交換日記
夏休みだった。
まだまだ暑かったあの日、ニュースでは日中の最高気温が三十七度を超えたとか、異常気象だとか言っていたような気がする。
でも、僕は宿題が終わっていなかったし、うまく言えないけれど、何か分からない不安が僕を支配している様だったから、世の中のどんな事だって気にならなかった。
……そう。だから、僕は痴呆にでもなった様に図書館へ向かったんだ。
理由なんて物は無い。とにかく、自分が不安な答えを見つけたかった……いや、単に気を紛らわしたかっただけかもしれない。もちろん、答えは元っから無いのにね。
僕は徐に本棚と向き合った。
一冊一冊、僕は本を指でなぞってみた。ざらざらとした面、つるつるとした面、いろんな面を、僕は感じ取っていた。
そうやって、一時間、二時間ほど同じ本棚を往復していたのかもしれない。
僕はある事に気が付いた。一冊だけ題名が無いのだ。
その本を手に取り、表紙をめくった。『日記』とだけ、素朴な字で書いてあった。
次のページからは、ずっと日記が綴ってあった。
「……五月二十二日、晴れ。 人間は何で生きるのだろうと、つくづく思う。なぜ神様は、私を早く苦しみから解放してくれないのでしょうか……」
「……六月一日、曇り。 いつも心の中に不安がある。もう生きているのが嫌になった……」
なぜかその時は、奇妙だとは感じなかったのだ。むしろ、わくわくした感情の方が強かったのかもしれない。
僕はペンを取って、同じように日記を綴り始めた。
「八月三日、晴れ。 僕もあなたと同じで、心の中は不安でいっぱいです……」
……翌日、僕は再び図書館へ向かった。
図書館は病院に併設されているため、患者さんらしき人も、ちらほら見えた。
あの本棚の中のあの日記は、昨日とさほど変わらない様子で置いてあった。
僕は日記を開いた。
「……八月四日、曇り。 あなたは誰ですか?私の日記に勝手に落書きしないでください」
思わず声を上げそうになった。
この日記は継続されていた、生きていたのだ。誰か、僕が見ていない間に、この日記を読み、書いていたのだ。
「八月四日、晴れ。 僕はこの町に住む高校生です。名前は片山聡といいます。成績は校内で上位だけど、最近ちょっと勉強をさぼっています。あなたの事、もっと知りたいです」
「……八月五日、雨。 私は愛知県に住む女子中学生です。今は治療で、この静岡の病院に入院しています。名前は大月加奈子といいます。趣味は…読書かな。入院していると、運動もできないから……」
「八月六日、晴れ。 返事ありがとう。前に書いたけど、僕の心は不安と苛立ちでいっぱいです。時々、生きることをやめたくなります。最近、ずっとそうなんです……」
「……八月七日、晴れ。 今まで黙っていましたが、私の病気は白血病です。まだ無菌室に移されていないし、治療すれば良くなると先生は言います。でも、母が私の余命は一年も無いと、話しているのを聞いてしまったんです。お願いですから、片山さんは、私の分まで生きてください。お願いです……」
「八月八日、晴れ。 そうなんですか……。でも、加奈子ちゃんみたいな頑張りやさんなら、きっと白血病だって、治せると思います。大丈夫、がんばれ!」
「……八月九日、晴れ。 ありがとうございます。でも、私は片山さんが思っているほど強い人間じゃありません。治療は痛いし、痛くて涙が出ることだってあります。この苦しみから逃げ出したい、死にたいって気持ちの方が強いんです……」
僕は、ほーっとため息をついた。ミンミンゼミが、病院のケヤキにくっついて鳴いていた。
病院の広場のベンチに座って、日記の裏表紙を見た。
『平成十七年、五月〜』
えっ?今は平成十九年だ。この日記は二年前のもの?まさか……。
「八月十日、晴れ。 いきなりで驚くかもしれませんが、加奈子ちゃんの生きている世界は、平成何年ですか?この日記、平成十七年の物ですよね?ちなみに、今は平成十九年です……」
「……八月十一日、晴れ。 えっ?平成十七年じゃないんですか?片山さんと二年も差があるんですか……未来の人と会えるなんて、奇跡ってあるんですね!」
「八月十二日、雨。 そう、奇跡は必ずあります。だから、加奈子ちゃんも奇跡を信じて、必ず白血病を治してください。……そうだ、明日、君にとっては二年後の明日の午後三時、僕は病院の広場のベンチで待っています。絶対に来てください。約束です」
翌日、僕は、きっかり午後三時に、広場のベンチに座っていた。
空はどこまでも透き通っていて、美しかった。
そう、思わずこう感じてしまうほど、美しかったんだ。
時計を見た。
もう四時半だ。一時間半も経っている。
……嫌な予感がした。
僕は病院の受付を訪れた。
「すみません、大月加奈子って人、入院してますか……」
受付の人が顔を上げた。
「あぁ、その人なら……」
一瞬、記憶が飛んだような感じがした。
……大月加奈子は現代にいない。既に一年前に死んでいたのだ。
空を見上げた。変わらずに青い。
僕は、図書館の日記をそっと開いた。
ペンを握った。いや、やめようとペンを下げた。でも、もう一度握り直した。
「八月十三日、曇り。 今日、加奈子ちゃんに会いました。二年後の君は……」
ペンが止まった。頬を涙が伝った。嗚咽を押し殺そうとして、ペンを持つ手が震えた。日記に涙が落ちて、インクが滲んだ。いろんな気持ちが詰まった涙だった。
「……二年後の君は、とても元気でした。僕と同じ歳になっていました。だから、君の病気も治ります。僕を信じて、奇跡を信じて、がんばってください……」
僕が涙を拭った時、日記に文字が浮かび上がってきた。
「……私……信じてる……」
今年は僕が高校を卒業する年である。
受験も終わって、一段落付いた、という具合だ。
……そして、あれから二年経つ。
彼女と出会った時のように、図書館へ行った。
あの本棚には、もうあの日記はない。
本棚に溜まったほこりは、二年分のほこりだった。
外に出て、あの時のベンチに座った。
隣には、彼女がいるような気がした。
ケヤキには、蝉はいなかった。
でも……でも……。
でも僕は“奇跡”を信じていたんだ。
彼女に会える。
加奈子に必ず会えると……。
心のどこかに、そんな気持ちがあった。
……ふと人の気配を感じた。
太陽に包まれた春の日の午後。
白いワンピースに、白い帽子。そして、あの日記を持った少女が、そこにはいた。
「奇跡……信じてたよ…」
この小説は『過去からの日記』を元に書きました。