T-18 西壁の守護者 ~生き残りをかけて戦う陰陽師は怨霊を御せるか~
大陸に覇を唱えた黄国の権勢が衰退し、大陸の東北部は荒廃していた。
人々は生き残るために妖とまじわり人妖となり果て、勢力を広げるために周囲の国々に襲いかかる。
その魔の手は大陸の東に位置する秋津国にも及んでいた。
都から西に千里、紫洲に築かれた西壁を守る防人として勘解由小路在景は刀伊と呼ばれる人妖の勢力と戦っていた。
かつて友に陥れられて都を追われた在景は、祝言を約束した鏡子と再会することを胸に秘めて。
しかし、人妖の勢いは凄まじく、朝廷に強い怨みを抱いたまま式となった阿呼の力を借りるしかなくなるが……。
墨で書かれた一つ目の魚が手の甲をすっと泳いだ。時折、息を継ごうと水面に浮かぶ鯉のようにこうして浮かんでくる。
勘解由小路在景は眉をひそめ、とんと指で弾く。
墨魚は驚いたように白い肌の下に潜って身を消した。
――まったく忌々しいことこの上ない。
約魚と呼ばれる墨は在景を呪いで縛る。約を違えると、対象の心の臓を食らうのだ。陰陽道でも呪禁に属するこの術は、効果を限定することで強い力を持つ。在景も何度か試みたが、術を破棄することはついに叶わなかった。
「在景殿、在景殿はいるか?」
銅鑼を鳴らすような大声が宿舎に響き渡る。眉間に皺が刻まれたまま在景は戸を開けて客を出迎えた。
ざんばら髪にすり切れた着物。鍛え抜かれた岩のような体をあらわに出した偉丈夫が立っていた。山から下りてきた鬼と見紛う姿だが、愛嬌のある眼に笑みをたたえる口元がどうにも警戒心を抱かせない。
「騒々しい、何事か?」
「大神能直だ。朽州より参った。藤原隆家様からお主の下に就くよう申し付かっている」
朽州といえば都の遥か東。都から千里は西に下ったこの地、紫洲くんだりまで来たことに在景は驚きを禁じ得ない。
「わざわざ西の果てまで死にに来るとは酔狂な奴だ」
「おうよ! 死中活ありだ。西壁ならば功は取り放題だろう?」
「生き残って帰参できればの話だがな」
能直の豪快な笑い声が在景の眉間の皺をさらに深くした。
紫洲に築かれた西壁は、大陸から海を渡って襲ってくる刀伊からこの地を守る最後の砦だ。国中から集められた防人が刀伊を討伐する任を務める。だが、任期を全うして故郷に帰れる者はほんの一握りに過ぎない。
二年の間、戦い続けて生き残った在景の周囲の者たちの顔ぶれは、ほとんど入れ替わってしまった。
そんな感傷を吹き飛ばすように不意に警鐘を打ち鳴らす甲高い音があたりに響いた。
能直の口角が弓のように反り返り、纏っていた気が膨れ上がって圧を増す。
「戦か! 旅の疲れを癒す暇もないな」
「初戦で死なれては困る。能直殿は私の側に控えていてくれ」
「ふむ、まあこれが最後でもあるまい。在景殿に従うとしよう」
生き残らねば、いつだって最後になるかもしれないと蒸し返す余裕は在景にない。時は一刻を争う。集まってきた兵たちをまとめると足早に西壁へ向かった。
海岸線に連なる西壁は人の倍の高さまで岩が積み上げられた防壁だ。赤黒い色彩が異様さに拍車をかける。元からこのような色だったわけではない。防人たちの血を吸って染め上げられたのだ。
死んだ防人たちの魂は呪禁によって結界の一部となる。死んだ後もこの地に縛るとは死者も浮かばれまいと在景は苦々しげな表情を見せた。結界によって生者が助けられていることが更に心を苛んだ。
――私は這ってでも都に帰る。鏡子は待っていてくれるだろうか……。
真っ先に思い浮かぶのは祝言の約束をした鏡子のほころぶような笑顔だった。
異能の力を買われて幼い頃に勘解由小路家に迎え入れられてから、宗家の三女である鏡子とは何度も顔を合わせる機会があった。
それから七年。陰陽師としての修行を続ける合間に人目をはばかって逢瀬を重ねた。
鏡子は邸内で大人しくしているようなおしとやかさとは無縁で好奇心旺盛で向意気の強い女だった。陰陽師としての腕前は在景に引けを取らない。背中を任せるに足る力を持っていた。
似たような境遇が互いを引き寄せたのだろう。鏡子を娶ることに何の躊躇いもなかった。例えそれが血を掛け合わせて異能の力を色濃く子孫へ継承する外法の類だったとしても。
「あれが、刀伊か!?」
能直の驚愕の声で在景は我に返った。
海を埋め尽くす黒鯨の背に張り付くように人妖が乗っている。人妖の姿かたちは様々だ。豚面の者もいれば、角をはやした鬼に嘴が突き出た鳥頭もいる。大陸の過酷な環境に適合するために妖とまじわった人のなれの果てだ。
「ああ、奴らは人を攫う。民を守るためにも通すわけにはいかない……」
攫われた人々の末路は悲惨だ。食われるだけならまだマシな方だと言わざるを得ない。大陸との海路にある壱州の島々はことごとく民が消えたと聞く。
黒鯨が砂浜に乗り上げると同時に、人妖たちが飛び降りた。槍を片手に地虫の蠢くような声を上げて一団を率いていた蛙面の眉間を矢が貫いた。
「お見事」
「ふむ、面妖な姿をしているが、死にはするのだな」
矢をつがえたまま能直が独りごちる。
「急所を突けば死ぬし、血を流しても死ぬ。だが、油断はできん。足や腕を失ってもまた生えてくる。厄介な敵だ」
「要は確実に止めを刺せということか」
「話が早くて助かる。当てにさせてもらうぞ」
在景はちらりと矢を構える隊を振り向くと手を振り下ろした。同時に指で印を切る。雲霞の如くひしめき合う人妖たちに炎を纏った矢が降り注いだ。
「陰陽道か。これは心強いな」
「魔を祓うは陰陽師本来の役目。安んじて功を上げられるがよかろう」
「心得た!」
能直の弓から矢継ぎ早に放たれる矢は次々に隊長格の大妖を屠っていく。それでも押し寄せる人妖の波は止まない。同胞の屍を踏みつぶし、襲いかかる勢いに押され、防人たちに怯えの影が走る。気付かぬうちにじりじりと後ずさる。
「いかん……。飲まれておるな。このままではいずれ崩壊するやもしれん」
「わかっている。皆の者、ここが踏ん張り時ぞ! 我らの力を示すのだ!」
応との掛け声が空気を震わせた。死を前にして冷静でいられる者などいない。麻痺させるのだ。正常な思考を、恐れを、希望を。それが生き残るための細い道筋だった。
壁を越えようとする人妖を槍で突き、石を落とし、刀で切り捨てる。人妖たちに梯子の用意などあろうはずもなく、足場とするのは積み重なった屍だ。自然と突破口はいくつかに絞られた。
弓を置いた能直は素早く大太刀を抜いた。ぶんと空を割く音を残して三体の人妖が上下に斬り分けられた。風に舞う木葉のようにくるくると回る能直。大太刀が描く軌跡は殺到する人妖を次々に斬り伏せた。
安堵したのもつかの間、在景の耳がくぐもった声を捉えた。視界の端で狼面に爪で腹を裂かれた兵が崩れ落ちる。咄嗟に指で印を切ると、尖った岩が撃ち出され、狼面を吹き飛ばした。
「いいか、お前は助かる。気を強く持て!」
在景は腹を割かれた兵に駆け寄ると、腹に呪符をあてた。時が遡るように傷口が閉じる。虫の息だった兵は腹を押さえたまま驚きで目を見張った。
「後ろに下がっていろ。お前の命の捨て所はここではない」
何度も頭を下げて立ち上がった兵を一顧だにせず、在景は戦場を見渡した。壁のそこかしこで戦いが行われている。その後ろにはまだ浜に上がろうとする黒鯨の群れが待っていた。このままでは早晩、人妖どもに押し切られるだろう。
在景は意を決すると、懐から呪符を取り出して掲げた。
「顕現せよ。阿呼!」
渦巻く煙の中から絹糸のように艶やかな黒髪の女が現れた。切れ長の目にすっと通った鼻梁、三日月に開かれた口。文官の袍を纏い男装をしていても美しさに陰りはない。見る者を引き付ける魅力を持ちながら、どこか背筋に冷たいものが走る。
「阿呼。大嵐をもって人妖どもを駆逐せよ!」
「……ふん、またか。何故、私が朝廷を助けねばならん」
阿呼は不平を露わにした。本来、術者によって呼び出された式は従順だ。死ねと言えば、その場で死を選ぶ。自我を持っていようといまいと、現世の存在とは大きく異なる。術者の命に服さない。その一点だけでも彼女が理から外れた存在である証明となった。
「この地に住まう民を守るためだ。力を貸せ」
「お主が朝廷に反旗を翻すのであれば、手を貸すのもやぶさかでないぞ」
「今は一刻を争う。論ずるのは後にしろ」
話にならんといった風に阿呼は顔の前で手を振った。
「この身に渦巻く怨みの炎は何十年経とうとも消えることはない。すでに奴らが死んでいたとしても、子や孫が生きている限り報いを与えねばならん」
「バカな。族滅でもするつもりか。律令を司った者の言葉とも思えん」
「私を現世に留め置き、利用しているお主がそれを口にするか」
口論の間にも兵は次々に傷ついて倒れている。戦況を横目に気もそぞろな在景にとって、怨みに我を忘れる阿呼を従えるのは難問だった。
「怨みを忘れろとは言わん。だが、今は助けてくれないか」
「そうして慰撫することで怨みが消えるとでも思っているのか?」
「民たちは皆、恐れ敬っている。阿呼が守り育てた命の灯だぞ」
「ならばお主を陥れ、ここに縛り付けたあ奴も一緒に殺してやろう。どうだ?」
「それは……、できん」
臓腑の底から絞り出すように否定の言葉を口にする。脳裏に浮かぶのは忌々しいほど涼やかな顔。幼い頃から友として育ち、在景を宴席で酩酊させて約魚を刻んだ男。
「ふはははははっ、あれもできんこれもできん。まるで童のようではないか」
耳障りな笑い声が戦場に木霊する。在景はぎりと強く歯を噛みしめた。口の端から血が流れ落ちる。
強い力を持つ怨霊が転じて式となった阿呼。何の犠牲もなしに使役できるわけがない。
「よかろう。私はここに誓う」
血を拭った指を手の甲に当てて呪符を書く。
「かつて私を謀った加茂保則を許し、その命を取らないと」
手の甲が輝きを増し、二匹目の約魚が現れた。





