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手も足も出ない、その言葉通りに完全敗北を喫した日の帰り道、まるで、追い打ちをかけるかのように犬には吠えられ、猫には逃げられ、鳥たちには見張られと、いっそう沈んだ気分で、実家まで帰り着いた。
「ただいまー……」
「随分暗い顔してるな……学園で何かあったか?」
事、妹のことになると目敏いルギニアが、どんよりしたルルーナの表情を見かね、僅かな怒気を孕んだ声で尋ねる。
どこの誰であろうと、事と次第によっては、少々痛い目を見てもらおうと目論むが、それは、負けを認めない、子供の癇癪でしかない。
負けは負け。最初に兄の力を借りないと宣言した通り、この件に関しては兄のに力を借りるつもりもなければ、いらぬ地雷を踏みかねない、迂闊な行動は取るつもりもない。
「――――お兄ちゃん、世界って広いね」
「そりゃそうだろう。 俺だって世界一周しようと思ったら3日はかかるからな」
「まぁ、お兄ちゃんにとっての世界ってそんなものだよねー」
世界で唯一の存在であるルギニアは、真っ当な価値観を持っていても、やはり、見ている世界が違う以上、一般人とはどこかずれている。
だからなのだろう。 常識や倫理観だけは真っ当であろうとするあまり、少し浮世離れしているルルーナが極端に異質に見えてしまう。
確かに、大胆た行動力に、肝の太い精神を持っていることは間違いない。
だが、エルスのように上に立つ者から見れば、その程度誤差の範囲内でしかなく、むしろ学生の身分でエルスにも認められる程の能力を持つカルロの方が異常とすら言えるだろう。
「で、結局何があったんだ? お前がそこまで、へこむところなんて初めて見たぞ」
「恥ずかしながら、手も足も出ないくらい、負けちゃった。
釘もさされちゃったし、これ以上、私からエミル君に接触するのは無理かな。
あっ、でも勘違いしないでね、暴力どころか指一本触れられてないし、こっちが不干渉なら、向こうも不干渉でいてくれるって言ってたから」
少し頭の冷えたルルーナには、エルスの言葉がブラフであると疑いはしている。
しかし、相手は世界の半分を手にしたアルヴィル家。
住んでいる世界も、見えている世界も、まるで違う天上人であるが故に、完全にブラフであると確信が持てない。
そんな状態で、灰色の未来を天秤に掛ける豪胆さは、流石のルルーナにも備わっていない。
「――――――そうか。
お前がそこまで気に入っているんなら、なんとかしてやりたいんだが、エミルの気持ちもな……
命の恩人でもあるわけだし、エミルが拒むんなら、俺としても引いてくれると助かる」
「うん。だから、次が最後。
これで駄目なら、すっぱり諦めるよ」
「―――――――どうやら、やっと、兄さんも学習するということを覚えてくれたようですね」
「メリルだって、何回言っても、間食するくせに……」
「何か言いましたか?」
「なんでもないです……」
笑顔一つで黙らされたエミルは視線を落とし、メリルに相談を持ち掛けた原因へと目を向ける。
それは一枚の、便箋に収められた手紙。
その内容はいたってシンプルなものだった。
『エミル君へ
まずは、追い掛け回したりして、ごめんね。
怖いお兄さんと、怖いお姫様に釘を刺されちゃったから、これで最後にします。
厚かましいお願いだけど、一度、会って話がしたいです。
ルルーナより
P.S. エミル君のお姉さんの写真を持ってきてくれると嬉しいな』
一分もあれば目を通してしまえる程度の内容に、もう一度目を通し、メリルは視線を合わせはっきりと言い切った。
「言うまでもないと思いますけど、私は断固反対です。
聞くまでもなく、カル兄も女狐も同じ意見だと思います」
エミルとルルーナを引き合わせないために、カルロもエルスも相応の手を打ってきた。
その努力は実を結び、この手紙に否の返事を返せば、終結するところまで来ている。
それは、エミルも理解しているし、感謝もしている。
だが、それを踏まえて尚、メリルが先手を喫して、反対の意見を口にしたのは、エミルが相談を持ち掛けてきたからだ。
「やっぱり、駄目、かな……」
「兄さんの秘密を交渉に使わない所を見ると、最低限、義理は通しているみたいですが、会いたくないと言っているにも拘らず、付け回すような女に、同情の余地なんてないです」
メリルの言い分が、正しいことはエミルも賛同している。
そもそも、会いたくないと言ったのはエミル自身であり、その我儘に多くの人を巻き込んだのだ。
それを安い同情でひっくり返されれば、誰も納得はしないだろう。
「むしろ、どうして今更、会おうと思ったんですか」
避けるエミルを追い回したルルーナの印象は、最悪と言っていいほどに悪い。
いっそのこと、性格さえもアーシャに類似しているのなら、まだ、救いはあった。
エルスは兎も角、カルロなら、エミルを説得するそぶりくらいは見せただろう。
もっとも、メリルはエルス寄りの意見ではあるものの、どうであれ、エミルが会いたがる理由はない。
「―――――正直ね、僕もあまり会いたいわけじゃないんだ。
ルルーナさんを見てると、嫌でも、お姉ちゃんを思い出すから……
でも、こうまでして、僕に会いたいルルーナさんの気持ちはわかる気がする」
「会いたい理由ですか?
そんなもの、兄さんが物珍しいからでしょう?」
「たぶんだけど、違うと思う。
好奇心とか、秘密を知って優位に立ちたいとか、そんな理由じゃない」
その推論に根拠などない。
しかし、エミルの根拠なき直感は、不思議とはずさない。
エルスやカルロといった、明晰な頭脳を持っている面々でも、至れなかった事実へ、エミルは直観で辿り着いていた。
「―――――――――ふぅ、いいですか、兄さん。 そこまで言うのなら止めはしませんが、会場は私たちが定め、その場には、私たちも立ち会います。
あの人の真意がどこにあるのであれ、兄さんの秘密を知られることは決して良い事ではないともう一度、胸に刻んでくださいね」
重い溜息を吐き、妥協案を提示する。
反対姿勢の割に、簡単に妥協したと思えるが、こうでもしなければ、エミルは必ず一人で会いに行くに決まっている。
ならば、メリルたちが立ち会える方が、より良いだろう。
「ありがとう、メリル!」
「お礼は、全てが終わってからですよ。
――――――――それにしても、兄さん、真面目な相談をするときくらい、その格好はどうにかならなかったんですか……?」
「―――――――ここしばらく、構ってあげられなかったから、みんな離れてくれなくて……」
真面目な相談にも拘らず、いまいち、メリルが真剣になれなかった理由。
それは、エミルにくっ付いている、猫、猫、猫、猫、猫、猫。
頭や肩、膝の上、所狭しと、エミルに寄り添っている猫の集団が、遊ぼうと言わんばかりに、飛び跳ねて、甘えた声で鳴いていた。
「――――――はぁ、もういいですから、遊んであげてください」
「それじゃ、おいで、みんな」
先ほどまで、エミルに向かって飛び跳ねたり鳴いていた猫たちは、エミルの一言でおとなしくなり、立ち上がったエミルの後ろを列を乱すことなく付いていく。
10を超えていた猫は一匹残らず、エミルについていき、静まり返った居間で、慣れ親しんだ虚しさが、心に浸みる。
「せめて、せめて……一匹くらい……」
「維持張らず、エミルと一緒に行けばいいだろうに。
それとも、俺が遊んでやろうか?」
「癒しを求めて愛嬌が欲しいのに、どうして、苛立ちが来るうさん臭い貴方を相手にするんですか?
言っておきますけど、どんなにせがんでも、餌は抜きですからね」
「やれやれ、いつの時代も、女の癇癪は手に負えねぇぜ」