Ⅵ
エミル・ロングベルの朝は早い。
朝の5時に起床すると、顔を洗い、ランニングウェアへと着替えると、近所で飼われている犬たちのリードを引き、早朝のランニングを始める。
先走り引っ張ろうとする犬や、並走する犬に囲まれるエミルは、軽く呼吸を乱し、テンポよく大地を蹴る。
走っている途中には、動いているエミルの頭や肩に、小鳥たちが見事に着地し、朝の挨拶と言わんばかりに、一斉に鳴き声を上げる。
「よっ、今日も人気者だな」
「おはよう、カルロ」
道の途中でカルロと合流し、いくつかのリードを手渡すと、日々、『兵隊科』で扱かれているカルロに置いて行かれないように、呼吸と大地を蹴るテンポがあがり、エミルに乗っていた小鳥たちも、真剣になるこのタイミングになると、自らの朝食を求め飛び立つ。
走り始めた当初は、カルロに置いていかれるどころか、見失う無いことですら難しかったものの、日々の努力は着実にエミルの力となり、並走とはいかないものの、その背中をしっかりと、眼前に捕らえ5㎞に及ぶランニングを終える。
家に戻り、汗を流すと5時半、低血圧で非常に朝の弱いメリルをギリギリまで寝かせるため、その間に、朝食の準備を始める。
年頃の少女であるメリルの為、低カロリーで栄養のバランスを傾けないようにと、手慣れた手つきで、具材に包丁を入れ、火を通し、盛り付ける。
そして、6時になると、メリルの部屋へと入り、3つの目覚ましの音に囲まれながらもの、布団を手放そうとしないメリルを揺り起こす。
「ごちそうさまでした」
「はい、今日のお弁当。
体重の事気にしてるなら、あんまりお菓子食べちゃだめだよ」
「―――――うぅ、分かってます……分かってますよ……」
学校では、馴染みのクラスメイトと交流を交わし、授業を受け、昼休みなるとエルスに拉致され、放課後を迎えるという、膨大な魔力を持つ以外は極々、普通の生活を送っている。
しかし、この日の放課後には、予期せぬ来訪者が待っていた。
「おっ、待ってたぞ、エミル」
アーシェル学園の校門に背を預けていた、ルギニアがエミルに向け、手を振る。
ただでさえ、その美貌で注目を集めていたルギニアが、『医療科』では密かに有名なエミルとの交流が発覚すると、瞬く間に周囲がざわつき始めた。
そんな周囲の変化に気づくことなく、ルギニアの元へと駆け寄るエミルと、明日からの質問攻めに頭を痛めるメリル。
「えっと、僕に何か用ですか?」
「あぁ、ちょっと頼みたいことがあってな。
えーっと、確か、メリルだったか? そっちもセットでな」
一昨日に出会ったばかりだというのに、頼み事とは図々しいと、内心毒づくメリルだが、弱みを握られている立場である以上、断れない。
肯定の返事に、申し訳なさそうな表情で頭を下げているところを見ると、脅迫のつもりはなく、どうしようもなく頼ってきたと見えるが、極力関わりあいになりたくないというのが、メリルとエルスの方針だ。
「見たことない面だが、もしかして、こいつがルギニア・ローウェンか?」
「うぉっ、なんだこの悪人面! エミルに手出してみろ、水平線の彼方までぶっ飛ばすぞ!」
カルロの登場に、三角関係だの、修羅場だの、周囲がいっそう、色めき立つ。
いかにもか弱いエミルを間に、美男子であるルギニアと、強面のカルロが立つ構図は、ある種公然の常識と化している噂に真実味を持たせるには十分な光景であり、そっちの趣味を持つ淑女ならば、めくるめくる薔薇色の世界へと意識を羽ばたかせているだろう。
事実、メリルのよく知る人物は興奮のあまり、鼻血を出し、目を血ばらせながらスケッチブックに筆を走らせている。
「あぉ、もぅ……どうして……」
もはや起こる気力さえ失い、ふらりと立ちくらみを起こしたメリルを、大慌てでエミルが支える。
その表情は青ざめ、呪詛のように、日頃の恨みを零している。
その不幸な事故とも呼べる事件は、エミルたちがその場を発ち去るまで続いたのだった。
「――――――はぁ、妹さんを出迎えてほしい、ですか?」
校門を離れ、近くの公園へと移動した4人は、早速、ルギニアが持ち込んだ頼みごとの内容を確認する。
その内容は、今日の午後に、引っ越してくる、ルギニアの妹を出迎えて欲しいというもの。
この超人の頼み事ということもあり、どんな無理難題かと気を張っていたメリルは、拍子抜けといった感じで、肩をすくめ、当然の疑問を口にした。
「どうして、私たちなんですか?
そもそも、出迎えならご家族で行うべきだとおもいますけど」
その当然の疑問に、ルギニアは頭をがりがりと掻くと、苦々しい表情で口をつむんでいたが、覚悟を決めると溜息を零し、その理由を口にした。
「理由は2つある。 1つは、単純に妹が学園に馴染めるようにだ。
俺の妹は、世界一と言っていいくらいの美人だが、少し天然というか、間がずれてるやつでな。
嫉妬とかもあって、友達が少ないんだよ。
編入先は『医療科』、それも、エミルと同学年、会ったばかりだし、命の恩人に対して厚かましいとは思うが、他に頼める奴もいなくてな」
メリルの回答は保留と言っていい。
なにせ、これだけ出鱈目な兄の妹なのだ。
いったい、どんなびっくり生物が出てくるか分かったものではない。
その意見に反するエミルは、気軽に肯定の返事を返す。
それに関して、メリルもカルロも特に留はしない。
なにせ、天然の度合いで、エミルを上回るような変人はいないと確信している。
見るからに人畜無害なエミルに、絆せない人間は、そうそういないだろう。
「助かる、んで、もう一つなんだが、こっちは俺の問題でな。
俺もこっちに引っ越してきた身なんだが、昔向こうでちょっとした事件を起こしたせいもあって、上手くやってるか心配されてるんだよ。
聞かなくてもわかると思うが、結果は惨敗だ」
ルギニアが専行したのは『技術科』。
基本的に研究畑の人間の集まりに、根っからの体育会系男児の肌に合うはずもない。
そこで、白羽の矢が立ったのが、見るからに人の良さそうなエミルだったというわけだ。
「だったら、今からでも『兵隊科』に転科したらどうですか?
貴方だったら、3年の今からでも、その身一つで取り返せると思いますけど」
「あぁ、そりゃだめだ。 それが、向こうで起きた事件の原因でな。
まっ、百聞は一見に如かずってやつだ。
おい、後輩、殺す気でいい、俺を本気でぶん殴ってみろ」
「―――――――後悔すんなよ」
理性的なカルロとはいえ、ここまで分かりやすい挑発を受けて黙っていられるほど大人ではない。
無抵抗を示すように両手をあげているルギニアに、丸太のように太い腕に力を漲らせ、体重の乗った渾身の拳を、顔面に叩き込んだ。
常人であるならば、本当に死んでもおかしくない一発。
例え、死ななくとも、顎と鼻の骨は砕け、一月は食事にすら困ることになるだろう。
「―――――まじかよ……」
しかし、驚愕の声を漏らしたのは、カルロの方だった。
全力の拳を受けても、身じろぎ一つせず、鋼を殴りつけたような鈍痛が、カルロの拳へと伝わる。
ここにきて、メリルが化物と評していた意味を真の意味で理解した。
「躊躇なく顔面狙ってきやがったな。俺のイケメン面に嫉妬でもしたか?
―――――だが、殺す気でと言ったんだ、遠慮せずに魔力使ってきてもいいんだぞ」
「―――――いや、あんたが言いたいことは理解したよ。
確かに、あんたは『兵隊科』にいても意味ないだろうし、いるべきでもねぇな」
カルロは単純な戦闘力ならば、全学年を合わせても、5指に入る強者だ。
確かに、魔力を使えば、一歩くらいは後ずらせることは出来るかもしれないが、同じ生物なのか疑問視させるには十分すぎる。
積み上げてきた努力を、その身一つで否定して見せる化物がいては、心が折れる人間は何人も出るだろう。
「そういうことだ。 かといって、『医療科』ってのは、もっと肌に合わないからな。
仕方なく、『技術科』にいるってわけだ」
「事情は分かりました。 正直、力に成れる自信はありませんけど、兄さんだけは任せてたら、思いもよらない事件が起きそうですし、出来るだけフォローはやってみます」
「まぁ、俺は専行も違うし、関わることも少ないだろうが、変な輩に絡まれてたら手助けくらいはな」
「メリルとカルロだったな、よろしく頼む。
最後に行っとくが、いくら俺の妹が美人だからって、手ぇ出したら、宇宙の彼方にぶっ飛ばすからな」
これが、妹に友達ができない理由ではないかと、エーヴェンス家の二人と内心、突っ込みを入れる。
だが、極力関わらないという方針こそ放棄することになりそうだが、味方にできればこれほど心強い人間もいないことは確かだ。
人情半分、下心半分で、ルギニアの妹を出迎えるために、駅へと向かう。
しかし、その楽観は、ルギニアの妹を出迎えた瞬間に崩れ去った。
「―――――――え?」
メリルは茫然のあまり、手に持っていた鞄を落とし、口をふさぐ。
「――――――嘘、だろ……」
カルロは、驚きに心臓がわしづかみにされたようなショックを受け、目をむいた。
容姿の美しさなど、時と場所、なによりも主観によって一番など変わりゆくものだが、ルギニアが世界一と称するのは、まんざら誇張でもないほどに、その少女は美しかった。
艶のある長い黒髪に、健康的な白い肌。
女性としての魅力にも優れた体つきは、モデルと言われても疑いはしない。
少し垂れた瞳は、柔らかな表情と合わさり、温和な雰囲気を醸し出している。
しかし、メリルとカルロが驚いているのは、そんな理由ではなかった。
「―――――お姉ちゃん……?」