T-14 霊都怪異譚
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泰盟837年 ――。
太平の世となってしばらく、戦も飢饉もないその国で、されど闇は昏く深く、折に触れては怪異が出没するようになって幾年か。
今宵もまた、目抜き大通りで大きな怪異が咆哮を上げるここの事を、人は首都ではなく霊都と呼ぶ ――。
「照らせーッ! 影を無くせーッ!」
「影に逃がすなーッ!」
「縛縄用意! 足を止めろ!」
出現ごとに姿形は違えど、対処の基本は変わらない。まずは足止め、次いで祓うための固定だ。
だが。
うわあッという驚声で注目を集めた下級警吏の姿に、周囲から罵声が飛ぶ。
「踏ん張れ、馬鹿野郎!」
「その前に手ェ離せ! バカッ!」
暴れる怪異に振り回されて宙をぶんぶんと左右に横切っている彼を心配しての罵声に、本人が「無茶言うなーッ!」と反論している辺りは、この状況が彼らにとって珍しい光景ではないからなのだろう。2本のねじれ角に加えて背中に大きく黒い羽根という怪異に怯む様子はない。
「あほうっ! こっち来んな!
振り回されている男を頭上スレスレで避けた同僚が怒声を上げ、別の縛縄をつかんで踏ん張っている者に駆け寄り加勢する。
「あー、もう! あの坊ちゃん遅ェッ!」
本来ならば、縛縄で動きを封じ、祓い役が抑え、最後に斬魔の太刀を扱える武の者が斬って怪異を退治する、という手順ながら、祓家の若長の到着を待てずに後方にいた大男が太刀を抜いた。瞬時に顔色を失くした部下達がその腰や足にしがみつく。
「無理です無茶ですッ!」
「護生家をお待ち下さいーッ!」
「待てるかッ! あの口だけ坊ちゃん、毎度毎度ケツが重いんだよッ!」
「それ訴えられるヤツーッ!」
―― リィン。
「『伏せよ』」
一瞬の鈴鳴り、後、轟音と共に暴れまくっていた怪異が地に倒れ伏した。まるで縫い付けられたかのように指一本動かせなくなった怪異は、それでも尚、雄叫びのごとき奇声を上げた。
その後頭部にいつの間にか静謐と佇むは、月光を背にして更に白く輝かんばかりの1人の青年だった。
常ならば逆光となるその姿が、後光を放つかのごとく凛と見えるのは、頭上高くにキリリと束ねた白銀の髪のせいか、昨今ではやや古風になりつつある白一色の直衣のためか。顔面を覆う白垂巾に描かれた赤い一つ目の意匠が唯一の色彩である。
「こんばんは。良い夜よな」
一瞬のうちに状況を変えた彼は、ポカンと大口を開けて固まる大男達に涼やかに話しかけた。
「てめ … ッ!」
ハッと我に返って文句を言おうとした大男の声は、周囲から沸いた大歓声にかき消された。
毒気を抜かれ、大男は軽い足取りで怪異の上からこちらへと移動してきた青年に舌を打った。
「手ェ貸すならもっと早く貸しやがれ、白妙」
「何を怠惰をほざく。我はぼらんてぃあじゃぞ」
「押しかけボランティアじゃねぇか」
「給金もろうておるのだからさっさと止めを刺さぬか。ホレ、縛を解いても良いのか?」
「てめぇ … 憶えてろよ」
自らが白妙と呼んだ青年をじろりとにらみ、大男は後頭部をガリガリと掻きながら彼と入れ違いに怪異へと歩み寄った。
ぐるぐると唸り、未だ凶暴な眼差しでねめ上げる怪異は、憤怒や怨嗟の色を隠しもしない。だが大男も動じず見下ろし、太刀を振りかぶる。
「ここはてめえの場所じゃねぇ。―― ぬんッ!」
キョオォォォ … 。
斬魔の太刀はあやまたず怪異をまっぷたつに割った。怪異のその身はすぐに黒い煤のようなものに変わり、風鳴りめいた断末魔だけが空に昇っていく。
「チッ、相変わらず耳障りなモンだぜ … 」
あの怪異の元になった憤怒や怨嗟は誰の、どんな経緯で生じたものだったのか、考えないようにしても、あの哀しい声は聞いていて気持ちの良いものではない。それは皆同じなのか、部下の中には手を合わせている者もいる。
「―― 白妙。助かっ … は?」
加勢に礼を言うべく振り返った大男は、安堵に沸く部下達の間にあの白い青年の姿が消えているのに目を剥いた。
「おい! あいつどこ行った!?」
「え?」
「あれ?」
「また?」
呆けたように周りをキョロキョロ見回す部下の姿に、大男は「あーッ、もう!」と頭を掻き毟り、天に吼えた。
「毎度毎度! 礼ぐらい言わせんかい、クソがーッ!」
そして彼の苛立ちは、この後ようやく到着した祓担当の貴族へと余すところなく向けられたのだった ――。
護生家は数百年にわたり、この国を、霊都を護ってきた祓いの大家だ。現在も怪異出没の報を受ければ当代最強とされている長男が出る。彼らにすれば即時対応ではあるのだが、怪異出現から出動要請がかかるまでの時間差はどうにも埋められない。だというのに、警邏側からは「遅い」と恨まれるのだから割に合わない、と渋面にもなるというものだ。その上、最近は何と言ったか、白妙とかいう男がしゃしゃり出てくるという。しかも護生家の者より強いなどと侮辱される始末だ。
「ええい、腹立たしい!」
今夜もまた、せっかく出張ってやったというのに、怪異はとっくに斬り捨てられているわ、下っ端共からは「今頃 … 」みたいな目で見られるわ、挙句に太刀役の第一部隊長には直接「もう終わったよ!」と吐き捨てられるわで胸糞悪い事この上ない。
だが出張ったからにはそのままとんぼ返りというわけにもいかず、部下共々後始末 ―― 斬って終わりではないのだ ―― を済ませて屋敷に帰る頃には、彼の苛立ちは最高潮に達していた。
深夜にもかかわらず整列して出迎えた使用人達を蹴散らす勢いで奥に向かうと、若き公達は到達した納戸の木戸を力任せに開け放った。
「赤目!!」
それより少し時間は遡り、怪異の討伐を見届けた白妙の姿は護生家の上にあった。そのままするりと下降し、奥の建屋に向かう彼の足取りに迷いはない。他に比べるとややくたびれた建屋は、取って付けたように母屋にくっついており、黒い木壁には屋根近くに小さな灯り取りの窓があるだけだ。
それを見上げた白妙の姿が不意にかき消える。と、同時に、建屋の中、窓の向こうに白い人型符がひらひらと床に落ちた。
もぞり、と細い月光の中で動いたのは人か。
室内に敷かれた布団の中から、華奢な影が上体を起こす。するすると下に落ちた薄い掛け布から現れたのは、単衣を身に纏った少女であった。
白い寝具に映えるは長くまっすぐな黒髪と真っ赤な瞳。その縦長の瞳孔が楽しげにきゅうと細まった。
「相変わらず楽しい男達よな」
クスクスと小さく吹き出す声も愛らしいがしかし、男口調なのは誰も指導する事がないからか。
そっと布団からいざり出て床に落ちている人型符を胸元の袷にしまうと、少女は小さな灯り取りの窓を見上げた。
彼女が外の世界に触れられるのは、その小さな窓と、式神を通しての散歩だけだ。その中でたまたま苦戦中の大男達に目が留まり、気まぐれで手を貸したのが最初だった。それから数回そうした手助けをするうちに、彼女の「お忍び」の目的は彼らとの他愛ないやりとりを交わす事へと変わっていっている。
まあ、状況はお世辞にも穏やかとは言えないが。
怪異は、少女にとっては脅威ではない。少女にとっての脅威は人間、それもこの家の者達だ。
首が据わり、壁にすがらず立てるようになり、最低限自分の事が自分でできるようになると、少女の居場所は此処になった。此処に移る前から、それをそうと呼ぶ事事すら知らぬうちから、家の者達の己への負の感情を浴びてきた。
その名を知ってからは、それらの悪感情は恐怖・憎悪・疑心・苛立ちと分類でき、いたしかたない事、と諦念までも憶えた。
自分が異形と知ったから。
人間とは違う紅い眼を初めて鏡で見た時、どうしても自分は受け入れられる事はないのだ、と悟ってしまう程に利発であった事が更なる不幸だったのだろう。
故に少女は、暴れるでなく騒ぐでもなく、今もここで暮らしているのだ。生かされている、という現状に感謝すら覚えながら。
そして今夜もまた出会えた大男達の事を少女が楽しく思い返していると、荒々しい足音がこちらに向かってきているのに気づき、すっと表情を消した。そのまま流れるように平伏する。
「赤目!!」
木戸が壊れそうな勢いで開け放たれたと思えば、今夜出張っていた護生家長男が仁王立ちしていた。かと思えば、そのままドカドカと歩を進め、室内を二分している格子を蹴りつけた。
「忌々しい!」
「―― 後継様におかれましてはご無事のお戻り … 」
「やかましい! 皮肉かそれは!」
平伏したまま挨拶を述べようとした少女を遮り、長男はまたも格子を蹴った。
「今度も違ったか。さっさと化生すれば退治てくれるのに」
「我が身は此処から出られませぬ」
「はん! どうだかな。―― くれぐれも身の程を弁えろよ」
そう言い捨て踵を返した長男の足音が聞こえなくなってからようやく上体を起こした少女は、また月光の差し込む窓を見上げて口元を緩めた。
「赤目に白妙か … 。並べて見ればなんとも目出度い通り名がついたな。さて ――」
あの大男の名はなんだったかな。
次回の邂逅を楽しみに、名無しの少女はうっすらと微笑んだ。





