ビーグル号には乗らないけれども
ブランデーを飲んで酔っ払ったことのあるアメリカザルは、もう二度とそれに手をつけようとはしない。
人間よりはるかに頭がいいということだ。
チャールズ・ダーウィン
神歴一九五五年。鋸羽根月七日。
神聖アーク皇国北東部モルト港の小高い丘の上に立つ小さな屋敷で、アルフレド・ノーマンは六十五歳になった。ただ、彼の誕生日を祝ってくれるような者は存在しない。ほんの十年前までは、モルト一の造船所である妻の実家でささやかながらも息子や孫達と共に御馳走を頂いたものだが、今年はコップ一杯のブドウのジュースとチーズの一欠片が彼の晩餐だった。
もっとも、彼は元々自分の誕生日にそれ程に大きな関心を持ってはいなかったし、食事にも栄養の補給以外の意味を見出してはいなかった。妻も見合い結婚で大きな愛情があったわけでもなく、子供達にしても特別な関心があるわけではなく、世間が思う程に彼は今の生活に不自由を感じていなかった。
強いて言うならば、パトロンを失ったことで研究費が激減したことが手痛かったが、どの道この高齢である。昔の様に未開拓の島々まで足を伸ばすことも、鳩や馬の交配を行うこともなくなっていたので、紙とインクの質を下げれば特に問題もない。
老成した研究者であるアルフレド・ノーマンの世界は今や、自分の脳内と紙の上に書かれた文字で完結してしまっている。家族なんて今更、煩わしいだけであった。
ランプの明かりを頼りに、難しい顔でチーズを齧りながら、紙の上にペンを走らせることこそが彼の幸福だった。
「夜分遅くにすいません」
そのささやかな幸せを、来客を知らせるベルの音と若者の声が遮った。
「『生命進化論』のアルフレド・ノーマンさんのお宅ですか?」
街から外れたこの丘の上に来客など殆どなく、使用人などは置いていない。アルフレドは舌打ちをするとペン先のインクをボロ布で乱暴に拭い、苛々とした様子で立ちあがると玄関へと向かった。その所作は荒々しいながらも機敏で、六十五歳と言う年齢をまったく感じさせなかった。
ドアを拳一つ分だけ開け、アルフレドは「何の様だ」と客人に殆ど怒鳴りつける。
玄関にいたのは二十代も半ばの青年だった。
「こんばんは。僕は天中天と言います。アルフレド・ノーマン先生ですね? お会いできて光栄です」
「アマナカタカシ? 中津葦原の人間か?」
「その通りです」
皇国では珍しい黒髪と名前からアルフレドは彼の出身国を言い当てる。東の海に浮かぶ小国では独自の言語が使われていたはずだが、ユトゥン共通言語の発音に問題はなく、その教養が窺い知れた。
が、
「かの国の連中は礼儀を重んじると聴いていたが?」
日が完全に沈んでしまっている時間帯に訪ねて来ると言うのは頂けない。別に礼儀作法を重んじるアルフレドではなかったが、天と名乗った青年を追い返すには丁度良い口実だった。
「そうなんですよ。私の国の連中って、一々面倒臭いんですよね。あ、立ち話もなんだし、入れて貰えません?」
が、天はまったくそれを意に介さずにヌケヌケとそんなことを言った。
「…………入れ」
約五秒。アルフレドは悩んだ様子を見せたが、最終的にはドアを開け、天を受け入れることを選んだ。話しが通じない奴には何を言っても無駄だと経験的に知っていたし、盗まれて困る物は、たとえ命であったとしてもない。用件さえ聴けば満足するだろうと判断したのだ。
そのままリビングに通し、天を椅子に座らせる。その対面にアルフレドはぶどうジュースの瓶とコップを持って腰を下ろす。
「あ、飲み物は結構ですよ」
勝手気ままに、天も葦原清酒の入った瓶と湯呑とを取り出した。
「でも、酒を嗜まないって言うのは本当なんですね」
「酒等、飲む奴の気がしれん。で? なんの様だ。葦原人」
「そうですね、単刀直入に言えば、『生命進化論』に署名を貰いに来た、って所ですかね」
「は?」
予想していなかった天の回答に、アルフレドの眉間から始めて険が取れる。
「葦原に先生のこの本が入って来たのは、約四年前。僕は翻訳家をしていましてね。この本を翻訳させて貰ったんですが、蒙が啓けた気分でしたよ」
言いながら取り出したのは、アルフレドが十二年前に自費で出版した本だった。
タイトルは『生命進化論』。堅苦しい名前ではあるが、なるべく多くの人に読んで貰おうと、その三年前に発表した同名の論文をできるだけ簡単な表現にした物で、全七冊となっている。
各部を一〇〇〇部刷って大陸中の様々な学会や組織、機関へと配布したのだが、
「国の連中は、それを読んで怒り狂うか、俺を笑うだけだったがな」
その大半は抗議の言葉と共に送り返され、古本屋に売られただけならまだしも、燃やされた本も少なくなかった。
それほどまでに内容は冒涜的であり、教会から『異端者の魔法使い』疑惑までかけられた。過去の功績から死罪は免れたものの、この出版を機にアルフレドに近寄って来る人間は激減した。
「みたいですね。私もこの本を全巻手に入れることが出来たのは、幸運としか言いようがありません」
宝物のように、天は取り出した本の背表紙を撫でた。
この国では悪魔の書とすら言われたその内容と言えば、
「『生物は最初からこの姿だったのではなく、長い年月をかけて大自然と言うふるいにかけられて今の姿となった』素晴らしい着眼点だと思いますよ!」
要約してしまえば天が言ったことに尽きる。
約一二〇〇年前に救世主の関係者達が残した神聖文字神を称える聖書によれば、この世界は神聖文字神が創造したことになっている。彼(男性でも女性でもないが便宜上は『彼』や『父』と記されることが多い。女性の記述も少なくはないが例外とされる)がこの世界を人の為に創りあげたのが約一九〇〇年前のことであり、聖書には創世の様子と約七〇〇年間の歴史が物語風に記されている。
その記述の中には人間だけが文字を扱える神聖な生き物で、他の生物は人間の為に創られた脇役の様なものだと解釈される。例えば、存在の必要が一見するとなさそうなシラミにしても、人間に清潔の快適さを教える為に存在する、と言った風に説明がなされている。
豚や牛と言った食肉となる生物も、血や糞と言った悪臭や不潔さ、或いは生命の持つ強さその物を試練として、それを乗り越えた褒美としての存在だ。
これは当然の常識であり、生物達のあらゆる起源は神聖文字神の創造に他ならない――
「神様が全てを創った。わかりやすい考えですが、説明になってはいません。そこにこんなわかりやすい説明を思い付くだなんて、先生は本当に素晴らしいお方です」
「褒めても、何も出せんぞ」
――と、言う考えに疑問を抱いたのが、アルフレド・ノーマンだ。
アルフレドは三代前まで海賊だったと言う海洋貿易会社の三男坊として産まれた。幼い頃から好奇心旺盛で、些細なことに疑問を持っては質問を繰り返し、大人達を困らせた。そんな彼が、学者になると言った時、周囲の人間達は『やっぱりな』と思っただろう。
この時代の学者と言えば、観察や実験を繰り返すことにより、神聖文字神の創ったこの世界をより理解すると共に、自らが崇める神の素晴らしさを再認識し、世界により広めて行こうと言う思想が根底にあった。あくまで神聖文字神を肯定する為の組織である。
が、幼少からあらゆることに疑問を持っていたアルフレドは、当然の様に神聖文字神の存在も疑っていた。本当にそんな便利な存在がいるか? そもそも、その神聖文字神は何処から現れたのだ? そう言った疑問を解決する為に、結果的には神を否定する可能性を孕んだ志を持って国立の大学へと入学した。
友人や師に恵まれ、めきめきと頭角を現したアルフレドは、学べば学ぶ程に、神の存在を疑う様になった。世界は自分が思ったよりも精巧にできており、曖昧な聖書の説明や解釈よりも、実験結果や論文の上の理屈の方が世界を説明するのに相応しく思えたのだ。
特に決定的だったのが、師であるトーマス・エルック教授が発見した『地動説』だ。地球が太陽の周りをまわっていると言う観測デーが導き出した結論は、地球の周りを太陽や月が回っていると説く聖書と大きく矛盾している。
聖書に虚偽があった。しかも些細な物ではない。太陽と地球と言う創世に関わる要素で、だ。おまけに、トーマスの論文には無数の観測結果や実験証拠が記載されているにも関わらず、聖書には救世主達が書いた以外の信憑性が存在しない。
三百五十年程前の新大陸発見以上の衝撃がユトゥン大陸に走った。
その騒動は七年強の歳月を経て、トーマス教授の公開処刑と言う形で幕を閉じることとなり、アルフレドを含む何人かの直弟子達は、真実よりも聖書を重んじる皇国と教会の姿勢に、聖書よりも実験や観測の結果を重んじることを選んだ。
「なるほど。膨大な観測結果に基づく理論は、お師匠様譲りなのですね」
「トーマス教授は、俺みたいなはぐれ者のまとめ役だったんだ。俺達は纏まりのない集団でな、教授がいなければ烏合の衆だった。だったのに、皮肉なことに、教授の死が、俺達の結束を固くしたんだがな」
その結果、アルフレド達が思い付いた生命の多様性の説明の一つが『生命進化論』だ。
例えば、同じに見える烏でも、街に近い種と、森に暮らす種では嘴の形が大きく違った。具体的に言えば、マチカラスの嘴は太く、イナカカラスの嘴は細い。今までは神の許した誤差の範囲であると考えられていた違いだが、アルフレドはそうは考えなかった。
どうして、嘴の形が違うのだろうか?
暫く観察を続ければ直ぐにわかった。イナカカラスの狩り場は当然森の中である。木のうろに隠れた虫等を主に食べるのだが、その為には嘴が奥の方まで届くように細い方が便利なのだ。試しに、生ゴミが溢れている都会で産まれた嘴が太いトカイカラスを森の中に放つと、虫や地面に隠れた木の実を探すことができずに、見る見るとやせ細って行った。
他にも軍馬を育てる者なら常識だが、両親ともに足の速い馬は、やはり足が早くなりやすい傾向になる。伝書鳩でも似たような事が確認されているし、川底の砂利に似た模様を持つ小魚なんて物もいる。
そのことから、生物は外からの影響を受けて多様な姿形を取るのではないか? と考えるようになった。勿論、神が創ったこの世界の物が、その姿を変えると言うのはあってはならないことであるとは重々承知であったが、好奇心を抑えることはできなかった。
そしてアルフレドを中心として何十年に及ぶ調査を行い、仲間達とも十分に話し合った結果、この研究は然るべき時まで封印することとなった。確かに進化は起きていると確信するには至るのだが、それを証明する手段が存在しないのだ。
進化は世代を跨いで起こる。その環境に相応しい物が残され、適応できない生命は死んでいく。その取捨選択のサイクルは人間の寿命よりも遥かに長い。決定的な証拠がなければ、教会お抱えの学者共の槍玉にあげられることは間違いない。
人と猿は共通の先祖を持つだなんて発表しようものなら、一体どうなってしまうことか。
慎重に慎重を重ねなければ、師の天動説のように虚偽と見なされ、衆人環視の中ギロチンされることになってしまうだろう。
だからこそ、アルフレドは自分一人の研究として世間に進化論を公表した。真っ向から世間に立ち向かったトーマス教授の意志を継ぐその決断に、反対意見は出たが、最終的には誰もがアルフレドの意志の固さを知り、説得を諦めた。
そうして生命進化論は表舞台へと躍り出たのだが、当然の様にその論文が世間に受け入れられることはなかった。アルフレドは聖書を冒涜した罪で法廷に何度も上げられ、過去の功績によって死罪こそ免除された物の、あらゆる特権を剥奪され、周囲からは狂人と言うレッテルを張り付けられた。連日熱心な信徒達からの講義の手紙や声が届き、家族はアルフレドと縁を切って全員出て行った。
「…………ふん。サインだったな。くれてやるよ」
一通り生命進化論について語り終えると、アルフレドはひったくるように天の手から本を奪い、書斎からペンとインク壺を持って来て表紙に乱暴に自らの名前を署名した。
「ありがとうございます。宝物にしますよ」
「変わった奴だ。葦原の人間は、全員お前さんみたいな奴なのか?」
「さあ? そもそも、葦原は神聖文字神でしたっけ? そんな物を信じていませんからね。生と死を司る魔神『輪廻生死禍津神』様とその妻であられる葦原君様を信奉していますからね」
「ああ。そうだったな」
「そんなことよりも、一つ質問して良いですか?」
コップに入った酒を一気に呷り、天が返事も待たずに訊ねる。
「アルフレド先生が最も尊敬する人物は誰ですか? せっかくアークまで来たんで、その人のこともちょっと調べて見ようと思うんです。やっぱり、トーマス教授?」
「いや」と、答えてから少しだけ間を置いてアルフレドは口を開く「ガーランドの爺さんだ」
「ガーランド? 確か、救世主の弟子の一人でしたっけ?」
「いや、まあ、そうなんだが。ガキの頃、近くに住んでた爺さんだよ。親にはガーランド爺さんと話しをしたと言うだけでど叱られたもんだ」
「はあ」
あまりにもぱっとしない人物に、天は不満そうな顔を隠さずに相槌を打った。気を悪くする風でもなく、アルフレドは続けた。
「なんでも、優秀な戦士だったんだが、神を冒涜した罪で、右腕と両目を失ったと本人は言っていたな。何処まで本当か知らんが、軍でもかなりの地位にいて、教会の連中に煙たがられ、罪人に仕立て上げられたらしいぞ?」
「うーん。罰当たりな人ですけど、調べて見て面白そうな人ではありますね。」
「直に、神を馬鹿にすることは罪でもなんでもなくなるさ。まあ、その爺さんが良く行っていたんだ。『人間は祈る為に産まれたんじゃあない』『人間が造ったもの以外に、目的を持って産まれたものなんてない』ってな。それが俺の原点なのさ」
進化と言う言葉は少なくともこの日本では割と受け入れられた概念ではないでしょうか?
生物を瀕死近くまで追い込み、小さなゲージの中に押し込んで持ち歩くと言う国民的人気ゲームのおかげで、多くの人がその言葉の意味をなんとなく理解していることでしょう。
これは実は、かなり凄いことなんじゃあないでしょうか?
まあ、本文でも書きましたが、実際に進化が起きているかどうかの確認はかなり難しく、そして再現性となれば不可能と言うしかなく、進化の証拠と言う物は今の所存在しないのですが。
勿論、神様がいる物的証拠も状況証拠も何処にもないんですけれどね。
さて。1話の引きからガーランドの英雄譚を想像した方もいるかもしれませんが、申し訳ございません。3話にも出て来ません。それは昔々のお話しでございます。そして、当然の様にアルフレドも3話では登場しません。
愚かな狂人、利人の物語となっております。
お楽しみいただければ、幸いです。