商品名は『夢』
「あのー、すいません……この右から2番目にある『夢』っていくらで買えますか?」
そんな言葉が聞こえてきたものだから、思わず俺は声がする方に視線をやった。そこには夜の闇に溶け込みそうなほど黒いコートを着たすらっとした長身の青年がいた。表情はにこやかで、爽やかすら感じるのにどこか危険な香りを纏っている。矛盾したものを抱えた青年が、暗がりを僅かに照らすランタンの前に立って首をかしげている。その姿は様になっているのだけど、それだけではないものに魅せられてしまったかのように彼から目が離せなくなっていた。
「これか? そうだな、これでどうだ?」
雑な造りのテント内から野太い声が聞こえる。おそらく指で値段を提示しているのだろう。青年は目を細めて、首を振った。
「それでは安すぎます」
「えっ?」
「だから、安すぎると言っているでしょう」
明らかにテント内の店主は戸惑っていた。俺も手汗で手に取っている陶器が滑り落ちそうになるぐらいには、青年の理解不能な発言に困惑した。
慎重に陶器を棚に戻して、青年の意図を探るために隣の露店に移動して商品の掛け軸を見る。とんでもない価格が書かれている値札を見ながら、唾を1つ飲み込む。掛け軸を見ながら、横目で成り行きを見守る。
「それじゃ、これでどうだ?」
「ダメですねぇ。まだ安い」
「……何をたくらんでやがる?」
闇市に突然現れた謎の青年に注目しているのはどうやら俺だけではなかったようだ。周りを見れば、フードを目深に被った少年から毛根が死んでしまった初老の爺まで青年の背中に無遠慮に視線を注いでいる。青年は周りの視線など気にすることなく、優雅に微笑む。
「いいえ、何も。僕の理想の言い値になるまで交渉するだけです。ここはそういうところでしょう? もっと高くてよろしいのですよ」
徐々に青年の育ちの良さが伺えるほど丁寧になっていく口調が不気味さも同時に伴い始めていることに気づき、背中に冷や汗が流れる。
嫌な予感がする、と思ったのは俺だけではなかったようだ。周りの人間も青年から距離を置いたり、好奇心は猫をも殺すといわんばかりに人ごみが崩れる。それに構うことなく青年は眉尻を下げた。
「さぁ、はやく。この『夢』はもっと価値のあるものです」
「てめぇ、誰だ?」
勢いよく店主が立ち上がったのか、椅子が倒れる音がしたのと同時にテントが崩れる。布がずり落ち、店内が露わになる。
「お互いに素性を明かさずに売買する。それがここの掟ではないのですか?」
「……交渉は、なしだ。この店にはてめぇに売るモノはねぇ。帰れ」
ひげを蓄えた強面の筋肉の鎧を着ているような店主が、怯えた目で青年をにらんでいる。布がなくなったことで露出されることになった商品棚に目をやると、コルク栓で口を塞がれた空のガラス瓶が5本ほど並んでいた。透明なガラス瓶の中に目を凝らすが、何も見えない。紙からはみ出さんばかりに豪快に書かれた『夢』という文字と青年を見比べる。あまりにも異質な商品名と何も見透かすことができないほど謎めいた青年に目を逸らすことができない。異次元にすら見える非現実的な光景に目を奪われる。
「残念ですねぇ」
青年が舌なめずりをして、それから驚くほど美しい笑みを浮かべた。
「この『夢』には値段なんてつけられません。お金で買えるほどその『夢』は安くはない。あなたのような薄汚く憶病な人の手に渡ってしまった、という汚点はあるものの、この『夢』は本来はこんな最底辺なところにあるものではない。こちらの『夢』は、ダイヤモンドや真珠すら劣るほど純潔で高貴なものです。……交渉が決裂したというのなら、僕にできることはただ1つですね」
青年は演説しているかのようなよく通る声で『夢』の価値を語った。その声と話の内容は店主だけではなく、場さえも制した。普段はざわついた闇市のど真ん中にいるのに、誰かが唾液を嚥下する音が聞こえてきた。それほどの静寂が闇市を襲っていた。
地面に重たいものがぶつかる音が響き渡った。青年が発する圧にやられて店主が気絶をしたのだ。それなのに、誰も動けなかった。誰もが青年に心までも掌握されたように硬直している。その場にいる全員が呼吸さえも許されないと思ってしまうほど、完全に俺たちは支配されていた。
青年はそんな周りのことなどお構いなしに、恭しくお目当ての空瓶を手に取る。
「……ああ、会いたかった」
何も入っていないはずの『夢』の詰まった空瓶に1つキスを落として、それからうっとりとした目で『夢』を見つめる。
「あなたにずっと会いたかった。あなたが死んでも、あなたの『夢』は死なない。ずっと僕と一緒に生きるんだ……!」
爪を立ててコルク栓の端を摘み、青年が口の端から涎を垂らしながら口を開いた。
「これで僕たちは、ずっと、ずーっと一緒です。僕らは運命共同体だ」
コルク栓が乾いた音を立てながら抜ける。それを見届けたのと同時に地面がぐにゃりと歪み、立っていられなくなって膝から崩れる。逆さになる視界の中で青年が興奮気味に頬を赤らめて、金色に輝く瞳で空瓶を愛おしげに眺めている。
「愛しています、 」
SFなのか判断に苦しむぐらいにはSFのつもりはなかったのですが、ジャンル分けの基準を見る限りだとそうなのかなと勝手に決めつけました。