影ヤモリ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
あ、こーちゃん、そのミカンの皮、捨てるんならこっちの桶にしてくれない?
生ものはあらかた、こちらへ集めておくんだよ。あとで畑の肥やしにしたいからね。
……あれ、こーちゃん、そのミカンの皮、傷んでいたんじゃないかい? ほら、このヘタの部分。
これは、「10円ボツ」だね。大きさといい、色合いといい……。
こーちゃん、やっぱりそのミカンの皮、桶に入れるのはやめにしよう。ちょっと別の処理をした方が良さそうだ。
いったい何があるのかって?
そうだなあ、こーちゃんの好きそうな話だと思うし、少し見ながら聞いてみないかい?
10円ボツのミカンについては、このあたりにできるもののみに、見られるとされる。
さっきのヘタのまわりを、もう一度見てみてくれ。ほら、ちょうど10円玉くらいの陥没ができているだろ?
どこかにぶつけて傷んでいる……というのが、普通の見解だろう。そこから緑色のカビなんかがぞわぞわと、広がっていくことさえある。
しかし、10円ボツの場合はこの陥没箇所は、実際の10円玉と同じ、茶色を帯びているんだ。
――それだけなら、普通の傷と大差ないだろう?
うん、それだけならね。
だが、明かりにかざしてごらん? ほら、なんだか茶色が透けてしまうだろう?
もうちょいよく見ると……これ、ヤモリのような影が見えないかい?
もちろん、実際にヤモリが入っているわけじゃない。そうだったら、ミカンの皮はもっと膨らんでいるだろう。
こいつは、かつてこの土地にいたヤモリが、ミカンの中に焼き付いているのだと、伝わっているんだ。
ずっとむかし。
この土地には、虫や小動物のたぐいを集めるのを趣味とした若者がいたらしい。
中でも、彼はヤモリに目をかけていた。ヤモリは「家守」の字を冠する生き物、それを多く飼えば飼うほど、自分の家が守られるんじゃないかと考えていたのだとか。
彼は常に10匹以上のヤモリを、家に住まわせていた。ほとんど客人もいない、年季の入った家に住む彼は、このヤモリたちの身体を細い糸でしばり、それぞれの端を大黒柱にくくりつけていた。
家全体を歩き回らせることが、できる範囲でのことだ。ヤモリには生きた餌が必要で、それを自分たちで探しに行かせるも、勝手に家を離れられないよう、彼なりに手を打ったんだ。
ヤモリたちの三次元の動きは、当然、ひもをしばしば絡ませることがあった。
しかし、わけあって時間を持て余している彼は、短い時間で何度も何度もひもの状態を確かめ、絡む気配がするたびにそれをほどいていく。
彼自身もまた家の中を見て回り、ヤモリたちの状態を確かめていった。いつしか彼の焦点はヤモリ一択にしぼられ、他の生き物たちは逃がしたり、生活の糧へ変えてしまったりしたという。
そして、彼らを飼い始めて10年が経とうという時期のこと。
ヤモリたちの動きは、以前に比べてわずかずつ、鈍くなってきていた。それが寿命のためだろうと、彼はうすうす察していたらしい。
いったい、どいつが最初に脱落していくか――そう意識を向けだした矢先に、一匹のヤモリの姿が見えなくなったんだ。
結んだ10本のひものうち、一本の動きが長い間見られなかったことから、彼は気づく。
ひもの伸びている方を追いかけてみると、縁側の下へ通じるところで、自由になった先端が落ちていた。しかもその先には、ほんの爪の先に乗るのがやっとなくらいの、小さなシッポも一緒に転がっていたという。
ヤモリもまたトカゲのように、しっぽ切りをする生き物だとは彼も知っている。
しかし、それならひもの先にしっぽが結ばれているものじゃないのか? それによって縛めから抜け出したのなら、理解はできる。
なのに、これは抜け出した後で、わざわざ自切を行ったようにしか思えなかった。
――もしや、ひもを抜け出す以上にヤモリが脅威に思う、何かに出くわしたのでは?
にわかに興味をそそられた彼は、縁の下の周囲を探った後、家の敷地内を練り歩いてみたのだそうだ。
結果からいうと、彼はヤモリそのものを見つけることはできなかった。
まず、生垣の足元に、先ほどの尾よりももう少し長い、尾の一部が見つかったんだ。中ほどだから、両端には断面があった。
他にも薪をしまう小屋、立てかけたクワの影、荷車にかけた菰の下……などなど、様々なところから、次々とヤモリだったものが見つかっていく。
それは、もう尾におさまらない。後脚、胴体、前脚、ついには頭の部分さえも順に見つかっていく。ただしこれらは、蛇がやる脱皮のような、薄くて白い皮だけのものだ。
――中身はどこに?
疑問に対し、庭の片隅にある木が音を立ててこたえた。
振り返る。そこには彼の両親が残した、みかんの木の一本が植わっていた。
やや細身の木は、足元から枝に至るまで、次々と揺れていく。しかし風もないのに、それらを揺らす主の姿はいささかも見えない。
かの木にはひとつだけ、ミカンが残っている。揺れはそのミカンを大きく左右へ振ったかと思うと、次の瞬間には粉々にはじけ飛んでいた。
そこには見慣れた果肉の姿はない。代わりに垣根や屋根を越え、飛び散るのは無数の黒い粒。それはスイカの種を思わせる大きさで、空を一瞬、覆うほどの数でもって、あちらこちらへ散らばっていったのだという。
以降、この地域で獲れるミカンに「10円ボツ」と呼ばれる、陥没がまれに見られるようになった。
いまやって見せたように、光へ透かして見ると、そのボツの中にヤモリらしきものの影が映り込むことがある。不思議と、こいつは一回見てしまうと、同じミカンの皮ではもう見られないんだ。
ひょっとしたら、あの時逃げ出したヤモリは、いまも追ってくる何かの気配を感じて、逃走を続けているのかもしれないな。