孤児3745
ユーラシア大陸の東の端にある或る東洋の国。
日いずる国が斜陽国家に物申す。
と大昔の政府高官がのたまったのはいつのことやら。
この国ではある決まりごとがある。
法律では明文化されていない暗黙の慣例方だ。
今から80年前、コロナ禍という世界的な大参事中、もれることなくこの国も甚大な被害をこうむった際、憲法に黙約されたこの法律。。。。
Ⅿ子は、まあ俺の母は、ごくこの国にある一般通念のあやかりの如く親類皆に祝福されてこの世界に授かりを受けた。
「Taku木」、おれの誕生である。
タクボク。
これから先は略して俺の事をTBと呼ぶ。この話はただ単に俺についての話。俺の場合のケースである。読者に向かって「おれ」などと、若輩のくせに生意気口つくのは今流行りの躾のついていない生意気なガキを演出して更に気取っているところがあるので、読者諸君としては、まあ、あまり気にせんといてくれたまえさ。
さて、俺に何が起こったか。
TB、おれは、自分でいうのも何だが、早熟だった。それを証拠に、子宮から顔を出した時の衝撃を今でもはっきりと覚えている。そのあまりの衝撃に、通常の出産時の赤ちゃん鳴き声「おんぎゃあ!!」と叫ぶのではなく、「ホルモオオオオオオーーーー!!!」と絶叫した。そう、なんとおれは生後0.2秒で既に万城目学という作家についての知識を習得して応用実技にまでこぎつける能力を身につけていたのだ。べつに鬼合戦で負けてはずかしめを受ける運命にあったという訳ではない。他にも「ちんぴょろすぽーーーん!!!」「エイドリアーーーン!!!」などと叫ぶ選択肢のレパートリーも一瞬脳裏に思いつかなんだでもなったが、ホルモーを選び取ったあたり自分で言うのも何だが奥ゆかしい。何だったら「倍返しだ!!!」「芽吹きました。」でもよかったが。。。そしてそのあと、おれは絶句した。普通あかちゃんは生まれたあと約1、2時間は「おんぎゃあ、おんぎゃあ。」と泣き続けるものだが、俺は違った。そう、人間まじで衝撃的でやばい時には絶句するのだ。言葉が出ない。ちんちんが縮こまりまくるのだ。ちっちゃいちんちんが更にちっちゃくなった。精神的ショックで白くなるはずの髪の毛はまだ生えていなかったが。まあ、それ位(どれ位?)、知覚の初期設定が最初の段階から他人とは違っていた。そして、俺の神童っぷりは目を見張るものがあった。幼児なのに政治経済にも精通していったのだ。テレビや両親の会話やスマホなどを通して。
その話題の中で一つ、そうだ、例えば、GPIFについて取り上げよう。GPIF(国民年金の積み立てと運用をする機関)の年金基金の運用の仕方の欠点を俺は見抜いていた。自分には見返りのない不利益な、破たんが目に見えた制度だと見極め、将来は非国民とののしられようとも年金を治めるのはやめようと心に固く誓う強い意志と決断力と明晰な分析眼をもつ俺だった。いかすだろ?おっぱいやん?幼児のくせにロックだぜ。
CLO、つまり誰も手を付けようとしない高金利ハイリスクの金融商品にアメリカにそそのかされて手をつけやがって。ふざけやがって。GPIFは年金資産運用の割合をCLOに大きく振り分けたのだ。
おれにとっては自明の、GPIFの愚だった。
CLOが紙くずになったら俺たちの年金は無くなる。。。
お上がこんなんじゃ、世も末だ。これは歴史的世界恐慌、そして破綻の前兆に違いない。
そんな焦燥感がおれの胸をざわつかせる。。。
今から約2千数百年前、イエスが
「この世の終わりが来るぞ、最後の審判は目前だ」と言った。
今から500年前、シェイクスピアの戯曲「リア王」のある登場人物が
「世も末だ」と言った。
それから何世代もの人類がだらだらと世の中を回しながら今に到る。
いつの時代も「世も末だ感」はある。そして人間の世の中は終わらない。だからこそ終わらない。自らの悪をみとめているから。事実としてそうなのだ。
そんなことを俺は、母ちゃんの母乳を飲みながら、うとうととしながら想うのであった。
。。。。。。。。。。
権威とは何か。権力とは。国民の大多数の賛成票である総意がそうさせるのだ。その法律は不文律で80年前、国民の総意のもと憲法に加えられた。四捨五入で能力のないものは切り捨てる。コロナ禍の世界で国として生き残ってゆくためにはこの国はこうするしかなかった。
おれは頭脳は人よりも発達していたが、ある言葉を生後4歳までに言う事が出来なかった。
だから両親から引きはがされて生後4歳で孤児院に強制的に入れられた。法律で決まっている。
ディベート口述力の無い社会不適合者との烙印を押され、そこに収容された。怒涛のように目まぐるしく自分を取り巻く環境が変わってゆく。だが自分にはどうすることもできない。何故だかも分からない。ただ何となくわかる。自分はこの国の最下層の社会的地位ランクに組み込まれたのだと。それだけが周りの雰囲気で察することができると、言いようの知れない不安と怒りがこみあげて来るのだった。
その孤児院の従業員が見つめるテレビのモニターにうつる文部科学大臣がこう言う。
「身の丈に合った受験を。」
みんなが決めたから、そうなのだ。
未来を担う子供たちの意志と可能性はかえりみずゲームのように人生のレールは敷かれている。
おれは4歳までにある言葉を言えなかった。いや、偶然にも言わなかったのか。幼児の口腔器官の発達に関する生理学的個人差の問題か、とにかく言えなかった。いまさら俺にとってはどうでも良いことだが。
もちろんその言葉を知っていたし、運が悪かったから言えなかっただけの事である。
そして孤児、みなしごコースに振り分けられた。
「み」を言わなかった。
「み」無し子になった。
孤児、みなしごになってしまった。
ファック!!!!!!
なんだそれは?!
未開発の先住民族にはまだ残っているといわれる割礼の儀式などという倫理的、科学的には全く意味をなさない習慣の類か?セント・ヘレナ島に流刑されたアズナブルもとい、ボナパルトの気分だぜ。俺は認めんぞ。断じて許さん。復讐してやる。でも、何に対して?世の中に対しての復讐か?しかし、俺はこの理不尽な法律の成り立ちも理解してしまった。コロナ禍にさいなまれた際、国家存亡の解決策として大衆が選んだこの苦渋の決断にも同情の念すら覚える。それでもなお、復讐か?井の中の蛙大海を知らず。孤児は孤児院、つまり自分の身の回りの直近の事だけ考えていればいいのか?身の丈か?だが、だがしかし。だがしかし。。。
時は、情報産業、人工知能が進化しきった時代。80年前のコロナ禍による国家的危機が中央集権の強化を招き、国民への管理システムが極度に発展した時代である。「み」を言えなかった子供は国家が把握している。3745法。いつからか、その法律はそう呼ばれるようになった。
3(み)7(な)4(し)5(ご)法。
この身分制度をひっくり返そう。
目の中にともる幽かな青い炎を人に覚られないよう忍びながら仕返しの機会をうかがう。
狼になれ。
この決意は俺の人生が時を刻むごとに強固に、純粋になってゆく。