この人を見よ
求めよ、さらば与えられん。
探せよ、さらば見つからん。
叩けよ、さらば開かれん。
「新約聖書」-マタイによる福音書(マタイ伝)26章64節
神歴二〇六九年。欠月月二十四日。
蒸気機関の開発者であるアルフレド・ノーマン博士の死から百年。
世界は大きくその姿を変えていた。
生命進化論によって晩節を汚したと思われていたアルフレド博士ではあったが、遠く離れた中津葦原国の小説家天中天の手によってその汚名は、彼の死後に返上を果たした。
教会は彼と彼の研究仲間達十三名、そしてその師であったトーマス教授が世間に公表した様々な論文を、科学的根拠の点からは正しいと認めるに至ったのだ。
一七〇〇年以上に及ぶ長い時を、絶対とされていた聖書は、論理的な思考と客観的な観測データによって『御伽噺』と化した。科学者達は恐れることなく世界を解き明かそうと、知的好奇心が赴くままに世界の真実を解体した。
ここ百年の科学技術の発展は過去に類を見ない程に目覚ましい物となった。
地動説が認められたのは勿論として、物体は細かな粒で出来ていると言う原子論や、高倍率の顕微鏡の発明による細菌類の確認は大きな発見であった。
また聖書の絶対性の喪失は世界に新たな思考を産んだ。嘗ては聖書によって人間の中でも失敗作とされていた南部の赤眼種達の不当な差別を撤廃しようと言う運動。男の専売特許であった学問の門を女性にも開くべきだと言う団体。神聖文字神に替わる神を掲げる新たな宗教団体の台頭。
しかし誰もが口にするのは、要するに自由と平等だ。神と言う天上の存在を疑い始めた人類は、その夢に向かって邁進し、二〇〇〇年と言う区切りを目前に、それは殆ど達成されたと言っても良いだろう。
アーク皇国(神聖ではなくなった。王はいるが民主主義政治を行っている)では貧富の差は百年前と比べると明らかに少なくなり、国民の識字率は九割を超えた。人々は大きな不自由を感じることのない生活を送っている――
「そんなわけがない」
――とは思わない人間も当然存在していた。
二千恵利人もその一人だ。アーク皇国のノーマン国立大学に留学。卒業後直ぐに助教授に取り上げられた天才と呼ぶべき才人ではあったが、大抵のことができてしまう万能家であるが故に、所謂『できない』人間の気持ちを理解することができず、学会で孤立。
生まれながらの病弱者も手伝って、教鞭を取った期間は三年にも満たず、発表した論文はゼロ。何冊かの書籍は出しているが、根回しもせずに売れる程に学会も甘くはなく、二十五歳の頃からここ十年は、教授職の給料と障害者年金を使って大陸中を療養の為に点々とする生活を送っている。
そんな中で、彼は世の中の在り様に憤っていた。もっとも、その殆どは優秀な自分が評価されず、無能共が徒党を組んで内輪贔屓で活動をしていることに対するやっかみである。天才ではあるが、利人もまたただの人間に過ぎなかった。
「おじさんは、いつも怒っているね」
そんな利人に友好的に近寄って来る人間は少ない。療養地として有名な西部トレイリア地方を訪れて半月が経とうとしていたが、彼を鬱陶しがることなく話し相手を勤めてくれるのは、夏季休業中の中等学生の少年だけであった。
名前はヒドゥン・ナラー。毎日の様に湖の模写をする画家志望の少年だ。最近は二人で土手に並び、湖の写生を行うのが日課だった。
「そうだな。この世はあまりにも詰まらない物が多い。そして、誰もそれを退屈だと言わない。私は全ての人類の為に怒っているのだ」
「スケールがでかいなー。今日は何があったの?」
「早朝に散歩をしているとな、犬にズボンを穿かしている夫人がいたんだ」
「ああ」と、ヒドゥンは相槌を打った。「最近、流行りみたいだよ」
「流行り? まるで疫病みたいな言い方だな。が、アレは確かに病だ。ああ! 犬にズボンを穿かせるなんて!」
「それの何処が悪いんですか?」
パンクズでデッサンの下描きを消し、修正を加えるヒドゥン。利人は「そうじゃあない」とパースの狂いを指摘した。芸術方面でも彼の才能には類稀なる物があり、とても同じ物を描いているとは思えない。
少年がこの面倒なおっさんに付き合っているのも、この芸術の才能が故。本来であれば高い月謝を取られるであろう男から、愚痴を聞けばタダで手解きを受けることができるのである。こんなにも素晴らしいことはない。
「良いか? 犬には毛皮があるんだ。何故、毛皮があると思う?」
「え? それは進化論のあれでしょ? 生きやすいように進化したんじゃないの?」
「貴様。アルフレドの生命進化論を読んだことがあるのか?」
ヒドゥンは首を横に振った。常識として知ってはいるが、原本を読んだことなんて当然ない。
「嘆かわしい! 貴様のような少年少女にわかりやすいように書かれているというのに! 絶対に読め。良いな? 図書館に置いてあるだろう。そして、生命は生きやすいように進化したわけではない。あくまで、環境に適応した種が生き延びるのだ。そこに誰の意志によるデザインはない。つまり、毛皮の生えた犬だけが生き延びて来たのだよ」
自分の台詞と、何が違うんだろうか? 釈然としない物を覚えながらも、ヒドゥンはぐっとそれを堪えた。
「要するに、犬にズボンは必要がないってこと?」
「違う。そうじゃあない。話しを聞いていたのか? 犬を人間の様に扱っていることに私は憤りを覚えたのだよ!」
「そんな話し、してないよ」
「だから私は夫人に考え直すように言ったのだ。『犬にズボンを穿かせる必要はない!』と」
「完全に余計なお世話だと思うんだけど」
「そうしたら、なんて言ったと思う? あの女は! 『犬じゃないわ! エルちゃんよ。私の息子。家族なの!』だぞ! ああ! なんて可哀想な犬なんだろうか! 愚かな女だ!」
それの何処が可哀想なのだろうか? 人間の様に愛情を注がれていると言うのなら、良い話ではないか。勿論、少年は反論をしなかった。
「犬を人のように扱うなんて、犬に対してコレ以上の侮辱があるか? 貴様は、母親に犬の様に扱われて幸福を覚えるのか? 犬は犬として扱うべきなのだ。物事には相応と言う物があるのを何故理解しない!」
「はあ。でも、そんなの人の自由じゃないですか? 好きにさせておけば良いんですよ」
「自由! 自由と言ったか? 真の意味以外で、その言葉を口にしないでくれたまえ! それは堕落の言葉だ。無関心が産んだ言葉だ! 人間の愚かな残酷さの象徴だ!」
怒りをぶちまけながら、利人はスケッチブックに巨大な鷲の絵を描き始める。勿論、湖の半分を覆い隠す様な鷲なんて飛んでいない。しかし、巧い。このままナイフで斬りつければ血が噴き出しそうな現実感があった。
「君達は他人の自由を認める度に、そのことから関心を失っていることにどうして気が付かないのだ! ああ! 本当にどうして人は私を見ないのか! 平等を求める度に、自分を殺していることをどうして認めないのか!」
「落ち着いてください。また、泡を吹いて倒れちゃいますよ」
「う。そうだな。だが、貴様だけでも覚えておけ。自由と平等は真実の意味以外で口にするべきではないことをな」
「わかりました。トシヒト師匠の言う通りにします」
「…………犬の話しだったな。あの夫人の心は自由と平等に毒されている。私はそれを治療したかったのだよ」
利人はスケッチブックを一端脇に置き、立ち上がると深呼吸をした。
「彼女は何故、犬を人扱いしたのだと思う?」
「わかりません」
「歪んだ優越感だよ。現代人間社会の生活において、不適合者である犬を相手に優位に立つことに愉しみを覚えているのだ。それを人間扱いする。自分がいなければズボンも穿けない、食事もできない存在を人として扱うことで、自らを優秀だと思い込み、優越感を愉しんでいるのだ」
「いや、それは穿ち過ぎですよ……」
「そうかもしれない。だが、犬と言う素晴らしい個性をも認めず、人間――つまり自分と言う存在の絶対性を押しつけていることに違いはない。彼女はこれが平等だと思っているかもしれない。が、実際は違う。犬は人間以下の畜生だと言っているようなものだ。嘗ては互いに互いを尊重し合う家族で会ったのに、相棒であったのに関わらずだ! 奴等は軽蔑すべき根本的差別主義者だ。唾棄すべき人間至上主義者め! 例えそれが無意識だろうとな!」
「師匠は大袈裟だなぁ」
バスケットから薬湯の入った水筒を取り出し、コップに注いでヒドゥンは利人に手渡す。利人はそれを振るえる手で受け取って、半分以上こぼしながら飲み干した。
「大袈裟な物か。私は今後百年のことを言っているのだ。人々は本質を見失い、上辺だけの言葉と、仮初の幸福を抱いて没落していくだろう。愚か者が自由を口にするたびに、真の平等が失われる。愚か者が平等を口にすることで、尊い自由が削られていく。覚えておくがいい。技術が発展する度に、安寧と平和が続く程に、愚民共は向上心を忘れ、現状維持と言う名の緩やかな自殺の道を進んでいく。資本主義と言う監獄の中で、搾取されていることすら忘れてしまう。そこで生まれるのは奴隷の正義と道徳だ。そこに生きるのは人間ではなく未人だ」
コップを乱暴に投げ捨てて、利人は「神は死んでしまったのだ」と頭を抱えた。弱々しく土手に座り込みぶつぶつと呟きながら自分の世界に入り込む。その表情に先程までの自信は微塵もなく、今すぐにでも死んでしまいそうなほどに青い。
テンションが高い時はとことん高いが、低い時は地を這うように低い。心肺や内臓にも幾つか疾患を抱えている利人ではあるが、最近病気と正式に認められ始めた精神の病も酷かった。教授職を長く続けることが出来なかったのは、どちらかと言えばこの躁鬱が原因だった。
「神様を信じているのなんて、神聖文字神教の人くらいだよ。皆、科学技術の進歩と、人間の知恵の方を信じてるよ」
「違うんだ。そんな犬の糞みたいな話をしてるんじゃないんだよ。最も尊かった存在を、人々は無関心から殺してしまったことにどうして気が付かない? そこら中から神の死体が腐った臭いがしているのに、どうして人々は平気そうな顔をしているんだ?」
「師匠。深呼吸して。深呼吸」
「駄目だ。腐った空気を吸い込んだら、私まで病にかかってしまう。もう、ここにもいられない。世界に私の居場所はないんだ。正しさよりも便利さが、正義よりも平和が愛される世の中に、私の居場所があるわけがない」
卵のように頭を両手で抑えて丸くなる二十は年上のおっさんの泣き言に、ヒドゥンはやれやれと肩を竦める。
「じゃあ、森の中にでも引き籠ったらどうです? 師匠、お金持ちなんでしょう?」
ヒドゥンは利人のことを金持ちの道楽で絵を描いている変なおっさんとしか思っていない。誰もが現場への復帰を、現役での活躍を望んでいる利人にこんなことを言えるのは世界にも彼一人だろう。
だから、その何気ない台詞は利人の明晰な頭脳には浮かばなかった選択肢であり、斬新にその心を捉えた。
「それも、そうだな」
ぱっと、顔を上げる利人。その瞳は輝き、力に満ちていた。
「え?」
「そうとなったら、何処に隠居しようか! モルトの方はすっかり寂れてしまったと聞くが、アルフレド・ノーマン生誕の地と言うのも、悪くはない。貴様も来るだろう? 我が弟子よ」
「え?」
「うん。それが良い。貴様は中々に見どころがあるからな」
「え?」
勝手に進路が決まって行く現実に、ヒドゥンの言語能力は劇的に幼児化していた。
「でも、学校が……」
「学校? そんな物に価値はない」
また滅茶苦茶なことを言い始める利人に、ヒドゥンはしかし上手く反論の言葉が浮かばない。
「考えても見ろ。学校を作った偉大な人間は学校に通っていなかったのだぞ? 進化論を見つけたアルフレド達は教えられたわけでもなく、進化論を導き出した。虫けらですら、産まれたら自分が如何に生きるべきかを知っている。必要なことは、誰もが勝手に知っている。何故なら…………何故だ? うむ。一考の余地があるな。かの彫刻家マル・ラグロースは『石に刻まれた運命を彫っている』と言っていたが、その辺りのことを本にしよう。学会の屑山達に理解できずとも、市井の民衆に分かるような物がいいかもな」
ぶつぶつ。ぶつぶつ。
利人は夢遊病患者の様にふらふらとした足取りで土手を上がっていく。
ヒドゥンは急いで荷物をまとめ、その後を追いかけるのだった。
この十年後、利人は完全に精神を病んでしまい、更にその十年後に自分が誰かもわからずに死んでいった。彼は生前に十二冊の本を出版したが、それは家族や限られた友人達に贈られただけであり、学術的な評価がされることは一切なかった。
ただし、その詩的な文章は高く評価されており、文学的な評価は極めて高い。また彼の唯一の弟子であったヒドゥン・ナラーは印象派の先駆けとして名を馳せ、二千恵利人と言えば後世では精神不安定な狂人芸術家として扱われている。
二千恵利人がそのことを知れば、きっとこう言うだろう。
「個人が狂気に犯されることは滅多にない。社会や集団が狂気でないことはない」
そしてこう続けるかもしれない。
「偉大なる狂気。それが神の死体の名前である」
これは安藤ナツ個人の話しなのですが、過去と言う物は基本的に後悔する為だけにしかありません。
中学生になると、小学生の時が子供過ぎて信じられない気持ちになりました。
高校生になると、中学生の時が馬鹿すぎて恥ずかしかったです。
今から思えば、高校の試験勉強程度で愚痴っていたのがアホらしかったです。
そして死に間際になってみれば、この小説も黒歴史になっているかもしれません。
もっとも歴史を振り返ってみれば、フロギストンや地動説、染色体の数やら偉大な先人達も結構大きな間違いを犯していたりしますけど。
ならば、今の道徳や正義が1000年後も正しくあるかどうか、かなり疑わしいように思います。
もうとっくの昔に、人類が信じていた神様が死んでしまっているように。
次話のおまけで最終回となります。
お付き合いいただけだら嬉しいなって。