ハイエルフの里『アインヘルム』
『半年後』
木々の生い茂る谷の狭間に造られた緑豊かな集落『アインヘルム』には、エルフ同士で生まれたハイエルフが住んでいる。そんなアインヘルムを統治する族長は、自称世界の始まりから生きていると豪語する緑色の髪のハイエルフ、ニオ・フィクナーだ。彼女の計らいのおかげで、悪魔の血が流れるカイムとスノウは暮せている。主に、アインヘルムを守る力として。
「ほら、早く解きなよ。まだまだ教えることは山積みなんだから」
「うぅ……ニオ、疲れたよ」
「甘やかすなって、そこの父親が教育方針を決めたんだからしょうがないだろう?」
「誰が父親だ」
中性的な声でスノウに社会常識や文字、数字、歴史、その他役に立つことを全て教えているハイエルフこそがニオ・フィクナーであり、カイムたちは彼女の家に住んでいる。欲がないのか、族長だというのに二階建ての何の変哲もない家に住み、特別扱いされることを嫌っている。そうはいっても他のエルフたちはどうしても頭を下げるが、カイムはどこ吹く風だ。
「別にボクとしてはいつまでもここにいていいんだけれど、今の亜人社会は厳しいんだよ? 万が一ここを出ることになったら、知識をつけておかないとカイムに置いていかれるかもしれない」
「それだけは、嫌……」
スノウはこの半年でカイムにとても懐いた。まるで実の父の様に、もしくは血の繋がった兄弟の様に、心の底から信頼して、一緒にいたがる。
でも疲れたと、羊皮紙の敷かれた机に突っ伏したスノウにため息を付いたニオは、いったん休憩と、アインヘルムでとれた茶葉をポットに入れて、お湯を注いで紅茶を用意して机に並べた。
「君も来なよ」
「俺は茶より酒がいい」
「お酒が欲しかったら、亜人社会に出ていくんだね」
それはなかなか難しい決断だ。仕方ないと、窓際で吸っていたキセルから灰を外に落として、突っ伏したままのスノウを揺する。だが、余程疲れていたのか、眠ってしまったらしい。
「まったく、手のかかるガキだ」
「そうは言いつつも、その赤いコートをかけてあげている君は、本当に気持ちの伝え方が不器用だね」
「うるせぇよ」
たった一人で半年間も過ごしてきたスノウに、カイムはカイムなりの同情と思いやりを与えているつもりだが、育ちの悪さは天下一品なので、なかなか正直になれない。本当はスノウのことを娘のように感じているというのに、面には出さない。
「しかし、酒を飲むなら亜人社会か」
「行くのかい?」
「酒とギャンブルは恋しいが、俺とスノウの見た目が人間だからな……認めたくねぇが、ここより生きづれぇからな」
「この数十年で、世界は大きく変わったからね。あの、レッドレインから」
三十年程前に降った、赤い血の様な雨。それは魔界と呼ばれる世界から悪魔の大軍勢が現れると同時に降り、千年近く続いていた純血の人間社会を崩壊させる発端になった。
「レッドレインを浴びて、純血の人間は全て赤目の病に感染して真っ赤な瞳の理性を失った化け物――レッドアイに変わり、悪魔の手先になった。そして、それまで虐げられていたエルフやドワーフが新たな社会を作りだして、魔王ルシファーを筆頭とする悪魔と戦った。その後は――」
ニオがカイムを見やると、ため息交じりに左目の眼帯へ手をやった。
「俺の親父、サタナキアが神界からの天使たちと手を組んでルシファーを倒して、悪魔どもを魔界に押し戻した」
「そのサタナキアも殺されて、今の魔界はアガリアレプトとかいう悪魔が魔王の座についているらしいね」
「毎度のことだが、なんでそこまで魔界について詳しいんだよ」
さぁね、ニオは特定の話題は決まってはぐらかす。どういう考えでそう接しているのかなど、数千年を生きてきたニオが相手では真実を知ることは不可能だ。
「結局のところ、エルフの様に耳が長いわけではなく、ドワーフみたいにずんぐりむっくりとしているわけでもないから、人間というだけで奴隷扱いを受けるね。僅かに残ったレッドレインに抗体のあった人間たちの様に」
レッドレインが降るまでは、エルフやドワーフが奴隷だったというのに、今ではそれが逆になっている。悪魔としての力を見せつけてやれば、奴隷にならずとも、悪魔だからと攻撃の対象になる。つまり、カイムとスノウが亜人社会に出ていくためには、何らかの免罪符が必要なのだ。人間であろうと、悪魔であろうと、堂々と生きていける物が。
「せめて酒があればな」
「エルフは美女だらけなんだから、それで我慢できないかい?」
「色恋沙汰に興味はねぇ」
つまらない男だね。ニオは肩をすくめると、そろそろ続きを始めると、小さないびきをかいていたスノウを起こした。
「んぅ……もう朝?」
「残念、まだ昼過ぎだよ」
「また勉強……カイムゥ」
「甘やかす気はない。せめて文字と数字だけは覚えておけ」
かけてあった赤いロングコートを取り着ると、またも窓際でキセルに刻みタバコを詰めた。この平穏な暮らしに文句はないが、どうしてもスノウと出会う前のことが頭から離れない。過ぎ去った時間は絶対に戻らないとわかっていても、なかなか割り切れない想いが、カイムの中にはあった。
「悪魔、ねぇ」
プカッと煙を吐き出して、雲の彼方へ手を伸ばしてみる。いつからか身についた癖だ。届かないと知りながら手を伸ばすのは。いつだって虚空を掴むだけの虚しい行いなのに、ついやってしまう。いつからかと思い返そうとしたが、やめた。そこにも虚しさしかないだろうから。