本当に幸せだったのか?」
「愛する人と最期を共にできるなんて、これ以上ないほどの幸せじゃない? 病めるときも、死するときも一緒だなんて……いつの日か叶うのかしら? くすくすくす」
七郎とやらの顛末を語る朔耶の声音は、どこまでも楽しげで。想像しえたひとつの結末に身震いしながらも「さくや」の名を持つ童女の話に魅せられ、何よりひとつの事実が㐂弥彦を奮い立たせる。
あと、六夜。
朔耶の居室を出た㐂弥彦の頭上では、孤月が煌々と輝いていた。