その8
濡れ雑巾が廊下に二つ並び、燃え上がる闘志が雑巾の水気を蒸発させんと迸る。
俺と仁の雑巾掛けレースが開催されようとしていた。
コースは4階から1階までの廊下。途中の階段も含めた全てを雑巾掛けする。
廊下は〝ロ〟の字になっていてそのまま一周することができるようになっているのだが、もちろんたった一周するだけで雑巾掛けができるわけがないので、廊下を縦に二分し、俺と仁で均等に掃除する。そして1フロアを何周かしてから階段を経由して次の階へ。
という流れになっているのだが……。
「っしゃー、やったるでー! 気合い漲る! パンツ見る!」
絶対に阻止せねばならない。韻なんか踏んで変態発言してるこんな奴には負けたくない!
試合には負けてもいいから、勝負には勝たなくてはならない……これは責任重大だ。
スカートの中を狙われているとは露とも知らないひとよ、水野、リズの女子組三人はせっせと箒で掃き掃除をして、雑巾掛けレースの準備中。一通り済んだら、合図とともにパンツ防衛戦もとい、廊下掃除の本番が始まる。
俺らが雑巾の準備をしている間に結構掃き掃除も進んでいたようで、もうすぐ終わりそう。三人もいれば1フロアもすぐのようだ。
「これでよしっと……お二人とも、掃き掃除おわりましたぁ」
水野が笑顔で言ってくれる。
完全に巻き込まれた形で、本来なら来なくてもいいはずなのに来てくれて、しかも掃除を手伝ってくれるなんて……本当にいい奴だよ水野は。
「ふっふっふ……まってたぜその言葉を!」
……そんないい子のパンツを見てやろうと、この男はやる気になっているのだから、救いようがない。
いつか絶対に痛い目を見るだろう。
いや、俺が痛い目を見せてやる。
『じゃあワタシが合図するミ!』
――待てリズ! こっちに来るんじゃない! その場で合図してくれ!
トテトテと駆け寄ってくるリズに慌てて制止の言葉を投げかけた。
スタートの合図をやろうと名乗り出てくれるのは嬉しいが、すぐ横につかれると仁の思うツボ。
リズは三人の中でも身長が高く、足が長い。足が長いということは腰の位置も高く、視線が低い位置にある仁からは格好の餌食になりやすい。
「……ちっ、余計なことを……」
すぐ隣から割と本気なボヤキが聞こえてくる。
これは手こずりそうだ。
『アマテルさんがそう言うなら……。じゃあ行くミ!』
素直に俺の言うことを聞いてくれたリズ。何とかいきなりやってきた第一関門は突破したが、まだまだ油断はできない。いつ、どこでタイミングがやってくるかわかったものじゃない。
『位置について……よーい……ミー!』
思わずずっこけそうになる合図を受けて、同時に床を蹴り上げた。
仁はインコース。俺はアウトコース。
そして女子組三人は外側に立って様子を見ているので、この位置関係ならばスカートを覗こうとしても俺が間に入っているので見れ……
「ッショアァ!」
――……なにっ?!
同時にスタートしたはずなのに、すでに頭一つ分リードされている!? まずい、このままじゃ仁の視界を遮ることができない!
仁は、してやったりな表情で俺を見て、そのまま視線を持ち上げるように外側に立ち並ぶ女子達へ。気合いで勝る仁を止めるのは骨が折れるが、やるしかない。
こんなこともあろうかと、あらかじめ二重に重ねておいた濡れ雑巾の片方を仁の顔面へ投げつける。
「っつぉい! またかよっ?!」
視界を塞ぎつつ、再度雑巾を顔面に食らった仁は怯んだ。
お互いにレース中である。その足を止めるわけにはいかなかった仁は女子達を通り過ぎてしまう。
これでいい。いきなり切り札を切ってしまったが出し惜しみして守れるほど、女子のパンツは甘くない。
……なに言ってんだろう、俺。
突然やってきた虚しさに、心で涙を流しながら、仁と同時に第1コーナーを曲がる。
さすがにインコースを走る仁にはコーナーでは敵わない。曲がり終えると一人分の差が生まれていた。
「よぉ天照!」
俺の前を走りながら、後ろへ向かって言葉を放り投げてくる仁。真剣勝負中に余裕なことだ。もし一瞬でも隙を見せたら一気に仕掛けてやる。
「珍しく、お前にしちゃ詰めが甘かったな!」
――……何?
こちらからは仁の尻しか見えないが、声の調子からして恐らく笑っている。
詰めが甘かったとはどういうことだ?
「コース取りもそうだが、一つ忘れてるぜ?」
そう言いつつ第2コーナーを曲がり、さらに差が広がってしまう。くそ、これでも結構頑張っている方なんだけど、実力が拮抗しているが故に差が埋まらない。
「この学校に階段は二つある! まさか同じ階段を掃除するわけじゃないよな?!」
そうか、そういうことか。
仁の言うとおり、〝ロ〟の字になっている右側と左側、二つの位置に階段はある。一度掃除したところをまた掃除するのでは意味がない。
仁が一足先に階段掃除に入ってしまえば、こちらは自然と残った方をやらなきゃならなくなる。
そうなると、またさらに距離が広がってしまうわけだ。
やられた……俺としたことが、確かに詰めが甘かった。
女子のパンツを守ることばかりを意識して、このレースが試合形式であることを忘れていた。
……が、しかし!
――お前も同じ条件だということを忘れるなよ……!
インコースをとられているとはいえ、こちらが先に近い階段へ入ってしまえばいいだけの話。そうすれば、必然的に仁は残った遠い階段を掃除しなきゃならなくなる。
「このレースは圧倒的にインコースが有利! オレの勝利は揺るがない!」
そのまま第3コーナーを曲がる。
アウトコースの方が周回距離が長いのだから、掃除する面積も広くなる。確かに俺が不利の状況にいつの間にか追い詰められていた。
掃除する面積が広いということは、雑巾もそれ相応に汚くなるということ。つまりバケツで綺麗にする回数も自然と増えてしまう。
「はっはっはー! 我、勝利を確信せりっ!」
さらにスピードを上げ、スタートラインを通過。あっという間に一周してしまった。
数歩分遅れて俺も一周する。
この距離があっては、仁が女子のスカートを覗くことも阻止できない……! くそ!
「バカなっ?! 女子の姿が……ない、だとっ?!」
仁が信じられないように言う。
視線を上げてみれば、確かに女子の姿は見えない。一周している間にどこかへ行ってしまったらしい。
……そうか、考えてみれば当たり前だ。ここは4階で、1階まで全て掃除するのだから俺らがここをやっている間に次の階を掃き掃除しておく必要がある。
――残念だったな仁。俺との勝負に集中してもらおうか。
「インコースのオレに勝つ気でいるのか?」
――ずる賢いのはお前だけじゃないってことだ。
俺はさらに重ねていた雑巾を右手と左手の左右に展開する。こうすることにより、一度で倍の幅を掃除できる!
これでもう、インコースによる優位は潰えた!
「さっき投げつけた雑巾だけじゃなかったのか!」
――使えるものは使っていくスタンスなんだよっ!
仁はバカ正直に一枚の雑巾しか用意していない。準備が早く済んだ分インコースを選ぶことができたかもしれないが、準備に時間をかけた俺は用意周到! 策を巡らすことができたんだ!
――おい仁、ずいぶん雑巾が汚れてきたんじゃないか? 汚い雑巾で綺麗にできると思っているのか?
「……くっ!」
三週目に入る頃には、仁は一度バケツで綺麗にするだろう。その隙に俺は仁を追い越し、雑巾がけを終わらせ、近い位置の階段を掃除し、次の階ではインコースを陣取る!
「油断大敵とはこのことか……!」
してやられたと悔しさに歯噛みする仁。
……しかし、仁の目に宿る闘志は、未だに燃え盛ったままだった。
*
おかしい、どうしてこうなった。
現在ラストステージ。一階の廊下を掃除中なのだが……。
いつの間にか廊下を二分して掃除するというルールが無くなって、インコースを走る俺のすぐ隣に仁がいるという状況に陥っていた。
肩をぶつけて脱落させようという強行手段に出ている仁。おかげで綺麗に雑巾掛けができない。
「お前にはぜってぇ負けねぇ!」
――しつこいな……!
俺の作戦が有効に働いて優位に立てたはずなのに、仁は予想以上のバイタリティーを発揮して追い付いてきたのだ。運動神経に関しては、仁には敵わないということか。
『どっちも頑張るミー!』
「お二人とも、ふぁいとですぅ」
「…………ぁ、……てる、がんば……」
二人の応援する声が聞こえる。ひとよは……小さくて聞こえなかったけど、多分応援してくれている。
次のコーナーを曲がれば残りは直線。コーナーで差をつけて一気にゴールしたいところだけど、そう上手くいかないのが勝負だ。
仁が大人しくゴールさせてくれるわけがない。
コーナーを曲がり、頭一つ分俺が前に出る。
「うおおおオォォォォォォ! パァァァァンツっ!!!」
仁はもう隠す気もないのか、あまりものパンツ見たさに気合とともに気持ちが口から溢れ出ていた。
――させるか……!
こちらも(雑巾だけに)最後の一滴まで力を振り絞って猛ダッシュ。
そして、同じタイミングでヘッドスライディングするように女子組の待つゴールラインへ飛び込んだ。
勝負の判定は……!?
「…………天照の勝ち」
「わたしは同着にみえましたぁ」
『いやいや、若干ヒトシさんが早かったミ』
1対1対1って……間をとって同着という平和的解決ができないじゃないか。足して割れば同着か?
女子組が判定について抗議していると、息を切らしながら仁は男泣きしていた。
俺もここまで全力で運動したのは久しぶりすぎで、肩で息することを止められないんだけど、どうして仁は涙を流しているんだ?!
「なんでハーパン履いてんだよ……ちくしょう!」
血反吐を吐くように、血の涙を流すように、仁はがっくりとうなだれた。
最後の最後で必死になりすぎて、仁が女子のパンツを狙っているということを忘れていた。しかし女子の方がまさに一枚上手だったようだ。
『あれだけレース中に「パンツパンツ」叫んでたら誰だって分かるミ』
そりゃそうか。
『だから二人が一階に来る前に下だけ履いておいたんだミ』
「…………やっぱり、天照の勝ち、ょ」
「真摯に掃除に取り組んだ天照くんの判定勝ち、ということでしょうかぁ?」
紳士的に取り組んだだけなんだけどね……。さっきからダジャレばっか言ってる気がする。疲れて思考がおかしくなっているのだろうか。
「…………ざんねんだったわね」
仰向けに寝っ転がる仁に向かって唾を吐くように言い捨てるひとよ。
とにかく、仁の野望は潰えたし、廊下の掃除も終わった。
まだ掃除する箇所は残っているが、何とかひと段落したのだった。