Ⅱ
「と・に・か・く! いいですか、兄さん! 今更捨ててこいとまではいいません。
その代わり目が覚めたら速やかに追い出すこと、必要以上に仲良くしないこと、余計なことをしゃべらないこと、いいですね! 分かったら復唱!」
「この嵐の中帰ってくださいって言いづらいんだけど……」
「復唱!」
家の外では、今朝から変わらず、元気すぎる風が路上に転がっていたものを運んでは気分次第で捨て去り、そこらじゅうを荒らしまわっている。
エミルが担いできた男は既に、これ以上濡れようがないほどにずぶ濡れで、雨の被害は受けようがなのだが、やはり、暴風の脅威は見過ごせないレベルに高い。
「―――――ふぅ、仕方ありません。
嵐は明日の明けには過ぎ去るようですし、不本意ですが、今日はここに置いておくとしましょう。
兄さん、この人を暖炉の傍へと運びましょう、風邪をひかれて滞在が長引くと困ります」
親切心なのかそうでないのか判断しずらい理由の元、意識のない男を暖炉の傍へと運ぶべく、エミルが頭を、メリルが脚を持ち、男を持ち上げた。
頭の上からつま先まで余すことなく、水に濡れている体は冷たく、これが子供であれば、低体温症で命の危機ですらあったかもしれない。
―――――――――まったく、この嵐の中、傘もささず出歩くなんて、命知らずな……あれ、どうして……?
ふと沸いた疑問に、メリルのトラウマなど霞んでしまうほどに最悪の予想が頭をよぎった。
怒りのあまり、怒鳴り散らしていた真っ赤だった顔は、色が抜けるどころが一転して青ざめ、持っていた脚を落としてしまう。
突如、足から手を放したメリルの形相を前に、どうしても隠しておきたかった事に気づかれてしまったことを悟り、頭を支えていた手が滑り、鈍い音を立て男は床へと落ちた。
「―――――――兄さん、この人は、どうして、ここまで濡れているんですか?」
何処で気を失っていたかではなく、濡れた理由を聞かれ、エミルの顔は青ざめる。
掴みかからんばかりに怒っていた先ほどまでとは違い、今度は、本当に襟首を掴まれるほどに怒り狂っているメリルの顔が間近にあった。
「――――――いいですか、兄さん。 包み隠さす正直にありまま、誤魔化しなしで全てを話してください。
兄さんは、この人が、気を失っているところを見つけたわけではなく、気を失うところを目撃した。違いませんね?」
「―――――はい……」
肯定の返事と共、ぎりぎりと襟首を締め付ける力が増していく。
当たってほしくなかった推測が、現実味を帯びていく。
額に青筋を浮かべながらも、万が一、その推測が外れていくれることを祈りながら質問を重ねる。
「この人は、雨に濡れて濡れ鼠になっているわけではなく、他の理由があり、兄さんはそれを知っていますね?」
「す、少ししか使ってないよ……?」
視線を逸らし、この期に及んで言い訳をしようとするエミルに、ぶちり、と切れてはいけないものが切れ、塞き止めていた憤怒が波を伴って、メリルの理性を押し流した。
「この雨で増水して氾濫した川の中で溺れている人間を、どうやったら少量の魔力で助けられるというんですかッ! 簡単な魔法しか使えない兄さんが出来るとすれば、魔力にモノを言わせて、川の流れを無理やり押しとどめて、水を凍らせ、歩いて助けることくらいです! 私の推測が間違っているなら訂正してみてください、お願いしますから!」
一部の狂いもなく、取った行動を的中させられ、がくがくと体を揺らされているエミルは、二重の意味で、言葉を口にすることは出来なかった。
魔法で浮かせて救出すると簡単な方法があるように思えるが、石や水とは違い、人間には抵抗力があるのだ。
それが例え善意によるものとはいえ、無意識に行っている生命活動の一環を、操作できるわけがない。
熟練の魔法使いならばともかく、未熟なエミルに、人間を操作できるほどの技術力などなく、人外じみた魔力量にモノを言わた、力技しかなかったのだ。
「あれほど、あ・れ・ほ・ど! 無駄な魔力の消費は控えるように! 毎日毎日毎日、口を酸っぱくして言っているというのに……!
―――――――ッ、シア! 隠れてないで出てきなさい!」
「やれやれ、やはり、メリルの嬢ちゃんは誤魔化せなかったか」
メリルの怒号に、観念したような声が響くと、左目に一本の傷跡が残る、黒猫が天井から飛び降りてきた。
愛玩動物として、多くの人々に飼われている猫なのだが、左目の傷と、渋い声は、歴戦の戦士を彷彿とさせる可愛げの欠片もない、うさん臭さ満点の黒猫、シア。
当然のことながら、猫は人間の言葉を話せるはずがないのだが、この不思議な生き物はエミルたちが幼いころから一緒にいるため、今となっては驚くこともせず、睨みつける。
「普段から高級品を強請るくせに、お目付け役一つ果たせないとは、どういうつもりですか、この穀つぶしは?
これ以上私を怒らせるような戯言をのたまうのであれば、一月は餌ぬきですからね!」
「おいおい、勘弁してくれよ嬢ちゃん。
これでも、一応、止めはしたんだぜ?
まぁ、この博愛主義のお人よしが、止まるとは思わなかったがな、っと、あぶねぇだろ、嬢ちゃん」
「だいたい、この嵐の中、兄さんを外に連れ出したあなたが諸悪の根源でしょう!」
「仕方ねぇだろう? 俺の女が危ないところだったんだ。
それに、カーネリアはエミルのお気に入りだぞ、一緒に住んでてそんなことも知らねぇのか?」
「百匹以上いる猫の名前を憶えている兄さんがおかしいんですよ、この色ボケ猫!」
鋭い蹴りを跳んで回避し、危なげなく飄々としている忌々しいシアに、殺意が湧くが、殺そうと思っても死なないびっくり生物だ。
怒れば怒るほどに空回りすることは、過去の経験から理解しているメリルは、本当に餌ぬきにしてやろうと、深呼吸を一つ吸って、吐き出すと、目下の悩みに目を向けた。
「兄さん、この人に魔法を使うところを見られましたか?」
「たぶん見られてないと思う。
助けた時にはもう意識はなかったし……あ、でも、息はあったよ! 水も自分で吐き出してたし!」
「そうですか、それは二重の意味でよかったです。
流石に、私も人殺しの片棒を担ぎたくありませんしね」
エミルの人外じみた魔力量が公にならば嫌になるほど目立つ―――――――――だけでは済まないのだ。
よくてエミルが殺されるだけ、本当に最悪のシナリオを辿れば、世界が滅びる。
色々な意味で天然記念物に成りかねないエミルの秘密は、決して知られてはならず、最悪、人一人いなくなったとしても、メリルが女狐と称する少女がもみ消してくれる。
「だったら、単純な話ですね。
いいですか、兄さん。 この人は川で溺れていたかもしれませんけど、兄さんが見つけ時には何かの偶然で打ち上げられていて、偶然通りかかった兄さんが家まで連れてきた。
これで話を通して、嵐が止んだら速やかにご帰宅してもらいます。
あとシアは見つからないように、天井裏のネズミでも追い回していてください」
エミルも自身の危険性を理解している故に、こくりと頷き、シアは「ネズミなんて狩り尽したに決まってんだろう」とシニカルな捨て台詞を残し、器用に跳びあがっていた。
未だ危機は完全に去っていないとはいえ、最悪の状況は免れ、肩の力を抜いた直後、最悪の絵面を目の当たりにしてしまった。
「―――――兄さん、なにをしているんですか……?」
「濡れたままだと風邪をひいちゃうから、濡れた服を脱がしてるんだけど?」
悪意の欠片もない、介護行為であり、医療を志すエミルはごく当然のことをやっているに過ぎない。
しかし、幾度もトラウマを刺激され、最早アレルギー反応とすら言っていいほどに過敏なメリルにとってその光景は、到底許せる光景ではなかった。
「兄さんは、いったい何度私を怒らされば気が済むんですか!
真冬でもあるまいし、傍に暖炉もあって、死ぬわけでないんですから、余計なことをしないでください!」