T-12 祟られ内裏の香術妃 〜かりそめ女御は後宮の謎を香りで暴く〜
――その内裏は、月の民に祟られている。
今を時めく頭中将・藤原冬親は、「九十九髪」と呼ばれる女香師を宮中へ召し上げるよう帝に命じられる。
香師とは、「香り」を用いた術で時に人の生死までをも操る者である。「香り」の効能に半信半疑の冬親が九十九髪を訪ねると、現れたのはアカシと名乗る若い女。彼女はどんな微細な匂いも瞬時に嗅ぎ分ける驚くべき嗅覚と、香師秘伝の知識を併せ持つ才女だった。
アカシは帝との取引きに応じてかりそめの妃として入内し、冬親と協力しながら後宮にはびこる奇病や怪現象を「香り」で解き明かす。奇しくも宮中には、いにしえより「月人の祟り」と呼ばれる忌むべき秘密が受け継がれていた。その祟りは、冬親にも大いに関係していて――。
――“九十九髪の女香師”を宮中へ召し上げよ。
藤原冬親が帝からそう命じられたのは三日前、宮中の花宴の席でのことだった。
「香師……? それも女人の?」
「うん。“九十九髪”とは、その女の見目からついた通り名らしい。但羽国に住む腕利きだそうだ」
帝と冬親は従兄弟にあたる。幼少より気心の知れた間柄ゆえ、勅命という名の無理難題を吹っ掛けられるのはしょっちゅうだ。
とはいえ、冬親も今や身分は頭中将。帝の側近たる蔵人頭と、武官を統べる近衛府の中将を兼ねる文武の要職だ。わざわざ香師ひとりを召し出すために、京の外まで出向くような立場ではない。
「俺に使い走りをせよとおっしゃるのですか」
思わずむっとして凛々しい顔をしかめると、帝は御簾の内からそれを見透かして「お前は本当にわかりやすい男だねえ」と笑った。
昼のうちに始まった宴は既にたけなわ、西廂は入り日に朱く照らされていた。それと同じくらいの赤ら顔なのがいい具合に出来上がった大臣たちで、先ほどから調子外れの笛やら琵琶に興じている。
「他に適任がいるのでは?」
「実は何度か勅使を立てたんだが、まったく相手にされなかったそうでね。そこを『輝月の中将』と女房たちに持て囃されるお前の器量なら、なんとかなりはしないかなーと」
まさか、色仕掛けで籠絡してこいと言うのか。おなじみの主上の無茶振りに、冬親は深く嘆息した。
九十九髪とは、老婆の白髪を指す語である。そんなおどろおどろしい二つ名を戴く女が、いくら冬親がひとかどの貴公子といえど、なびくとも思えない。
「そもそも香術など……。女が閨で男をその気にさせるための小道具にすぎないでしょうに」
この国では古くから医術、呪術、香術の三つを「掌管生死の三術」と呼ぶ。これらは人を生かし、時に殺すための術であると。
医術は単純明快でいい。傷口には軟膏を塗り、病なら薬を飲む。
呪術は胡散くさいが有用な面もある。祈祷や呪詛は、人々の生活に深く結びついてきた。
だが香術は――。
御簾を挟んで話し込んでいると、宴席に紙燭を持った女が幾人か現れた。後宮の灯火を管理する、主殿司の女官である。
その中で最も派手な山吹色の表着の女が、衣擦れの音も清かに冬親の側までやってきて高灯台に明かりを灯した。その際ちらちらと秋波を送られていたのだが、この手の厄介事にうんざりしている冬親は朴念仁を決め込んでいる。
女は去り際に、わざとらしく襲の裾を返した。すると辺りに、なんとも言えない甘ったるい香りが広がる。
「この頃、女房たちが揃いも揃ってやけに鼻につく香を纏っている気がするのですが」
「おや、知らないのかい? 最近流行りの『意中の殿方を虜にする薫物』だそうだよ。可愛らしいものだね」
何が可愛いものかと、近頃どこに行っても同じ香りを嗅がされている冬親は閉口した。
たかが香りひとつで他人の心身を、ましてや生死を操ろうなど到底信じ難い。冬親にとって香術とは、まさに空薫の煙のごとく形なく不確かなものだった。
やはりその役目は他の者に――、そう言いかけた口元を、御簾の合間から差し出された帝の檜扇の先が優雅に掠め、遮る。
「そう厭うてくれるな。桃壺の更衣が床に臥せってもう一月。医師も呪師もだめなら、香師に頼るほかないだろう?」
それにね、とささやく。
「もしもその女香師が本物なら――、今も私たちを蝕む“月人の祟り”を、取り除いてくれるかもしれないよ」
冬親が次の言葉を発する前に、帝はパチンと扇で膝を打って「さあ、ここらで輝月の中将に一差し舞ってもらおうか!」と声を張り上げる。
「――御下命とあらば」
主命を呑み込み冬親は立ち上がった。
ドン、と床を踏んで力強く袍の袖を翻すと、遠くで女官たちが色めき立った。
“九十九髪の女香師”の噂が京まで届くようになったのは、ごく最近だ。
但羽のはずれにひっそりと草庵を構え、気に入った患者しか診ない。どれだけ金を積まれようと誰かに仕えることはなく、立派な輿で乗り付けたどこぞの国司がけんもほろろに追い返されたとか。
聞けば聞くほど気難しそうな人物で、冬親は「よほど偏屈な老婆に違いない」と秀眉の刻む皺を深くする。
しかし、話の最後には皆が口を揃えてこう言うのだ。「九十九髪は変人。ただし腕は確かだ」――と。
この日、下命に従い九十九髪の庵を訪ねた冬親は、簡素な直垂に折烏帽子という公達らしからぬ出で立ちであった。いらぬ警戒心を抱かせぬよう、太刀すら佩かず警護の随身も連れていない。
気を取り直し咳払いをしてから、苔むした木戸を叩く。
「突然すまない。ここは香師処で間違いないか」
「はい。そうですよ」
朽ちかけの梁を潜ると、出迎えたのは若い女だった。萌黄の小袖に腰で湯巻を纏い、頭から面隠しの薄布を被っている。
「九十九髪と呼ばれる女香師に用があって来た。取り次いでもらいたい」
「はい。九十九髪はわたしです」
「……は?」
「香師のアカシと申します」
アカシ、と名乗った女が薄布を剥ぐ。すると現れたのは、艷のある白銀の髪だった。
「貴女が……九十九髪……?」
これまでの情報から、山姥じみた老女を想像していた。だが目の前にいるのは、まるで淡雪のごとき儚げな手弱女であった。
「ごめんなさい。気味悪がられることが多いので、普段から顔を隠しているんです」
「いや……こちらこそ、不躾に見てすまない……」
「宮中からいらした武官さんですか?」
柄にもなく惚けていた冬親は、そのひと言でハッと我に返る。
今の自分は、身分を明らかにする物を何も身に着けていない。それなのに、この女はなぜ冬親が宮人で、武官だとわかったのか。
警戒を露わに左腰に手をかけようとして、太刀がないことを思い出す。
「なぜわかった」
「なぜって……」
思わず剣呑な口調になってしまったが、アカシは怯む様子もない。少し考えるそぶりで目線を左上へと走らせてから、ふたたび冬親を正面に見る。
雪中梅を思わせる、鮮やかな赤眼だった。
「まず、あなたのそのお召し物。いかにも庶民風ですが、普段から着ている物ではありませんね? ずっと桐箱の中にあったのを今日久しぶりに袖を通したのでしょう。それから、あなたが御髪に使っているのは胡桃油です。市井の民では手にできない物ですから、身分の高いかたなのだろうと思いました。あと汗に混じり気が少なく、よく身体を動かしておられることがうかがえるので日頃から鍛錬されている武人ではないかと。これらを勘案すればおのずと――」
「待て、待て」
今しがたのおっとりした印象から一転、急に淀みなく話し始めたので冬親は面食らう。
「たしかに俺は内裏から来た。武官であることも間違いない。だが、なぜ衣がしまわれていたのが桐箱だとか、胡桃油とか……そんなことまで」
「匂いでわかります。わたし、鼻がいいので」
真の香師というべき者に、冬親はこの時初めて出会った。
畏怖にも似た緊張に支配され、その場に座礼を取る。
「こちらから訪ねておきながら、名乗り遅れた非礼をお許し願いたい。俺は頭中将、藤原冬親という」
「藤原さま」
「帝のたっての仰せにより、貴女を宮中に招きたい。貴女が何度も帝の勅使を追い返していることは知っているが、どうか俺と共に都へ来てくれないか」
「なんのためにですか?」
透き通った声と眼差しに、冬親は心まで覗かれているかのような錯覚を抱いた。
「貴女の香術で――。内裏に巣食うある“病”を取り除いてほしい」
「わかりました。いいですよ」
あっさり快諾されて、冬親は思わず「は?」と顔を上げる。
「……いいのか?」
「あなたは嘘の匂いがしないから」
その変装もこちらに気を遣ってくださっただけのようですし――と、可憐な唇が綻んだ。
「ところで藤原さま」
「なんだ」
「最近、夢見が悪いのでは?」
「……なぜそう思う」
「寝不足のかた特有の、疲れた匂いがします」
不意にアカシの白い指が冬親の胸元に置かれ、赤子が摘まみ上げたような小柄な鼻がくんくん、と衿元の匂いを嗅ぐ。
寝所以外で男女がこれほど近く触れ合うなど、貴族ならあり得ない。さすがの冬親もたじろいで、わずかに身を反らす。
「っ……、それほど匂うのか」
「いいえ。わたし、鼻がいいので」
不思議なことに、これだけ密着しても香師であるはずのアカシ自身からはなんの香りもしない。まるで“無”が形を得たがごとき清浄さだけがそこにあった。
「こちら、寝入らずの病によく作用する練香なんですけれど」
アカシが懐から木製の合子を取り出し、蓋を開ける。すると途端に、力強い緑土の匂いが立ち上った。
「あ……⁉」
初めて嗅いだはずのその香りを、どこか懐かしいと感じたのも寸刻。冬親の視界はぐにゃりと揺らぎ、薄らいで――
あっという間に昏倒した。





