意外と悪くない
一
新沼がうちらの学校に来て、おもしろくなかったことがいくつかある。
こいつ、物覚えが良すぎるのだ。
一週間ほどで上の句と下の句を完璧に暗記してしまった。もちろん単に覚えただけでは競技カルタは戦えない。
配置は毎回変わるから短期記憶にも優れていないといけないし、忘れることも大事。
そして、記憶と体の動きが連結して初めて競技として成立する。
恐るべきことに、新沼は両方を簡単にやってのけた。
今では私も雅も、必死になって新沼の動きについていこうと躍起になっている。
激流に翻弄される小石のように、私たちの感覚は否応なく研ぎすまされていった。
「僕の役割って一体……」
札読みマシーンと化した先生が所在なさげにしているのを見て、申し訳なく思うの私だけ?
新沼と雅は、真剣な顔で対峙しており、先生が札を読むのを今か今かと待っている。こういう緊張感、嫌いじゃない。
唯一の仕事を奪っては可哀想だから、先生の肩を叩いて上の句を読むように勧める。
「朝ぼらけ あ」
『朝ぼらけ』から、始まる句は二つだけ。
一つは、
朝ぼらけ ありあけの月と 見るまでに 吉野の里に降れる白雪
二つ目は、
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはわれたる 瀬々の網代木
新沼は、朝ぼらけの後の、あ、う、を聞き分け札を払った。雅や私なら、二択の内一つに絞って特攻することはあるけど、ほとんど当てずっぽうだ。新沼の場合はきちんとした確証があって、飛び込んでいた。耳もいいんだ。ずるい。
「はー、雪ちゃんが絡むと強いな。やってられない」
雅は半ば匙を投げたように足を崩した。私への非難もまあ許せる。
悪いのは新沼だ。歌に雪が入ってるからって気合い入れるんじゃねえよ。気まずいんだよ、少しは察せよ。はっきり言って迷惑だ。
「瀬をはやみ」
新沼が、高らかな音を立てて札を連取。勝負あった。
強敵出現で刺激を受ける一方、最近ちょっと練習に出たくないと思う時がある。雅の機嫌は悪くなる一方だし、先生は空気だし、新沼のアピールが度を越してるせいだ。
「雪さんもやろうよ」
全く疲れを見せない新沼が連戦を申し出た。受けて立たないといけないのはわかってるけど、時間を理由に断った。
朝練が終了しても、新沼はすぐ後ろの席なので、全く気を払わないのも難しい。まして、新沼のお昼の弁当は私の祖母が作っている。一つ作るのも二つ作るのも同じだとか言ってもたされたのだ。
「さて今日のおかずは何かな」
うきうきする新沼と机をつけて、お互いの嫌いなものを交換しあうようになっていた。私はトマト、新沼はアスパラガス。おもしろいことに相手の嫌いなものが自分の好きなものだったりする。
私はアスパラガスのベーコン巻きが好きだし、新沼はトマトが好き。
食べ物の好みが真逆の相手っているんだ。それって相性的にどうなのだろう。
「アスパラガスどうしても無理なの?」
「ギザギザしてるのが苦手なんだ」
好き嫌いって、人間はどうやって判断してるんだろうか。私のトマト嫌いも突き詰めて考えるとよくわからない。プチトマトはいけるけど、大きいトマトは口に合わない。一口に嫌いと言っても、嫌いの中に多分に情報が含まれているのだ。
「雪さんはどうしてトマトが嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ。受け付けないってだけ。アレルギーとかじゃないんだけど、食わず嫌いってわけでもない」
新沼は落ち込んだように顔を伏せた。まるで自分が否定されたように打ちひしがれていた。
私は新沼に一端あげたトマトを箸で摘むと、勢い口に含んだ。独特の酸味が口中にへばりつく。飲み込むと一仕事終えたみたいに疲れた。口直しをするようにお茶を一服。
「平気なの?」
面食らいながらも、新沼は私を気遣う。相当な努力を払ったんだ。尊敬してくれてよいぞよ。
「私が食べたんだから新沼も食べてよ」
不当な交換条件を持ち出し、新沼をさらにおびえさせる。今朝の仕返しだもんね。
互いに譲るつもりがないので、無理矢理口に押し込んであげた。新沼はそれこそ苦虫を噛みつぶしたような顔をした。祖母の料理が不味いはずがない。よっぽど嫌いなんだ。変な形してるもんね、アスパラガス。
咀嚼している新沼は、ハムスターみたいでちょっと可愛い。
「どう? お味は」
「……、意外と悪くない」
これが今の私たちの関係性を表している。
意外と悪くない。でも好んで食べたいわけじゃない。
二
下校時間が近づくと、雅がそわそわしだす。私もうっかり同じ態度を現すと、小林先生が傷つくので我慢我慢。
新沼が来てから、初めてわかった。先生って、全員への配慮を忘れちゃいけないってこと。学力別のカリキュラムだけじゃなく、健康面とか、生活の不安とか、ちゃんと耳を傾けている。少人数だからこその手厚いケアだけど、言うほど簡単じゃない。私なんか新沼と雅で手いっぱいだし。
……、手いっぱいなんだけど、少しに気にかかることができた。
三年生の先輩の様子がおかしい。心ここにあらずという様子だ。先生の質問にも機械的に反応しているし、ここ数日、教室に最後まで残っている。一見、何をするでもなく座ってるだけみたいだ。
雅を新沼に送らせて、私も居残ってみた。十分くらい観察していると、やはり背筋を正して座ってるだけに見えた。
私だけ不要な音を出すのも悪いので、呼吸にも気を遣う。息苦しい。今日も雪は降っているのだろうか。
「帰らないの?」
上体を曲げ、先輩が振り返る。細い目が、非難めいた色を帯びていた。
「雪の音が聞きたくて」
何で考えなしにこんなこと言ったんだろう、私。先輩はいぶかしむように見つめてくる。
「雪に音なんてないわよ」
きっぱりと否定してくる。うん、普通はそうだよね。
「ありますよ。雪自体には音はありませんけど、雪に包まれた我々の音が明瞭に聞こえるんです」
がっかりしたように、素早く体の向きを戻す先輩。肯定してくれとは言わないけど、取り付く島もない。
「風流だね。さすが、かるた部」
皮肉は緩衝材を経ずに私を貫く。怯むくらいならここにいてはいけないと言われてるみたいだった。
「歌は普遍ですから」
連綿と受け継がれてきた伝統と血潮が私を前に進ませる。先輩が、もう一度振り返る。今度は立ち上がって私の前に歩み出てきた。
大きく手を振りあげ、一枚の札を私の机に投げ下ろした。鞭打つような甲高い音が鳴る。直前までぶたれるかと身構えていた。
「それ、落ちてた。困ってたんじゃない?」
確かに、いつも部の練習で使っていた札が一枚足りなかった。予備のものを使っていたから練習に支障はなかったけど、雅の仕業だろう。教室で札を広げていることが災いしたのだ。
「拾っていただいてありがとうございます」
「その歌、良い歌だね。今年卒業だからナーバスになってたの。八つ当たりしてごめん」
先輩は私の目を見ずにそう言って、せかせかと教室を出ていった。冷たい印象を受けることもあるけど、あの人が照れ屋なのを皆知っている。もっとお話していたかったな。先輩は卒業後、就職するそうだ。
札にはこう書かれている。
ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく花の散るらむ
花はいずれ散ってしまうけれど、今でなくてもいいのに。そんな名残惜しさを表した歌だ。




