T-02 代替品の花嫁と狼な御曹司
姉がわたしの許嫁と駆け落ちした。
なんて迷惑な話だろう。おかげでわたしは、姉の結婚相手になる筈だった御曹司に代替品として嫁がされる事になってしまった。
「……ふん。千景、これは形式上の結婚だ。お前との子は持たぬ」
「え?」
「もう一度言ってやろう。俺はお前を抱くつもりはない。書面と公の場でのみ俺の妻であってくれればそれで良い」
そして顔合わせした途端、彼から拒絶された。
その理由を問うても答えはない。
しばらくわけがわからぬままに、夫の顔を一度も見る事なく過ごしていたわたしだったが……ある日、真実を知ってしまう。
なんと夫は灰色の毛並みを持った狼の姿をしていた。
屋敷の縁側、そこに大きな狼がどっしりと腰掛けていた。
美しい灰色の毛並みをした狼だ。それが静かに夜空を見上げ、円い月を眺めている。
なんだあれ。それがわたしの正直な感想だった。
この家で狼を飼っているなんて話、聞いた事がない。
そもそも狼はここ数年目撃されておらず、滅び切ったのではないかと言われている。本来こんな場所にいる筈がないのに、確かに存在しているのだから不可思議にも程があった。
もしかするとこれは夢だろうか。
そもそもあれ程利口な狼などいるものか。人の匂いで満ちた家屋に忍び込んだのならば、人の一人や二人は食らってもおかしくはなかろう。
不本意な結婚をし、夫に冷遇され続ける哀れなわたしの心が生み出した幻想と考えれば、納得がいかないでもない気がする。
でも確認してみない事には分からない。
わたしは迷いなく狼に近寄り、「あのう」と声を掛ける。狼がわたしを振り向いて金の瞳を丸くした。
「ご機嫌よう。夜分遅くに如何なさったのですか」
当然、返事など期待していなかった。だって相手は狼、喋る筈もない。そう思っていた。
「お前こそどうし…………ぁ」
なのに狼は言葉を発した。
気まずい沈黙。
まじまじとわたしが狼を見つめると、狼は見逃してくれと言わんばかりに静かに目を逸らす。
しかし問い詰めないわけにはいかなかった。
何故狼などがここにいるのか。
何故人語を話したのか。
何故、わたしの夫と同じ声をしているのかという事を。
◇
わたしの夫は、元々姉の五十鈴の許嫁であった。
なら何故わたしが嫁がねばならなかったか。それは姉と、そしてわたしの許嫁が駆け落ちなどという愚行を犯したからだ。
今の時代、庶民は当たり前のように恋愛結婚するようになった者も多いと聞くが、華族として生まれたわたしたちに結婚相手を選ぶ自由はない。
豊かな暮らしを送れる代わり、たとえ嫌でも家の利になるよう生きなければならないと強制される。しかし愚姉はそれを破った。
顔立ちが素晴らしく美しかったおかげか、調子に乗ったのである。
いつの間にやらわたしの許嫁と情を育んでいただけではなく、ある日突然の駆け落ち。一番金になる着物を一つ持ち去っただけで煙のようにかき消えた。
必死に探したが、二人を追う術はなく。
わたしの許嫁の青年がいた家からは慰謝料をぶん取ったが、このままでは姉が嫁ぐ筈だった相手に家を潰されかねないという事態に陥ってしまった。
姉の許嫁は華族の中でも最も身分が高い狼谷家の御曹司。一度も人前に姿を現した事がないと噂される程高貴なお方だ。
「仕方あるまい。千景よ、お前が五十鈴の代わりに狼谷家へ嫁げ」
「えぇっ……顔も知らない相手の嫁になんて……」
「わがままを言うな。お前は五十鈴程ではないにせよ器量が良い。代替品として不足はなかろうよ」
「代替品、ですか」
なんと酷い言種か。しかしわたしに抗う選択肢などない。
まったく、あの愚姉はなんて迷惑な事をしてくれたのだ。自分の許嫁は決して好きではなかったが、姉の元許嫁の妻になるなんてもっと嫌なのに。
わたしは十八。本来二十歳に婚姻する予定だったが、先方の怒りを鎮める為にも、直ちに嫁ぐという話になった。
慣れ親しんだ家から離れるのは別にどうとも思わない。しかし飼い犬たちとの突然の別れは少し辛かった。
「多分わたしはもうこの家には戻ってこないと思うけど、どうか元気で」
わたしは動物が好きだ。父や母、姉にあまり構ってもらえなかったからか、動物に心を癒してもらっていた。
狼谷家では犬や猫はいるだろうか。いたとして、その毛並みの柔らかさを思う存分堪能する事はできないだろうが、いてくれたら良いなと思った。
飼い犬の他に父母とも最後の挨拶を済ませると、嫁入り道具が用意されていた。
それを持って列車に乗り込む。列車の中でわたしはお相手の事を考え続けた。
名家の御曹司だ。たくさんの妾を持ち、侍らせていても何もおかしくはない。
それとも意外に優しく、わたしを丁重に扱ってくれたりするだろうか。
顔は。体つきは。年齢は。声は。
妄想してみるがどれもしっくりとこなかった。
そのうち列車が狼谷家の最寄り駅に到着する。
そこは山奥と言うべき場所。生い茂る木々の間に細い獣道が伸びていたのでそこを歩き、やがて辿り着いた。
わたしの生家の屋敷よりずっと広い。古びた木の匂いのする、古き良き豪邸という風の出立ちである。
玄関口に吊るされた呼び鈴を鳴らすと老いた下女が現れた。
「花嫁様ですね。正雄様がお待ちで御座います」
案内され、向かった先は屋敷の二階の最奥にある部屋。
そこに夫となる人物ーーー神谷家の嫡男、狼谷正雄がいる筈だった。
けれどもいざ入室してみれば彼の姿は見えず。
中央に掛けられた暖簾の向こうからくぐもった声がした。
「……やっと来たか」
明らかに不機嫌だ。愚姉の事で相当腹を立て、顔すら見せたくないという事らしい。
わたしは溜息をグッと呑み込んだ。
「初めまして、五十鈴の妹の千景と申します」
我ながらきちんと挨拶できたと思う。なのに。
「……ふん。千景、これは形式上の結婚だ。お前との子は持たぬ」
「え?」
「もう一度言ってやろう。俺はお前を抱くつもりはない。書面と公の場でのみ俺の妻であってくれればそれで良い」
とんでもない事を告げられてしまった。
数回深呼吸を繰り返してやっと彼の言葉を受け入れる。聞き間違いでも何でもない。わたしははっきりと拒絶されたのだ。
「何故ですか?わたしたちは華族で御座います。自覚なく逃げ出した姉を持つわたしが申し上げるのもなんですが、子作りはせねばならぬでしょう」
華族の結婚は家柄重視。理由は当然、後継ぎは高潔な血の者ではないと相応しくないからである。
それに家同士の力関係もある。いくら力の強い狼谷家とはいえさすがに御法度も良いところではなかろうか。
花嫁との子をもうけないなどと堂々と宣言してしまうなど。
「不満は好きに述べれば良いが俺の心は変わらない。この件はすでに両親も承諾済みだ。外部の者に漏らすのは自由だがその場合己の身がどうなるか……分かるな?」
背筋がぞっと冷たくなる。
それ以上言い返す勇気はなかった。
「……承知しました」
「婚姻届に記名はしてある。お前も書け」
暖簾の下からすぅっと出てくる一枚の紙と毛筆。
言葉に言い表しがたい、やるせない気持ちを押し殺しながらわたしはそれを受け取って己の名を記した。
ろくな未来が待っていないのは先程の短いやり取りでわかってしまったというのに。
「よろしくお願い致します、正雄様」
こうしてわたしは彼の妻になった。
◇
夫から愛されない妻が冷遇されるのは当然の事だろう。
下女や下男はわたしを憐れんだ目で見るし、世話をさぼる事も多かった。
狼谷家の当主とその妻、つまりわたしの義父母にあたる彼らの態度は敵対的ではなく、むしろ「息子が申し訳ない」と謝ってきたが、だからと言って何かしてくれるわけではない。
肩身が狭い。今すぐにでもこの屋敷から逃げ出したいと思うようになるのに、それ程時間は掛からなかった。
所詮わたしは代替品に過ぎないのだ。
良い扱いをされるなんて最初から期待すべきではなかった。いや、むしろ、この待遇は当然なのかも知れない。
せめて動物がいてくれれば救われたのに、どうやら子犬一匹いないらしかった。屋敷から出れば野生動物はいるだろうが……。
いっその事抜け出してやろう。そう決めたのは嫁いでから十日目の晩の事だった。
もちろん愚姉とは違うので逃げようとまでは考えていない。夜中の間、少し森に入るだけ。
「それくらいであれば誰にも咎められやしないでしょう。どうせわたしの事なんて誰も見ていないのですから」
夫とは別室、一人きりで寝かされていた寝室を出て、わたしは屋敷の縁側を目指す。
そこから森に入りやすい筈だし、誰の目もないだろうーーーそう思っての事だった。
でも意外にも縁側には先客がいた。
わたしの身長の二倍はあろうかという体長の狼。おとなしそうだから食われなければ撫でるくらいはさせてもらえるのではと期待したら、驚くべき事にそれは言葉を解した。
「正雄様ですね?」
「…………」
「しらばっくれても無駄です。どういう事か、わたしが納得できるよう一から十までお話しくださいませ」
狼の尻尾がだらりと垂れる。どうやら観念したようだ。
それから彼の口から語られたのは、俄かには信じられない御伽話のような内容で。
「……実は俺は、大神の末裔なのだ」