T-19 あなたのこいとのぼる蒼天
「それがそなたの一生か? そなたは恋をしておらんのか」
こいのぼり職人の父親を手伝って暮らすことね。ことねの手によって生を得たこいのぼりの茜さん。ことねは外の世界への憧れを持ちながらも、家族三人で仲良く過ごしている。
ある日、茜さんが川に流された女の子を助ける。さくらと名乗った女の子は、里では見たことのない上等な小袖を着ていた。それもそのはず、さくらは藩主徳山家のお姫様なのだ。
お屋敷まで送るという申し出を断り、逆に遠ざかる方へ連れて行けというさくら。理由を聞いても教えてくれないばかりか、一緒に里を出ないかとことねを誘う。
さくらに迫る追っ手。父に本音を打ち明けられないことね。二人を背に乗せ天を泳ぐ茜さん。
これは、自身の境遇や秘めた思いに悩み抗いながら前を向き、自分の生きる道を掴みとろうとする二人の少女とこいのぼりの物語。
──風光る蒼い空を、あなたとならどこまでも。
陽光跳ねる清流のような空を、心のままに泳ぐ。
胸をとおりぬける薫風は、熟成された酒のようにふくふくと甘く、清々しい。
風光るこの蒼い空を泳ぐとき、わたしは確かにこいのぼりなのだと幸福感を噛みしめる。
とんびがお囃子の笛のような鳴き声で威嚇してくる。いつの間にか彼のなわばりに入っていたらしい。空に境界線などないのに、彼らの目にはそれがはっきり見えているのだろう。
固いくちばしで和紙の身体に穴でも開けられたらたまらないので、高度をぐいと上げる。穴が開いたところで、ことねならむしろ喜んで修繕してくれそうだけれど。
「茜さーん!」
視線を斜め下に向けると、当のことねが十二歳にしては小柄な体で、上半身ごとぶんぶんと手を振っていた。聞こえているよと答える代わりに、身体をくるりと一回転ひねる。
勢いがつき、五条の里が一望できる高さまでのぼる。ここまでくると土と草の匂いも薄れ、空の純度が極まる。混じりけのない風と同化する。
遊んでいるうちに里を見守る茶神山まで来てしまった。青葉の息吹が濃い。桜のころにはきれいな花いかだの浮かんでいた清流が、昨日までの大雨で水かさと勢いを増している。
そのとき。
(⋯⋯て)
ごうごうと流れる水の音の向こうにかそけき声が聞こえた。
(た⋯⋯けて)
人だ! 水気を含んだ弱々しい声。ぐんぐん近づいてくる。
川面のそばまで下りると、岩にくだけた水滴が腹に跳ねる。多少濡れても大丈夫だけれど、水面に近づきすぎないよう注意しながら、上流に視線を向ける。
きた。遠目に黒い頭を確認。見る見るうちに大きくなって、頼りなさげな木の板にしがみついている女の子だとわかる。あわてて身体を反転、並んで飛ぶ。
「ねえ! 大丈夫?!」
もはや激流となった水の音に負けないよう大声を出す。目をつぶったまま反応はない。なかば気を失いながら本能だけですがりついているみたい。
「聞こえる?! つかまって!」
呼びかけながら口の先でつつく。う⋯⋯とか、あ⋯⋯とか声にならない声が返ってくるだけ。それをかき消すように大量の水が落ちてうずまく轟音が聞こえる。そうだ、この先には。
利発そうなおでこに漆黒の髪が濡れてはりついている。多分ことねと同じくらいの年のころ。わたしの目の前でこの花を散らせるわけにはいかない。
「がんばって! こっちにきて!」
こいのぼりがこの子を助けるには、下から支えて浮き上がるしか手がない。でも水の中を泳げば、いかなこんにゃく糊で固めた和紙の身体も破れてしまう。こいなのに、川を泳げないなんて。
滝の音が迫る。落下までもう間もない。女の子が宙に投げ出される様が心をよぎりぞっとする。
⋯⋯いや。あの機にもしかしたら。
視線の先で濁流がとぎれる。数瞬あとには滝口だ。こぬか雨のような水滴が漂いだす。迷っている暇はない。覚悟を決める。
水流が垂直に変わる瞬間、
落ちる水よりも早く滝の裏側へ。
一瞬遅れて落ちてくる影を見定め、
全身に力をこめ宙を跳ねる。
滝の壁をつらぬくその刹那、
確かな重みを受け止める。
背中でとらえた身体を落とさないよう、しゃにむに上昇する。滝つぼの音が遠のいたところで一息。頑丈に作ってくれたことねに感謝する。
たっぷりと水を吸った小袖と力の抜けきった女の子の身体は、予想よりも重い。それでもわたしはこいのぼりだ。空なら泳げる。
「お母さん⋯⋯」
里に向かって風に乗ろうとすると、背中から弱々しくうわ言が降ってきた。同時にやけどしそうなほど熱い雫も一滴。意識を取りもどした気配はないけれど、手の届かない何かに追いすがるような切情が染みてくる。
「この子も訳ありみたいね」
背負った重みはどこか懐かしい。ことねの顔が浮かぶ。さあ、家に帰ろう。
◇
「わ! 茜さん、ずぶぬれじゃない! どうしたの? その子、誰? え、この子の身体、冷たすぎるよ。大丈夫なの?」
工房を兼ねた簡素なつくりの家の戸をくぐると、混乱したことねの声に出迎えられた。ここまで飛んでくるうちにわたしの身体からはだいぶ水分が抜けたものの、女の子からはまだしぶとく水がしたたっている。
慌てふためきながらも、ことねがぼろ布をたくさん持ってきて、小袖をはがし身体を拭いていく。
「外の子だよね? こんなきれいな子、見たことない。憧れちゃうな」
乙女椿の色に似た薄紅色の小袖は、里で見かける小袖とは明らかにものがちがう。襦袢の下の肌は白梅のように仄白い。
土間に面したかまどの近くにふとんを敷いて、女の子を寝かせる。ひととおり思いつく限りのことをやり終え、人心地がついたような面差しのことねと目が合った。
「さて、茜さん。何があったのか、そろそろ教えてもらいましょうか?」
仕方なくとんびに怒られたあたりから説明を始める。途中からだんだん前のめりになったことねは、滝の壁を突き抜けるところでぐっと息をのみこみ、女の子を背に載せ空まで昇ったところで、はぁー、と大きく吐き出した。
「女の子を助けたのはすごいことだと思うし、茜さんのことをとても誇らしくも思う。⋯⋯でも、お願い。無茶だけはしないで」
抱きしめられながら受けとめる願い。
「わたしの家族はもうおっ父と茜さんだけなんだよ。茜さんはいなくならないで」
「大丈夫。かわいいことねを置いていくようなことは、絶対にしない」
ことねはこくんとうなずいた。その拍子にこぼれた一粒の雨だれを受けながら、わたしは確かめる。何があろうと、この子を守る。
と、暖かく浮揚しだした空気に小さなうめき声が横入りした。
ことねがすぐさまふとんの側にしゃがみこむ。隠すように涙をぬぐったことには気がつかないふりをして、隣に並ぶ。
「聞こえますか?」
ことねの呼びかけに応じるように、まぶたが小刻みにふるえ、大きな眼が開いた。
「ここどこ?」
「五条の里ですよ。こいのぼりの産地で」
「え! ちょっと、何それ!? も、物の怪?」
「ちがいます! 茜さんはこいのぼりです」
「こいのぼりがどうして浮いてるの? 気持ち悪い!」
ことねの頭くらいは丸飲みできそうな大きな口と、顔の左右についた大きな目。そんなこいのぼりが近くに浮いていたら、確かに気持ち悪いのかも。
「気持ち悪いって、そんないい方ない! 茜さんは命がけであなたのことを助けたんだよ? 茜さんがいなかったら死んでいたかもしれないのに、命の恩人に気持ち悪いって、そんなのないよ! まずはありがとうでしょ!?」
わたし自身が気にしていないのに、ことねは声を荒げた。
ことねの言葉で気を失う前の状況を思い出したのか、女の子はきまずそうにかけぶとんを鼻まで引き上げる。もごもごと聞こえた言葉は小さな、それでも確かな、ありがとうだった。
満足げにうなずくことね。空気がほころぶ。
「それはどうやって浮いてるの?」
「わたしにも分からないけど、自然と空中を泳げるのよね」
「しゃ、しゃべった!?」
「茜さんは生きてるんです。わたしが作ったんですよ」
「飼っておるのか?」
「違います! 茜さんは家族! 飼いものじゃないです!」
一言ひとことにことねが大声で反応するので思わず笑ってしまう。
「あなた、名前は?」
「さくら」
「きれいな名前! お姫様みたいですね」
さくらは茶神山の向こうから来たと話した。茶神山の向こうには藩主の徳山様のお屋敷があるはず、と問うと、そちらの方角から来たのだと、うしろ暗いことでもあるのか、横を向いた。
わらわがここにいると、そなたたちによくないことが降りかかるからすぐに出ていく、と横顔のままもらす。命の恩人に迷惑をかけることはできない、と。
ならば茶神山まで送ろうかと申し出ると、羽切峠までお願いしたいとの返事。
「それって方角は正反対ですけど、お家に帰らないんですか?」
「そなたたちには分かりようもない事情があるのじゃ。早くせぬと追いつかれる。わらわは気ままに外の世界へは行けぬ。この好機を逃すわけにはいかんのじゃ」
外の世界という言葉に一瞬こわばるが、ことねは言い聞かせるように答える。
「わたしも一緒だよ。おっ父を手伝うから里からは出ていけない。おっ母もいないし、わたしがいなくなったらおっ父は一人ぼっちになっちゃうから」
さくらがけげんな表情で問い返す。
「それがそなたの一生か? 空は果てなく広がっておるというのに、そなたは父親のためにこの里に残り続けるのか。そなたに添い遂げたい者がいるとして、その者が里の外へ行くといったらどうする。そなたは恋をしておらんのか」
「そ、添い遂げるとか、恋とか、そんなこと……、わかりません!」
おぼこいことねにはまだ早そうな話題だ。つぶらな瞳がくるくるまわり、真っ赤になった顔からは湯気が出そう。
「わらわはそんなのいやじゃ。自分の人生は自分でつかみとる」
さくらの目は、はるか遠くにあるものを確と見定めているようだ。あわあわしていることねを見やり、宙に浮いたままのわたしに視線を移すと、天啓が降りたように笑った。
「そなたたち、わらわと一緒に行かぬか?」
「へ?」
「ここで父親とともにこいのぼりを作り続けるのが、真にそなたの望む人生だというのなら、強くは勧めないが」
気位の高そうな瞳がやんちゃ猫の眼となって、わたしを見すえる。
「わらわとこなたの二人くらい、おぬしなら軽いものであろう?」
 





