Ⅴ
「ただいまー」
「おぅ、久しぶりだなぁ、エミル」
エルスの言う通り、余計な寄り道をすることなく帰宅したエミル。
メリルが帰ってきていないこの時間、誰もいないはずのこの家で、エミルを出迎えたのは、一目で胡散臭いと見なされる、片目に傷を付けた黒猫のシアだった。
「しばらく見なかったけど、どこいってたの?
あっ、餌はあげられないからね。またメリルに怒られちゃうから」
「元を辿れば、お前が原因だってのに、薄情なやつだぜ……
まぁ、いい。今日ここに来たのは、少しの間預かってほしいやつがいてな」
シアのあとに続き、リビングにへ入ると、そこに、エミルですら、見たことがないほどに、美しい猫がいた。
不純物の一切混ざらない、鮮やかな赤色の瞳。
無駄な贅肉などはなく、すらりと細い体。
漆のように深く、艶のある毛並み。
何者にも媚びることない鋭い眼光に、エミルの心臓はとくん、高鳴った。
「シア!シア!あちらの、あちらの方はどなた様!」
「おい落ち着け」
「――――――はっ!シアダメっていたよね!見境なしに手を出しちゃ!
この前だって、パトリシアはもう高齢だったんだから、無理させちゃダメ!」
「だから、落ち着け。ついでに余計なお世話だ」
「そ、そうだよね!カメラ取ってくるから、帰らないように引き留めてて!」
「外まで声が聞こえてましたよ。いったい、何の騒ぎ……!
兄さん、また私に隠れて、猫を飼おうしてましたね!」
「違うよ!あ、でも、今回は本当に話し合おう?
あんなに綺麗な子に、路上生活なんてさせられないよ!」
「まったく、性懲りもなく何度も何度も何度も何度も!
いいですか、兄さん! 一匹でも居付いてしまったら、あとは芋づる式なんです!
いったい、兄さんに懐いてる猫が何匹いると思っているんですか!大体兄さんは―――――――――――」
恋する乙女のように、頬を染め興奮気味に、謎の黒猫をべた褒めするエミルと、そのエミルの肩を掴み諤々と揺らしながら怒鳴り散らすメリル。
何度も繰り返された茶番劇とも呼べる日常に、シアは器用に前足を額に当て首を振った。
「―――――つまり、この穀つぶしは、兄さんがこんな反応をすると分かっていて連れてきたということですね?」
「―――――まぁ、否定はしねぇが、俺にだけ責任を問うってのは筋違いってもんじゃねぇか?」
星座で据わるメリルの対面に、座布団の上に座り込むシアは不本意だと言わんばかりに、シアが連れてきた黒猫を愛で回しているエミルに視線を向けた。
まるで、理想の異性に出会えたような、熱のこもった視線を向けるエミルは、メリルの説教も、シアの小言も、一切耳に入っていない。
「これが初なら、私もここまで小言を並べません。
万年発情期の貴方が、これまで産気づいた猫を何度連れてきたか、答えてみなさい」
「――――今回はのっぴきならねぇ事情があってだな。
みりゃ、分かると思うが、色々と特殊なやつで、特殊な事情があるんだよ」
それは、メリルから見ても、丁寧に世話をされ、明らかに野良猫ではないという点ではない。
一目でわかる異常、それは、エミルに抱かれている黒猫が、懐いている素振りを見せないことだ。
むしろ、目を細め、うんざりしているようにすら見える。
動物に対して、魅了を垂れ流していると、メリルが称する様に、エミルに懐かない猫はいない。
それが意味するところを、メリルは正しく理解していた。
「―――――危険はないんですね?」
「あぁ、預かんのも数日の間だけ。
餌もいらねぇし、世話をする必要もねぇ。
―――――まぁ、必要なくても、世話を焼こうとするだろうけどな」
構い過ぎて、ついにはその腕の中から逃げられたエミルは、しょんぼりとしたかと思うと、思い出したように、カメラを取りに自室へと向かっていく。
一人取り残されたメリルは、胡散臭いシアの言うことを真に受けることはしないものの、このまま追い出したところで、あれだけ夢中になったエミルが、簡単に手を引くとは思えない。
これが飼うというのならば、理はメリルにある為、言い聞かせるだけで済む。
しかし、あくまで一時的に預かるだけ。
どちらにも理がなく、お互いの主張のぶつけ合いになった時、エミルは恐ろしく頑固なのだ。
無論、我慢比べで負けるつもりはないものの、抗戦中になると、毎日食べているメリルにしか分からない程度に、食後のデザートは手が抜かれるのだ。
いつも美味しい食事を用意しているエミルに文句を言える立場でもなく、メリル以外には十分に通用する為、気のせいだと言われれば、メリルに打つ手はない。
胃袋を掴まれて、弱いのは男だけではないのだ。
―――――――数日……数日なら……いや、でも……
ロングベル家の秩序か、ここ最近のストレスで、手放せなくなっているお手製のデザートか、ぐらぐらと天秤が揺れるなか、予想外の解決策が文字通り飛び込んできた。
「我の姿を見ると、美しさのあまり男共が騒ぎ立てるのでな、猫の姿になっていたのだが……
―――――ふぅ、参ったものだな。どうやら、我の気品と美しさは、姿形を変えても滲み出てしまうらしい」
光を反射し輝く白金の髪、見る者を魅了する深く鮮烈な赤い瞳。
神の悪戯としか思えないほどに整った体系は、指先に至るまで隙がない。
すらりと長く細い脚と腕、これこそが黄金比と言わんばかりに、大きすぎず小さすぎない、胸と臀部。
矯正具など必要としない、くびれた腰からの脚線美は芸術的に美しい。
気品のある黒衣のドレスに包まれながらも、滲み出る色気ばかりは隠すことができず、自信に満ち溢れた少女とも淑女とも呼べる美女は、絵になる仕草で、髪をかき上げた。
「それも仕方のない事。この三千世界に我より美しい存在はいないのだ。
僅かにでも美を理解できるのなら、我の美しさに見惚れるのは、生物として極めて正しい反応なのだから。
だからこそ、許してやってほしい。そなたが劣っているわけではなく、我が美しすぎるからこそ、彼は我に目を奪われたのだ」
憂い顔で世を儚む絶世の美女は、唖然としているメリルの前で、深い吐息を漏らす。
美しい。あぁ、確かにこれ以上に美しい女性を見たことがない、メリルは思う。
しかし、奇人変人は見慣れたメリルでさえ、唖然とする変わり者に、言葉を失っていた。
そんなメリルを、自身の美しさに目を奪われていると勘違いしている美女は、声音ですら美しいと、自画自賛を繰り返しながら、恍惚の溜息を吐いた。
「――――――美しすぎるとは、罪なものだな」