小さな後悔のお話
『かに→きぬ まま→みみ みぞ→○○』
こんな幼稚な暗号を見つけたのは、小さな文具店でのこと。仕事終わりにたまたま立ち寄った文具店は、時間帯もあって人もあまりおらず、不自然に白い電灯が、無機質に並ぶ筆記具を照らしていた。
新しいペンを買おうとして見つけた文字は、鮮やかな赤色で、周りに書かれたぐちゃぐちゃの黒い線や文字から浮いて見えた。ねっとりとした黒の隙間から見える丸っこい赤色は、不自然に目立って見える。
売っているペンの試筆のために置かれた紙に書かれた言葉に小さく苦笑し、俺は試筆用の赤色のペンを手に取った。
くだらない。だが職業柄か、そのささいな暗号が妙に気になった。
暗号に矢印を引いて、白の残っているところに「むだ」と書き入れる。一文字ずらし。簡単なものだ。
ペンを置き、書かれた言葉を見て、ふと違和感を覚えた。なんだろう。しかしちょうどそのタイミングで、閉店時刻を知らせる放送が鳴った。
「……まぁ、いいか」
ペンに特別こだわりはない。
黒のボールペンを一本取って、レジに向かう。レジには険しい目つきをした中年の女性がいた。
「百円になります」
「はい」
会計を済ませ、買ったばかりのボールペンを胸ポケットに差して外に出る。外はすでに暗く、ぎゅるると腹が文句を言った。
「コンビニ弁当でも買って帰るか」
暗号のことなど忘れた俺の頭の中は、疲れていたこともあり、夕食の弁当のことで一杯になる。不健康と言われようが、自炊をするつもりはない。同僚の中には結婚して、毎日かいがいしく夕食を作ってくれる嫁さんがいる奴もいるが、残念なことに俺にはそういう相手はいない。
「別に寂しくなんてないやい」
脳内で幸せそうに食卓を囲む同僚の顔面に一発拳を叩きこんだところで、俺はコンビニの自動ドアをくぐり、コンビニにもペンが売ってあることに気付いた。疲れているのかもしれない。はぁ、と俺は肩を落とすのだった。
*
俺が暗号を思い出したのは、それから一週間後のこと。
「お前さ、女っけねぇけど、結婚とか興味ねぇの?」
結婚している同僚から聞かれた時だ。
「うるさい」
「ひどいなぁ。俺はただ心配して言っただけなのに」
「ならその右手に持った嫁さんの写真をしまえ」
「ちぇ」
同僚はつまらなそうに写真をしまう。悪いやつではないのだが、新婚なこともあって、嫁さんにべたぼれだ。それだけなら「勝手にしろ」というだけなのだが、ことあるごとに嫁自慢をしてくるのは、純粋に腹が立つ。
わざわざ印刷した写真を持ち歩いているところが、本当に気持ち悪い。
「出会いがないんだよ。出会いが」
と言ったところで頭に浮かんだのは、丸っこい赤色の文字。あの暗号を書いた人は、俺の答えを見たのだろうか。
「ん、どした? どした?」
「呼ばれてるぞ」
「いてぇ!」
急に黙り込んだ俺に、何を勘違いしたらにやにや笑う同僚の足を踏んで、立ち上がった。
驚いた。その日の夕方。何もなかろうと思って言った試筆コーナーには、また例の赤色の文字で、「ありがとう」と書かれていた。
試筆の紙は定期的に入れ替えられているのだろう。真新しいもので、赤い丸文字だけが書いてあった。珍しいこともあるものだと、試筆のペンを手に取り、「どういたしまして。こういうことはよくやるの?」と書いた。
数日後、文具店に行くと、「そんなわけないじゃないですか」と返答があった。
それから、この奇妙な文通は続くことになった。俺は黒の試筆のペン。彼女は鮮やかな赤色の文字。彼女、と言っても本当に女かどうかは分からない。書いてあることと、文字の形で勝手に思っているだけだ。
仕事があるから毎日行けるわけではない。けれど、文具店が開いている時間までに仕事が終わった時は必ず、店まで足を運び、試筆コーナーを確認することが習慣になった。俺の知る限り、返事は必ずあって「お返事ありがとうございます」と、いつも書かれていた。
文通の話題は取り立てて珍しいものではない。趣味や俺の仕事について。生活の中の愚痴。勉強のこと。どうやら相手は女子高生らしい。取り留めのないことばかりだ。仕事については職業柄詳しくは書けなかったが、何となく興味を引かれている風ではあった。
さすがに店に来て、試筆コーナーに立ち寄って帰るというもの不審すぎるので、鉛筆や消しゴムを買って帰る。我ながらけち臭いとは思うが、日に日に家に増えていく小さな筆記具たちを見ていると不思議と嬉しいような気持ちになれた。
文通先の彼女とは、一度も遭遇したことがない。俺が来るのは閉店間際の夜に近い時間帯で、彼女が多分昼に近い夕方とかだからだ。
顔の見えない、それどころか相手がどこの誰かもわからないような相手との文通。酔狂なことをしている自覚はあった。
文通を続ける中で、顔を覚えられたのだろう。店員の女性が何か言いたそうにしていることは気づいていた。もしかすると、彼女が真の文通相手で、実は俺は騙されていたのか、などと考えたこともあった。だが、たまたま女性が伝票を書いている場面に遭遇した時に見た字は、丸っこさとは対極にあるような固い筆跡で、ひそかにほっとした。
文通が始まって、数か月くらいたった頃だ。いつものように試筆コーナーに立ち寄り、返事を確認する。
「え」
思わず声が出た。最後の話題は、将来の夢についてだったはずだ。私学に行くか、国立に行くかという話で、俺は行けるなら国立の方がいいんじゃないかと書いた。けれど、
『助けてください。 080―××××―××××』
いつもと同じ鮮やかな赤色で書かれた丸文字。けれど、いつもと違う切実な言葉が書かれていた。
短いメッセージと、電話番号。スマホを取り出しかけて、手が止まる。
顔の見えない相手との、奇妙な文通。自分がこれまでしていたことの奇妙さを突き付けられた思いだった。このまま電話をしていいのだろうか。実は悪戯だったんじゃないだろうか。あるいは美人局で、かけた電話の向こうにはよからぬ輩がいるのかも。でも、そのためにこんな回りくどいことを数か月も続けるだろうか。もっと直接的なやり方はあったはず。でも、でも、でも……
思考はぐるぐる回り、俺はスマホをポケットにしまった。鉛筆も消しゴムも買わずに出口へ向かう。
「お客さん」
店を出る寸前、店員の女性から声をかけられた。まるで咎めるような視線。足を止めかけて、俺はそのまま店を出た。歩みは次第に速くなり、いつの間にかに俺は走るように家へと逃げ帰っていた。
それ以降、俺はその文具店に行くことをやめてしまった。
*
「それっておかしくないか?」
同僚のこの話をしたのは、それから一月は経った頃だろう。珍しく、嫁さんと夫婦ケンカをしてしまって、家を追い出されたらしい。男二人、色気のない飲み会だ。安い焼き鳥屋の中、酒が回って気が緩んでしまい、試筆コーナーでの文通のことをつい口に出してしまったのだ。
俺自身、あの不思議な出来事を消化しきれなかったのだと思う。
最初はにやにやと笑いながら聞いていた同僚だったが、詳しく話をしていくと次第に眉間にしわが寄っていった。
「だよな。やっぱり美人局か、何かの嫌がらせか」
「そうじゃなくて……」
同僚はためらうように目線を下に向ける。意を決したように同僚はコップに残ったビールを飲みほした。アルコールがすっかり抜けてしまった顔で、同僚は言う。
「相手からのメッセージの文字は、鮮やかな赤色だったんだよな」
「そうだけど」
なぜそんなことを聞くのだろう。同僚は俺の胸のポケットに差したままのボールペンを指さした。
「お前はいつもさ、油性のボールペンを使ってるよな」
「あ、あぁ」
「ちょっとこれに書いてみ」
同僚は財布から適当に一枚レシートを取り出す。不審に思いながらボールペンで線を引く。いつも見ている、ねっとりとした黒色だ。
あの鮮やかな赤色とはまるで違う……
「油性のインクってさ、こういう乾いた色合いなんだよ。赤色だって同じだ」
同僚は深刻な表情。口に運んだ焼き鳥はすでに冷えている。
「何が言いたいんだよ」
「鮮やかな赤色、だったんだよな。その子の書いた文字」
「……」
「油性のインクで鮮やかな色は出ない。なら文字を書いた子は自分のペンか、別の場所からペンを持ってきていたってことになる。悪戯にしては手が込みすぎだし、引っかかるんだよ。なぁ――」
もしかするとその子、本当にお前の助けを必要としていたんじゃないのか?
耳を、塞ぎたくなった。
嫌な汗がじんわりと、額に流れた。
*
事件が起きる。現場に向かう。調査をして、犯人を見つけて、真実を明らかにする。それが俺の仕事だ。
先に現場に到着していた警官の話によると、今回の事件は首を吊っての自殺のようだった。
亡くなったのは十八才の女子高生。発見したのは近所にする中年の女性。自殺した彼女とは顔見知りだったらしく、発見に至ったのも、最近の彼女の表情が優れなかったため、心配で家を訪れたらしい。
どうやら親から日常的に虐待を受けていたようだった。学校にもあまり行っていなかったようだ。死体の服の内側には複数の打撲痕や煙草を押し付けた痕があった。
虐待に耐え兼ねての自殺。痛ましい事件に表情が暗くなる。
事件発生当時、両親は外出しており、家にいなかった。パチンコ屋にいたらしい。防犯カメラの映像からアリバイもある。現場の様子を見ても、自殺でよいだろう。
「警部補、これが見つかりました」
「見せてくれ」
机の引き出しから封筒に入れられた手紙が見つかった。封筒には何も書かれていない。中身が遺書で、筆跡が同じなら確定でもいいだろう。封を切り、中を開ける。
時間が止まる。
そこには、鮮やかな赤色の文字で書かれた、見慣れた筆跡の遺書が入っていた。
「警部補?」
遺書の言葉はまるで頭に入ってこなかった。脳が内容を受け入れることを拒絶していた。俺は手の震えをどうにか押し込め、歯を食いしばって遺書を警官の一人に渡した。
「大丈夫ですか? 顔色が」
「……すまない。体調が悪いみたいだ。申し訳ないが今日はもう帰らせてくれ」
それだけ言うのが精いっぱいだった。遺書から目をそらし、部屋を飛び出す。走って、走って、公園のトイレに駆け込む。
「うっ……おぇぇぇぇ!」
朝食べたものを全て吐いた。腹の底がぎゅるぎゅると回っている。頭の中を文通の言葉がぐるぐると回る。
鮮やかな赤。
ガン! 頭をトイレの壁に叩きつけた。
「どうすればよかった……?」
そんなこと、分かり切っている。俺は膝を抱えてその場に座り込んだ。
あの文具店のことが頭に浮かぶ。もう一度あの店に行く勇気など、俺にはなかった。
その出来事を、俺は今でも後悔している。
読んでいただき、ありがとうございました。