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第一章 純粋なステップワーク


 序章    純粋なステップワーク


 幼いころは毎日のように遊んでいた。

 学校が終わった途端に短い髪と少し背が高い一つ下の幼馴染とどこかに行き、おにごっこやかくれんぼをしたり、嫌がる『彼』をむりやりつきあわせておままごとをさせたり。

 一緒にお菓子を食べて日が暮れたら自分の家に帰って。

 帰った後はお母さんと一緒に食卓を囲んで、その日の思い出を振り返りながらベッドに入る、その繰り返しだった。

 疎遠になり始めたのは小学4年生あたりだろうか。

 明るい『彼』は次々と他の友達ができていき私は別に特別な存在ではなくなっていた。

 私もその輪の中に入れたならば何の苦労もなかったのだろう。

 生来の人付き合いに対する不器用さが幼心に恨めしいと思ったものだ。

 そんな中でも『彼』は私を普通の友達として扱ってはくれた。

 人とうまく付き合えない私にとってはそれだけでもうれしかった。

 『彼』と家族がいれば大抵のことは我慢が出来た、

 決定的な分かれ道は12歳の夏だったのだろう。

 夏休みで『彼』の家族と一緒にキャンプに行った時だった。

 昔から知っているおじさんとおばさんそして『彼』だけでいったキャンプを私は楽しみにしていて、

 事実その時は何物にも代えがたい時間を楽しめた。

 3泊4日の旅が終わり疲れて家に帰ってベッドに入ろうとドアを開けた、

 その時始まった事と『AFS』という物に私は人生を狂わされたんだ。



 一章  前向きなデイリーライフ


「アキラー! こっち終わったぞー! そっちどーだー!?」 

「おー! もうそろそろー!」

 一年生恒例のグラウンド整備はキツイ。中学生の時は一度は心変りして伸ばそうか、とか思った髪もこの重労働の時の利便性を考えて10年前から全く同じ短めの髪型を維持しているくらいだ。

 こういう面倒事は一番下の下級生の仕事だというのは全国共通のものだ。スポーツ特待生だからってやらなくていいというルールなどないのである。

 やる前は全員さんざんぱらぼやくがいざやるとなれば黙ってやった方が早い。

 練習の後の疲れた体での労働を長くやりたい人間など一人としていないんだから。

「ホント晃の体力って底なしだよなあ、バカだから体を鍛えまくったってか?」

「うるせーよ。俺、来栖 晃サマの性能は運動に特化しているのですよ。大体バカなのはお前も一緒だろ?」

「まあなー」

 10メートルほど離れている真田が軽口を投げてくる。このクソしんどい生活の中でも『見た目にこだわらねえともてねぇだろ!?』とかバカを言い毎日髪のセッティングに30分くらいの時間をかけるらしい。アホか。

「たまにゃメシ食いに行くか? 駅前の食堂。学生三割の」

「お、マジで?」

 アホな話ばかりかと思ったらまともな提案もしてきた。練習の後のメシは何にも代えがたいほどの旨さがあるものだ。

「ところでさお前知ってるか? 鋼哉先輩の話」

「鋼哉先輩の?」

「お前の幼馴染に特攻して撃沈したってさー。相当沈んでたらしいぜ―」

「……マジか?」

「マジマジ」

 幼馴染って……

「駿河先輩に? 絶対無理だろ……」

「っていうか幼馴染なのに先輩付け?」

「今はそんなに縁があるわけでもねーし。大体先輩相手になれなれしい呼び方できねーだろ」

「お前んなこと気にするタイプだっけ?」

 ああ、気にしなかったころもあったなあ……中1ん時先輩にタメ口聞いて吊るしあげられたときまでは。

「んで鋼哉先輩どんなふうに振られたん?」

「ただ一言。冷たく見下した視線で『イヤだ』」

「切ねえ!」

 まああの人が恋愛に興味があるとは思えないから自明の理っていえば自明の理か。

「鋼哉先輩は?」

「今日はボケボケだったな。何回もパス出し損ねてたし、普段はエースなのに」

「ああ、確かに人間心持ちって大事だねえ」 

 さっさと体育着から着替えワイシャツを適当に羽織り真田よりも早く走る。

 サッカー部の練習の後なのだ空腹指数はほぼ百パーセントさっさと駅前に行くに限る

 カバンを抱えて校門にダッシュして一刻も早く駅前の定食屋に……

「あ」

「ん……」

 校門を抜け二、三歩、歩いたところで間の抜けた声を出してしまう、脳裏には噂をすれば影、という言葉が浮かびあがっていた。

「ども」

「久しぶり」

「久しぶりってか、同じ学校通ってますけどね」 

「……そだね」

 件の俺の幼馴染だった。 

 駿河 昌 (するが しょう)。

 同じアキラと読める名前と生まれた時期が半年以内という共通点で親同士の仲が良く昔からよく遊んだ人だ。

 そんな仲で1歳の時からの付き合いなのだがぶっちゃけ横に並び立つとホントに同じように育ったのか疑いたくなるほど彼女は美人だ、

 髪はセミロングの癖っ毛なのだがそのはね具合がまるで計算されているかのように整った形の髪型、いつも眠そうな表情を浮かべている大きな目、あんまり大きな声では言えないがスタイルの方も相当いい。

 今は御覧の通り一つ上の学年ということと男子と女子ということで疎遠になっていたのだがあまり変わりはないらしい。

「晃、一ついい?」

「ん? なんですか?」

「なんで」

「アーーキラぁぁぁぁぁ!」

「ぐぁっつ!?」

 背後からの衝撃。この角度と衝撃からしておそらくはドロップキック。この声は真田か、チクショウなんだこの野郎!!

「テメェ何しやがる!!」

「うるせえ!! 今鋼哉先輩の話したばかりだろぉーが! そのあとに幼馴染の特権使ってイチャつきやがって!」

「アホか!? んなことしてねえよ! っつーかてめえ着替えんの遅いんだよ! あ、駿河先輩また今度!」

 そう今は一つ年上『先輩』なのだ。

 中学生時代の苦い思い出以来そこらへんだけはちゃんとしている。

 それをイチャついているなど言われるとは心外な。

「あ、テメー! 待ちやがれ!」

「あははさっさと行こうぜメシ! 腹ペコだ!」 

 そのまま俺は走り続けた。

 俺の未来への疑いなど一片も存在しない。そう信じて。



      ◇◇◇




「でさあ結局鋼哉先輩振られたけどもう一度告るつもりらしいよ?」

「ぶ、マジで!? 絶対無理だって!」

「今度は都大優勝してから告るとか言ってたぜ」

「あの人が言ったら冗談じゃなさそうだから怖ええよな……」

 今俺たちは駅前の定食屋で牛豚鶏三種混合ボリュームカツ定食を食っている。

 ボリュームたっぷりのカツが三枚ついてキャベツとご飯とみそ汁お代わり自由。

 これで値段が学割で440円というからホント貧乏学生には嬉しい店だ。しかも店の見た目はオンボロ=客が少ないため居心地もいい。

 店にとっては災難な話だろうが。

 とりあえず白米をがつがつ食っているとふと思い出したように真田がこんなことを言い始めた。

「そう言えばさ、駿河先輩と言えば聞いたか? 双子説」

「双子説ぅ?」

 何を言い出すのだろうこいつは。駿河先輩に兄弟などいない。

「うん、なんでも隣のクラスの奴がいってたんだけどさ。駿河先輩が歩いているところをすれ違って曲がり角曲がったらまた駿河先輩がいたっていう……」

「あ? なんだよそれ、ドッペルゲンガーか?」

「しらねーっつの、あの人って姉さんか妹かいねぇの?」

「いねーよ、一人っ子」

 少なくとも俺は3、4歳の時からあの人と付き合って兄弟がいるという話は一回も聞いたことがない。

「そっか……兄妹いるなら絶対『昌先輩』じゃない方にアタックしたほうが確率高いとかいってるバカがいて調べてくれって言われたんだけど」

「うわ、何その最悪意見。見た目しか見てねーじゃん」

「バカだよなー、というかあの先輩の双子なんていたら校内外で絶対知れ渡ってるっつーの」

「その真偽を確認しようとしたお前も相当だけどな」

 とりあえずそう返すと真田は『まぁな』と苦笑いをし、手を合わせた。まぁ別にそんなアホなうわさの真偽を確認するくらい別にいいけどさ。

「でさーお前テスト大丈夫なのかよ。」

 今は7月の初め。確かに普通の高校生は勉強に励んでいるころだろう、だが

「スポーツ特待生にテストのことを聞くとは無粋ですなあ! 部活で結果だしてれば 俺らはダイジョー」

「いやいや期末テストで赤点取ったら特待生だろうが普通に補習あるし、補習なんて土日にあるもんだろ。試合は土日にあるわけで部活で結果出そうにも」

 カラン、と。箸が落ちた乾いた音が響いた。

「真田さん学期末テストっていつでしたでしょうか」

「来週水曜日から三連チャン。つまりあと一週間もねえなあ」

「真田さん勉強教えてください」

「何を?」

「数学と英語と物理あと歴史」

「却下だ大馬鹿それに俺もオール3だ、教えられるほど頭良くねえ」

 チッ使えない奴め

「じゃあ誰!?」

「他にアタマいい友達は?」

「他の体育会系連中は全員バカだ」 

「お前が筆頭だろ、そういえば鋼哉先輩は?」

「あの人頭いいのかよ!?」

「なんと校内トップレベル。自信家なのは伊達じゃない」

「じゃあ先輩に……」

 そういいケータイを取ろうとし躊躇する。

「なあ、あの人に勉強教わって見返り要求される確率は?」

「百パー以上?」

「その見返りが駿河先輩の関連である可能性は」

「千パー超えるな」

 ダ メ だ。

「じゃあ他に誰!?」

「お前兄弟は?」

「いない」

「親は?」

「三流高校出のバカだ」

「「……………………」」

 はあぁぁぁぁぁぁぁぁと両方の口からため息が出る。

「どうしよう……」

「ほんとお前馬鹿だなあ」

「ちくしょ――!! なんでスポーツ特待生が成績なんて気にしなきゃなんねえんだ!!」 

「学生の本分は勉強だから」

「やかましいオール3、ともかく補習は死だ死。リアルに親に殺される、ってことで勉強してきます!!」

 残ったチキンカツとトンカツを口に放り込み白米を書き込んで鞄をひっ掴む。

 金曜日の終わりという希望に満ちあふれた午後のはずが飛んだ不安材料を抱えることになったのだ。余裕はない

「愛しの駿河先輩に教えてもらったらどうだー?」

「いつから愛しになったんだっつの! ったく金ここに置いとくぞ! 釣りの60円やるわ!」

 ともかくさっさと帰って勉強をしないと来週のテストはヤバイ。やばすぎる。

 スポーツ特待生が部活を封じられるなんてそのまま退学につながりかねない。

 ここは死んでも赤点は回避しなくては……

 自宅学習など受験勉強以来ほとんどしていないというか0なのだが何とか根性だしてやらなければ。

 

 

   ◇◇◇

 

 

 

「とか決意しても全然無理だ!」

 自宅の机に突っ伏し音をあげたのが翌日土曜日の午後5時だった。

 ほとんど使っていない自宅の学習机に教科書を広げてみても数学は全く理解できんし歴史は全く覚えられない!

「何だよ、俺スポーツ特待生なのに……三角形の面積の求め方なんて知らなくても俺の人生こまんねーよ」 

「今現在進行形で困ってるでしょー、ブツブツ言ってないでやりなさーい」

 そういいながらせんべい片手で手痛い突っ込みをしてきたショートカットの30代の女はウチの母だ。この人も根っからの体育会系で若いころは柔道の日本代表に選ばれたとか何とか聞いたことがある

 実年齢若く(36歳)それ以上に見た目若くて(見た目年齢26)第三者の視線から見ても美人であることは認めるが息子が16になっても家の中でキャミソとホットパンツ一枚でうろちょろするのはやめてくれないだろうか、いくら美人と言っても身内の、しかも親のそんな姿なんて目の毒以外の何物でもない。

 というか家庭でたばこを吸うのも遠慮してもらいたいんだが……それ以前に息子の部屋に勝手に入ってるし。

「アンタもウチの家系ねー。ウチはそういう学問苦手な人がそろってるしまあ努力するだけ無駄なんじゃない?」

「精いっぱい勉強してる息子にかける言葉がそれか? っていうか母さんは学生時代どうしてたんだよ?」

「私ー? 教授に色目使って単位もらってたっけ」

 母親がんな人間だったら俺がバカなのも納得だよなぁ! 畜生!

「っていうかアンタ、ショウちゃんいるじゃない。あの子ものすごく頭良かったし教えてもらえば?」

 ショウちゃんというのは駿河先輩の事である。

「あの人今はそんなに親しくない、ていうかなんで母さんが駿河先輩の成績知ってんの?」

「だってPTAでショウちゃんの評判すっごいもん。満点を三教科でとったとか何とか担任の先生が話してたし」

「そ……そんなに頭良かったのか先輩…………」

 確かに昔から頭は切れる方の人だと思ってたけどそこまでとは。

「てかなんで敬語なのさ、昔からショウちゃんショウちゃん呼んでたくせに」

「いやー中学生のころに痛い目見たし……」

 中学生のころに二年生の先輩に何気なくタメ口をきいて吊るし上げにあって以来そこだけはちゃんとしているのだ。

「うーん、ショウちゃんにはべつにいいんじゃ?」

「いやあの人に冷たい視線向けられるなんて俺には耐えられない、俺死ぬ自殺する」

「あんたが自殺するのは百年は先だろうよ、まともかくショウちゃんなら勉強できるんだし教えてもらいな」

「ヤだよ」

「なんでさ」

「あそこのおばさんが亡くなってから行ってないし……」

 駿河先輩の母親は他界している。父親は存命しているのだがとある理由で同居していない。優しかったおばさんの、つまりは優しかった母親のお葬式で彼女が大泣きしているのを見て以来軽々しく行ってはいけないという認識ができてしまっている。我ながら女々しい心の壁だとは思うが。

「チキンねーこれが我が息子だとは、嘆かわしい……」

「うるせ」

「ね、晃」

 いきなり母さんの声のトーンが変わった。いつものふざけた声の中に真剣な色が混ざる。

「ショウちゃんそんなこと気にしないわよ。PTAでたまに居る伯父さんの話だと友達も少ないみたいだし、きっと晃が行ったら喜ぶと思う。それに敬語もやめた方がいいわよ、あの子寂しそうだから」

「あの人が寂しそう?」

 普段はそれこそ隕石が降っても冷静さを保ちそうな鉄面皮のあの人が?

「ふふ、それは同じ女にしか分からない感覚ってやつよ。あの子とは付き合い長いからねー考えてることわかるくらいには理解してるつもりよ」

 えー、この頭ん中が直列回路の母親が、他人の感情の機微なんて繊細なものを理解できるってことにも驚きなんですが。 

「ま、いいじゃない。とりあえず電話してみるからさ。いいっていってくれたなら勉強教えてもらいな」

「え? ちょ……! ま……!」

 言葉ったらずになってしまった制止など微塵も効果はなく、我がバカ母はリビングに駆け込み携帯のボタンをプッシュ、ショートカットに設定しておいたらしい駿河先輩の家の番号(つーかなんでショートカットにしてんだ馬鹿)に2秒で繋ぎ4コール位の間をおいて、会話をし始める。

 こうなったらもう誰にも止めることは不可能だ、この家での絶対権力者は母なのだから。

「あ、ショウちゃん? 私私ー晃んとこの母親、今うちの息子がバカで困ってるからさー助けてやってくんない? うんうん、あ、やっぱり。そうだよね。ってことでよろしくね」

 オイ母さんよ、もしかしなくても無理やりに許可取ってるだろ。すいません電話の向こうの駿河先輩。

「んーわかった。じゃ、『今すぐ晃をそっちにやるわね!』」

 ん? 今なんか聞き捨てならない言葉が……

「さてと、晃、じゃあ行きましょうか。車で送ってあげるから。」

「待 て よ!? 聞いてねえよ!」

「いま決まったことだから言えるわけないでしょ? バカねえ。」

「下らない正論吐くんじゃねー!」 

「はいはいわけのわからない反論はいいからさっさと荷物まとめなさーい。ショウちゃんにも許可取っちゃったし女の子待たせるなんて男としての格が下がるわよ♪」

「絶対楽しんでるだろ母さん……」

 決まってしまったものは仕方がない……さっさと荷物をまとめた方が得策だろう……

 

 

 

       ◇◇◇

 

 

 

「……………………………」

「ども……」

 あまりにも気まずすぎる状況で一日ぶりに駿河先輩と顔を突き合わせる俺。

 ここは先輩の家であるマンション(30階建ての屋上)の玄関だ。

 一応扉は開けてくれたものの相変わらずの無表情。はっきり言って間が持たない。まあここで、家来るの久しぶりだね! 最近どう? とか昨日のやり取りを完全に無視したセリフを言われても怖いのだが。

 こんな気まずい状況を作りだしたバカ母はマンションの下で自家用車から俺を放り出した後そのまま車に乗って帰ってしまった。畜生呪ってや……

「中入らないの?」

「え……あ、すいませんおじゃまします」

 いきなり沈黙を破って口を開く駿河先輩。ぶっちゃけ口を開くこと自体が少ない人だからこれにはすごく驚いた。

 はっきり言ってこのまま沈黙が続いてそれに耐えられなくなった俺が謝ってそのままダッシュ。という風な未来を予想していた。どうやら部屋の中には入れてくれるらしい。

「すいません、母が勝手なこと言って……えっと嫌なら別に言ってくれたらいいんですよ? 帰りますんで」

 もしかしたらうちの母親のことを考えて中に入れてくれたのかもしれないと思いそんなことを言ってみる。

 先輩はうちの母親昔から知っているので俺の境遇に同情してくれたのかと思ったのだ

 頼み込めば一晩泊めてくれるような友達は何人かいるのでそっちを頼ってもいいし。

「ん……それもあるけどね。やっぱり留年はかわいそうだし」

「う……スイマセン」

 この人にまで気を使われてしまったのか…………今度からはキッチリ授業を理解する努力をしよう。

「晃、相変わらず。別に迷惑じゃないから暇なときは来たら?」

「……今日はなんかしゃべってくれますね……?」

 おかしい。いつも他の人と会話をするときは一言二言でを終わらせて後は一人という感じの人なのだが

「?」

「いや学校ではあんまりしゃべってないのに、今日は何というか話してくれるというか……ほら! 鋼哉先輩振った時も『やだ』の一言だけでしたし」

「あの人はどうでもいいから」

 鋼哉先輩、同情します。

「いやあの人一応先輩のこと好いてくれたんだからどうでもいいはひどいんじゃ、」

「ん……そうかな?」

「えっとじゃあ俺のことはどうでもよくないんですか?」

 同級生が『どうでもいい』のカテゴリに入ってるのなら昔からの知り合いである俺は一応別カテゴリということになるのだろうか。

「ん、友達」

「ありがとうございます……っていうべきなんでしょうか……?」 

 この人の人生観は分からない。

「それはそうと勉強、するんじゃないの?」

「あ、いいんですか!?」

「いいも何もそれが目的が来たんでしょ?」

 まったくもってその通りだ。まさか手伝ってくれるとは思わなかったが手伝ってくれるというならばこれ以上ありがたいことはない。

「えっとじゃあ、おねがいします。」

「じゃリビングのほうの机でやるから用意しといて、私は部屋に道具取りに行くから」

 そういいさっさと玄関の奥へと歩いていく先輩。先ほどもチラっと気にしたが一応ここは憶単位のマンションの屋上、はっきり言うと超豪邸。

 小学生のころはそんなに気にしたことはなかったが高校生になった今では割と気になる。

 リビングもその例にもれず普通のリビングの三倍はある広さだ。おそらくウチの安物の家具とは比べ物にならない値段の柔らかいビッグサイズのソファがデン! と置かれておりその向かいにあるテレビはおそらく数百万円はするであろうビッグサイズの液晶。

 しかし画面には埃が積もっている。使用されていないのだろうか。

「こんなテレビ、ウチにあったらあのバカ母リビングから離れないだろうなー」

 昔は柔道の日本代表だったかしらないが今ではただのグータラ主婦だ、放っておけばドラマにかじりつくような人間である。

「おばさん……今も元気そうだね」

「あっ……とすいません。勉強見てくれるってのに用意もしないで」

 お宅拝見などしている場合ではない。先輩の家に送られるということでいっぱいいっぱいで当の問題、補習の危機のことをすっかり忘れていた。

「えっとじゃあお願いします」

「ん…………で何を教えてほしいの?」

「英語と物理と数学と歴史です」

 その言葉を聞いた時わずかに彼女の唇の端が振動したような気がした。


 

        ◇◇◇

 

 

 2時間が経過し始めたところで知恵熱が出てき始めた。

 そもそも俺はスポーツ特待生=筆記試験の結果はほとんど考慮されず入学してきたため勉強なんて書き取りぐらいしかやったことがない。

 数学の二次方程式だの物理の運動法則なんてほぼ暗号状態だ。なので暗記で何とかなる歴史と英語の単語を重点的にやっているのだが……

「はい、じゃこのページの単語やってみて」

「えっと…………」

 とりあえず覚えている単語を書いてみる……が

「半分……くらいか……」

 なんというかいつも先輩の口調にあるはずの間延びした感じが絶望した感じに聞こえるのはおそらく聞き間違いではないのだろう。

「すいません俺バカなんです……」

 覚えるべき範囲の単語は60個前後なのだが俺の場合英語をやるにあたって『当たり前』の単語がすでにわからないので最低限の単語を教えてもらっていてもほとんど理解ができないのだ

「……普段勉強してないからこうなる。スポーツ特待生でも勉強しなくていいってわけじゃない」

「勉強している人に言われると何の反論もしようがありません……」

 オール3の真田にならまだ反論できたのだが……

「しょうがない……一つずつ単語覚えていくしかない……私が単語言うからその単語を教科書見て覚えていって、同じ単語も何度も繰り返し言うから覚えたなら言って」

「へ?」

 そういいながら駿河先輩は自分の物理の教科書を開いて

「C・O・M・F・O・R・T・A・B・L・E  comfortable」

一つ一つ綴りを言ってもらいながら、最後に発音、

「え……あ、快適……?」

 駿河先輩自身は物理の教科書を開きながら英語の単語を口にしてることに違和感を感じながらもすぐに教科書を開いて答えが載っているページを見、答えを口にする。

「やっぱり発音しながら覚えた方が効率がいいからねP・O・L・I・C・E・O……」

「えっと……あの先輩……」

「なに?」

「一年前の単語全部覚えてるんですか?」 

「違う。今覚えた」

 なんというか頭のレベルの違いに泣きたくなった。何が悲しいって3分くらいしか教科書を見ていないのに60数個の単語を完璧に覚えている先輩との頭のスペックの違いにだ。

「本当先輩頭いいですね……」

「中学校の時は勉強ばっかりしてたし」

 そんなレベルではないと思うが。

「そういえば部活とかもしてませんでしたよね」

 その間ずっと勉強をしてたんだろうか?

「ん……やっぱり父との関わり早く断ちたいからバイトしてる」

「あ……そう……なんですか……」 

 なるほど……それがあった。彼女にとってそれ以上自立を望む要因はないだろう。

 駿河先輩の父は相当の金持ちらしいのだが、関係は上手くいっていない。

 理由は単純。彼女がその父親の『妻の子供ではない』からだ。彼女の母はその父の愛人だったらしい。

 母親は彼女が12歳の時に他界したためその父親と暮らしていてもいいはずなのだが彼女が一人暮らしなところを見るとそれはしていないし今後もしないらしい。

 そのあたりの先輩の本音は先輩にしか分からないのだろうが良く思っていないのは間違いない。

 早く自立して父親との関係を断ちたいというのは自然な気持ちだろう、しかし……

「すいません……」

 そんなデリケートなところを言わせてしまった……となるとやはり少し気まずくなる。

「別にいいよ、隠すことじゃないし、それに」

「?」

 その言葉とともに少し先輩は間をおく、それに?

「さっきも言ったよ? 晃のことは友達だと思ってるって」

 そして少し、ほんの少しだけ、いつもは絶対見せない『笑顔』を見せた。

「じゃ、今日はもうちょっとだけやって終わりにしようか」

 別に笑った顔を見たのは初めてじゃない。小学生の時には何度も何度も見たし、中学校になってからも数えるほどだが見ていないわけではない。

 だけど、

「あ、はい…………」

 だけど今の笑顔は昔見たものとは少し違うな。と思った。



  ○○○

  

 

 久しぶりに心から笑えたと思った。家でも、学校でも、他の場所でも。ここ最近笑った覚えなんて全然なかった。

 理由はわかりすぎるほどわかっている。『寂しい』からだ。

 ほとんどの人が苦も無く創っていく人同士のつながりを作ることが私にとっては藁の山の中から針を見つけることより難しい。

 なぜ難しいのかがわからない。わからない事には答えも出せない。私にできるのはすでにあるつながりを頼ることだけだ。

 昔お母さんが死んで、自暴自棄になった時にも切れなかった、晃とのつながりに。

 そこまで頼っている唯一の友達だからこそ、心苦しさを感じる。 

 

 秘密があることを。後ろ暗く感じる。



  ○○○

 

 

 

「結局赤点回避の目途立たないから勉強見てくれ!!」

 それが駿河先輩に勉強を教わった翌日の朝に俺が携帯を通じて真田に対してはなった第一声だった。

 ぶっちゃけ昨日駿河先輩が勉強を見てくれたのは非常に助かったのだが、連日で頼む度胸など俺にはないし、他の奴らは俺に毛が生えた程度のバカ揃いなので頼む意味がない。

 必然的に真田に頼む運びになったのだが……

「悪い、俺今隣町で親父の造園業手伝ってる」

 ということで結局一人で、自分の家でやることになってしまった、もちろんそんな状態で長続きするわけもなく、

「……何もかも忘れて思いっきり体動かして―」

「ほらほら、んなこと言ってないでさっさとやらないと赤点、補習、退学コースなんだろ? もしそうなったらぶっ殺すぞコラ」

 かなりドスの利いた声でシャレにならない事を母さんがぼそっと言う、怖い。

「い、嫌だなあ母さんそうならないために勉強してんだろ?」

「……本当にそうならないのか?」

「………………」

「今日もショウちゃんに頼むか……」

「! 母さん! いやお母様!! 待ってください! 昨日の今日でまた先輩と勉強するってのは」

「嫌なの?」

「嫌じゃないですけど!!」

 週末連日で駿河先輩の家で勉強してましたなんてことが鋼哉先輩にバレたら俺は殺されてしまう! しかしそんな俺の思いもつゆ知らず我がバカ母は駿河先輩の家への電話番号をプッシュし……

「あれ留守電だ」

 助かったー!

「留守電じゃ仕方ないよね! という訳で俺は部屋にこもって勉強の続きを……」

「…………ょし強硬手段に移すか……」

 何やらぶつぶつ言っているが気にしない! 俺の部活での明るい未来が守れるなら多少の勉強での気苦労などどーとでも……

「アーキラぁ」

「はい! なんでしょうか!?」

 何やらいきなり悪意のこもった声でこちらを呼ぶわが母。

「そろそろお昼の時間だよねぇ、今あんまり冷蔵庫の中に食べる物ないから何か買ってきてくれない?」

「い、いや俺勉強があるし……」

「買 っ て き て く れ な い?」

 ダメだ。有無を言わせず買いに行かせるつもりか、畜生息子の気苦労も知らないで……

「わ……わかりました」

「じゃマルハチスーパーのシャケ弁当ね」

 チッあんな遠いところまで……そんなにピンポイントでそこの弁当が好きなのか?

 

  ◇◇◇

 

 マルハチスーパーに到着し弁当コーナーについたとき俺は自分の見通しの甘さを思い知った。

 レジ打ちをしている人物を見たときに母親の思惑が全てわかったのだ、

「あ、晃」

「……昨日はありがとうございました……駿河先輩」

 今日は別として大抵日用品や食料の買い出しは母さんが行っている、その上おそらくはご近所のおばさんがたで構成されるオバサン・ネットワークによって近所の大概の情報は把握しているのだろう、

 つまり週末のこの時間に駿河先輩がレジ打ちのバイトをしていることも御存じで、俺をわざわざ引き合わせるために弁当をパシらせた訳だ。

 確かにこの場合わざわざ他のレジに行くというのは嫌味すぎる、昨日の御礼を一言でも言っていくのが筋というものだろう、

 それに俺個人としては別に駿河先輩のことが嫌いという訳ではないのだ。

 俺がこの人との接触をできるだけ避けたいのは『あの人』がいるからで……

「こんにちわー駿河さーん! 今日も買い物来ちゃいましたー!」

 そうそうこういう陽気な声出して実際は自分のことしか考えてないスパルタ先輩が怖いからで……

 首が千切れるほどの勢いで振り返った。そこに居たのはある意味予想通りの人物だ。

「お、晃じゃん。こんなところで何してるんだ? 昼飯の買い出し?」

「は……はい……そうです……」

「んだよ―何目ぇ泳がせてんだよー」

 あははとフランクに笑いながらこちらに歩み寄ってくるのは我が部活のエース、鋼哉重春先輩だ。 

 ヘアピンでとめてオールバックにした髪型にメガネ(もっともこれは伊達メガネとの噂もあるのだがふらふらと動きまわる人のため真偽は定かではない)そして少し鋭いツリ眼だが人好きのする笑みを浮かべた顔、

 黙っていれば優男とかモテそうな人で通るのだがぶっちゃけ口を開けば馬鹿話という人なので、いい人ではあると思うのだがはっきり言って、あまり尊敬はされていない。

 そしてこの場に居合わせた、というより確実に鋼哉先輩は狙ってきたのだろうが、駿河先輩に告白してものの見事に振られた人でもある。

 一度フィールドに出ればウチのチーム最強のディフェンダーなのだが……

「まあそれはいいとして……駿河さーん今日も来ちゃいました―!」

「ん…………」

「先輩……口説くのは別にとめませんけどバイト先まで行くのはどうかと思いますよ」

 チラッと駿河先輩を見ると案の定、ミリ単位で眉が寄せられていた、そのままススス……と目を出口の方へ向けて首をほんの少し前に傾けた、

 ……これはアレか? 鋼哉先輩を連れてどっかいってくれってことか? まあこんな騒がしい人がいたらバイトが三倍疲れるのはわかりますけどこの超メンドクサイ人を気を使いながらこの店から引き離すって……

 ……このまま無視して駿河先輩に恨まれるか、鋼哉先輩を連れ出して末期状態の酔っぱらいを相手にするよりメンドクサイやり取りを繰り広げるか……究極の二択だ……

……三秒ほど逡巡した後、俺は答えを出した、どちらにしろ面倒くさいなら、あとくされがない方がいい、

「先輩……行きましょうバイトの邪魔になります……」

「えーまだ何もしてねえっつーのー」

「何かしたらあっちが困るんですよ、ほらほら駿河先輩にこれ以上嫌われたら困るでしょー」

「嫌われてねーよー」

 ええ嫌われてませんよ、どうでもいいって思われてます。

 とりあえず酔っぱらいを相手にする感じで相槌を打ちながら袖を引っ張って店の外に連れ出す、今は7月の前半なので湿気と暑さが少し気になるがジュースの一本でもおごっておけば文句も出ないだろう。

「ていうかなんで晃がここに居るんだよー、せっかく駿河がここでバイトしてるって情報掴んできたのに……」

「いやバイト先までストーキングするのはやめましょうよ、なんか飲み物でもおごりますから」

「じゃあアイスコーヒー、無糖の」

 とりあえずスーパーの外の自販機で二四○円払い無糖のブラックとカフェオレの缶ドリンクを買う

 っていうかスーパーの中で買えば半額で済むのに……無駄な浪費だよ……

「それでなんでお前ここに居んの? お前の家ここら辺? っつーか駿河お前のこと知ってるっぽかったしなんで?」

「とりあえずここに来たのは昼飯の買い出しです、家はここら辺じゃないですけどバカ母の注文でここのシャケ弁買いに来ました、あと駿河先輩とは一応知り合いです」

 自販機から二つの缶を取り出し、一つを鋼哉先輩に投げる、結構ぞんざいに放ったがこちらをろくに見もせずに受け取る、頭が残念な分身体のスペックはそれなりに……

「オイ、テメエなんか失礼なこと考えてるだろ」

「!? いやんなわけないじゃないっすか!」

 勘も鋭い。ちょっと怖いので逃げ気味に自販機の隣のベンチに腰掛ける、

「で、なんで駿河とお前知り合いなの? もしかして幼馴染とか?」

 隣に座りながら表面上はニコニコしながら聞いてくる。超能力者かあんたは!

「えーーっと……いや前にその―あの……」

 畜生!動揺してるせいかいつものように言葉が出ない!

「……あのさあ……俺に隠し事なんてしてみ? お前をレギュラー候補から永久除名することなんて簡単な……」

「12年前からの知り合いです、ハイ」

 あんた鬼か!

「ほっほーう、つまり駿河のことなら何でも知ってるわけか……」

「ハイ、昨日鋼哉先輩に対する感想ぐらいなら聞き」

「な ん て!?」

「どうでもいいとのことです」

 とりあえず言葉の刃で一刀両断してみる。これで少しは静かになるだろう、案の定見えないハンマーに思いっきりブッ飛ばされたように横倒しになりベンチからずり落ち地べたに倒れた。チッせっかく奢ってやったコーヒー落としやがって。

 このハイテンションをどうにかしないとまともな会話はできそうになかったので事実を言ってみたのだが流石にちょっとかわいそうだったか、なんか一気にハイテンションの極みからローテンションの極みにまで落ちちゃったし……

「なあ晃……俺どうしたらいいんだろ……」

 地べたに寝転びながら聞いてくる。こんな性格なのによくハブられもせずに今までやってこれたなぁ……

「とりあえず起きたらどうですか? 駿河先輩にこんな姿見られたら、多分どうでもいい以上に嫌われますよ。」

「立たせて?カッコはぁと」

 先輩じゃなかったらぶん殴ってるよコノヤロウ!

「ほら……」

 そうは思いながらもとりあえず手を伸ばして立たせる、重いよこの人、

「はあ……とりあえずすまん。変なテンションに付き合わせて」

「自覚あるなら何とかしてくださいよ」

「いや、なんていうか……(さが)?」

 とりあえずまともに会話のできるテンションになっていたのでとりあえずほっとした。普段の状態ならさっきの異常なテンションよりはマシだろう。

「でさあ、ホントどういう関係なんだよ。駿河と」

「さっきも言ったでしょ、ただの幼馴染ですよ」

「でもさ、あの人本当とっつきにくいし、知り合いって認定されてるだけでもすげーよ。」

 そういえば俺もあまり駿河先輩の周辺のことは知らない。

「あの人、学校ではどうなんですか? 同学年じゃないから噂とかもあんまり聞かないんですけど、」

「今言った通りだよ。人嫌いの唯我独尊って感じの人。普段ひっとこともしゃべらないし、休み時間もなんか難しそうな本ばっか呼んでるし、テストじゃ学年一位だし、やっぱ近づきがたい人って感じだな」

 そこまでは想像通りだ、しかし、

「なんで先輩はその近づきがたい人に告白なんてしようとしたんすか?」

「ああ、初めはあまりにも『勝てない』からさ……ちょっと宣戦布告したんだ」

「宣戦布告? 何をですか?」

「期末テストの成績」

 ? ? ?

「えっと今の言葉からすると鋼哉先輩が駿河先輩と同じくらい勉強ができるって聞こえるんですけど……」

「そういってんだよ」

 えー、頭いいとは聞いてたけどこの頭ん中がお花畑の先輩がそんなに勉強できんですか、てか部活でもエースですよね。

「すごいですね……鋼哉先輩」

「ふっ、あらゆることにおいてトップに立つってのが俺のポリシーだからな」

 スペック的にこんなに凄いのに尊敬できないのはなぜなんだろうか。

「そいで結局宣戦布告して、五教科の総合点数で競うって俺が言ってまあ……無視されたんだけど……それでその時の俺の点数が、五○○点満点中四八七点」

 なんで頭の性能ってこんなに個人差があるんだろう。て言うか進学校であるウチのテストでそんな点数可能なのか?

「で、その時の駿河の点数が四九八点」

 なんかもう嫌になる。

「それで宣戦布告までしたのに負けちゃったわけで、男としてプライド傷つくじゃん。それでリベンジしようとして結果発表の翌日またリベンジの宣戦布告しに行ったんだけど……」

「何というかそのへこたれない姿勢は見習いたいと思います。」

「その時ほんーーの少し、だけさ」

「?」

「……何でもね」

 その鋼哉先輩の言葉を聞いた時、昨日の駿河先輩のほんのわずかな笑顔を思い出した。

 多分苦笑でもした時、その顔をチラッと見たのだろう。

「んで三日後くらいに告白したんだけど」

「ヤダ、で一刀両断されたんですよね」

「何故知ってる!?」

「いや部活の中ではとっくに噂になってますよ」

「誰が噂流したんだ!!」

 多分噂好きの真田が直接の情報発信源だろうな。

「まあそれ以来ずっと好きなんだけどさ」

 そしてこちらを向きニヤリと、俺にとっては寒気のする笑みを浮かべる、

「まさかこんな近くにりよ……協力者がいるとは思わなかったよ」

 このアホ俺を利用するつもりだー!

「あ、あの……俺に鋼哉先輩と駿河先輩の間の橋渡しをしろと?」

「よーく分かってんじゃん♪」

「無理です……! あの人と誰かを付き合わせるなんて世界征服しろって言われた方がまだ簡単です!」

 そこまで言うかとか人に言われそうだがハッキリ言わせてもらおう。言う。

「じゃあさ、もう何かをしろとは言わないから駿河の住所と電話番号とスリーサイズだけ……」

「さあ今すぐ駿河先輩にそのことをチクりましょうか」

「んなことしたらコンクリ詰めにして沈めるぞこの野郎!」

 自業自得でしょう……

「ともかく俺はそういうことには協力できません!」

「チッ使えねえ」

 使ってもらわなくて結構。

「ともかく! 俺はメシ買いたいんでこれで失礼します! あと駿河先輩がバイト先にまで来んなって言ってましたよ」

 嘘だがそう言い残しスーパーの中へと入る。ぐおぉぉ心の刃がっ! とか言っているが気にしない。この人にまともに付き合っていたら時間が一日あっても足りない。

「ったく……あの人は……」

 とりあえず愚痴る。まだ飯を買っていないのだ。このまま帰ったのでは母親に巴投げをかまされる。

 母親の希望であるシャケ弁と自分のから揚げ弁当、あとはポテトサラダと、切れてた牛乳でも買っておけばいいだろう、

 目当てのものを手早く買い物かごの中に入れ、レジへと向かう。とそういえばレジには、

「とりあえず、ストーキングをしないようにだけは言っときましたよ」

「ん……ありがと、」

 とりあえず結果報告。まあ仕事中にああいう迷惑な客が来るのは店員の立場からしても嫌なんだろうが知り合いだからといってその処理を頼むのはやめてほしい。

「でも先輩ここでバイトなんてしてたんですね」

「ん、貯金中だし」

 そういいながら少し目をそらす先輩。おそらくは家を出る関係の資金だろうか。

 財布の中から一○○○円札と五○○円玉を取り出し、レジの隣にある金を置くトレイに乗せる。

「そういえば勉強の方どう?」

「ああ……聞かないでください……」

 言うまでもなく進んでない。

「ダメなんだ。」

「はっきり言わないでください……状況に絶望しそうですから……」

「……私、あと二○分くらいで、バイト上がりだけど、みてあげようか?」

「え? でも連日って迷惑じゃ」

 それに鋼哉先輩にンなところ見られたら嫉妬でどんな行動に出るか……

「別に迷惑じゃない。 久しぶりにおばさんにも会いたいし」

 ……確かに駿河先輩の申し出はありがたい、ありがたいのだが、

「………………いえ、今回はいいっす」

 流石に鋼哉先輩と会った後で、頼む気にはなれない。態度はともかく根底の部分では恐らく、多分、思うに鋼哉先輩は駿河先輩のことが好きだったのでそれは鋼哉先輩としても気分は良くないだろう、

 九割九分九厘無理だとわかっていてもやはり気は使うべきだ

「でも困ってるんじゃないの……?」

「いや……流石に鋼哉先輩が好きだっていってるのに先輩と一緒にいたら俺白い目で見られちゃいますよ」

 はは、と少し愛想笑いをしながらお釣りを受け取りそのまま店の出口へと向かっていく、

 早くしないと、飢えた母親に柔道の技をかけられてしまう。

 そういいポリ袋に入れられた弁当を持って帰ろうと駿河先輩に背を向け出口へ向かっていく。

 その後ろで。


 その後ろで駿河先輩が両手を強く握ったのに、その時は気づかなかった。

 

 

  ◇◇◇

 

 

「死にてぇー……」

「うーんていうかお前のおばさんに殺されそうだよなぁ、」

 そんな会話を真田とかわしたのは週末の開けた月曜日の部活の終わった時だ、ぶっちゃけた話昨日自分ひとりでの勉強ではかどるわけもなく、(一人で帰った時、なんでショウちゃん一緒じゃねえんだ! と母に投げられた)確実に赤点を取るということを再確認しただけに終わった。

 アレだ。難関校の問題集をみて歯が立たない事を再確認した感覚に似ている。

「ふふ……こうなったら母親見習って、教師締め上げて点数上げさせるぐらいしか手が……」

「母親見習ってって、お前んとこの母親はんな物騒なことしてたのかよ……」

「いやなんか色仕掛けで教授を落としてたらしいよ、いろんな意味で」

 少しは気が楽になるかなーと思いぶっちゃけてみるが……

「……それは……」

 目をそらされた、ああ一層重苦しい空気になったなあ。そりゃ親がそんなヤツだったなんて俺だって知りたくなかったよ!

「……まあそれはともかく、もう最後の手として鋼哉先輩に頼んだらどうだ?」

「いや、ダメだ。それをしたらおそらく補習以上の地獄が待っている」

 昨日の反応からしてトラウマ級のしつこさで自分と駿河先輩との間を取り持てといってくるだろう、

「お前も大変だなーまあこれに懲りて勉強の習慣を付けるんだな」

「その前にスパイ技術を身につけてやる」

 勉強を毎日するぐらいならテスト問題をスニーキングミッションで盗みだす方が簡単だ。

「お前も相当だなあ……じゃどうする気だよ……」

「……勉強教えて?」

「頑張って忍者になれよー」

 そういいながら先に走っていく、というより部活終わりの疲労困憊の時に走るってそんなに俺に勉強教えるのが嫌なのかこの野郎。

 とはいってももう俺の家の近くなので話せたとしても秒単位だったのだが。

 オヤジが二○年ローンで買ったという一戸建てのドアのカギを開け扉を開き玄関に鞄を放る。

 とりあえず明日授業がないため持って帰ってきた数学の教科書を取り出して予習をしようとしたのだが、

「いけね……教科書全部学校に置いてきちまった……」

 仕方がない今日は勉強しなくてもいっか、となるだろう、普段の俺ならば。

 しかし今の俺は崖っぷち、色々な意味で――主にサボっている状況に対する母親の鬼の制裁から――危機回避するべく勉強をしなければならない、

「……取りに行くか……」

 部活での疲労は溜まっていたが、身の危険には変えられない。とりあえず鞄だけ家において学校へと通学路を取って返すことにする。

「はぁ、メンドクセ……」

 自転車の後部鍵にキーを差し込み、押していく、いつもは徒歩通学だが、別に自転車通学が校則違反という訳ではない。事実遅刻寸前の時は俺も自転車登校をするくらいだ。

 俺の通っている高校、住岡私立高等学校は建校十年の比較的新しい学校だ。建校十年の割に各部活での大会入選入賞、有名大学への入学者などを多数出しており、入試もそれに伴って競争率が激しい。

 俺がそんな高校に受かれたのも中学時代サッカーの全国大会でベスト8まで残れたおかげだ、入試で入れる学校が見つからない時進路担当の教師がスポーツ推薦枠があるといい一度あきらめたこの学校を推してくれたのだ

「っと、んな事考えてるうちに到着……っと」

 普通の高校より二割増しで大きいと思う校門を通り、生徒用の自転車置き場に自転車を置き、気だるい気分をかみつぶしながら4階にある1―4の教室へと向かう。 下駄箱で靴を履き替え階段を上り、途中の廊下を渡り一年四組の教室で自分の机から各種教科書を取り出す、

「さってとそれじゃ帰ります…………?」

 廊下でふと立ち止まって見えた光景に俺は違和感を感じた。

 俺が見ていたのは4階の廊下から見えるH字型の校舎の向かい側の3階にいる人間のことだ。

「駿河先輩?」

 校舎の3階は基本的に二年生の教室と音楽室、図書室がある。俺が見ているのは二年四組の教室なのだがそこは駿河先輩の教室ではないのだ、注目した理由はもう一つ、

「……と誰だ……?」

 そこにはもう一人女子がいた、面識はないが一年の人間はほぼ顔を見たことがあるのでおそらくは二,三年だろう、

 髪は微妙に茶髪が入っているロング、斜め後ろから見ているため顔は完全には見えないがどうも温厚とは程遠い感じの人だ。

 何やら声が聞こえてくるあたりあの知らない先輩、相当大声で駿河先輩に何かを言っているらしい

 もっとも駿河先輩のほうはロクに相手をしていない、いや無視してどこかに行かない分珍しいと評するべきだろうか。

「ま、駿河先輩だって一人も友達いないってわけじゃないだろうし……」

 その友達と口喧嘩になったりもするだろう、もっともあんな騒がしそうな女子と先輩が友達になるとも考えにくいが……

「ま、俺が考えることでもないか……」

 そう思い、疲れている故に早く帰りたいという思考で階段を軽快に降り、自転車置き場へと向かった。 


 ◇◇◇



 今俺は自分の机に手に持っているオレンジジュースをぶちまけ、そこだけ切り取ったら「お前……何してんの?」と若干引かれながら言われるような格好になっていた。

 まあそれはいい、良くはないが今は置いておこう。目下の問題は少々汚れてしまった机よりも目の前の状況もっと言えば目の前の人物だ。

「えっっっと……駿河先輩……俺今耳がちょっと遠くなってたみたいで……もっかいお願いします」

 そう今目の前にいるのは駿河先輩だ、どうやら俺に用があるらしく週末明けの月曜日の昼休みに何の遠慮もなく一学年下のこのクラスの俺の席にまで来たというわけなのだが問題はそのあとだ、

「晃付き合って」

 ……とりあえず無難に返しておこう。

「えっと……どこまで?」

 うん我ながら冷静な判断だ。この人に限ってツキアウ=男女の付き合いなどという方程式が脳の中に刷り込まれている訳がないではないか。

 周りがガクッとツッコミを入れたいという空気になっているが気にするな、どーせ買い物の荷物持ちとか何らかの面倒事に付き合うって話に決まって……

「どこまでじゃなくて私と」

 とりあえず脳の容量の3割ほどがフリーズした、とりあえず残りの七割で再思考行ってみよう。

 どこまでじゃなくて私と? ワタシトツキアウ? 何それ、そんな固有名詞日本の言語体系にあったのか? 

 いやいや現実逃避してる場合じゃなくて、

 っとそこまで思考したとたん今まで水を打ったように静まり返っていたギャラリーがざわつき始める。

『この学校一の美人が後輩に告白!?』

『っつーかーあの男子駿河先輩と幼馴染とかって噂されてるんですけど』

『タナボタってワケ?』

『っつーか牡丹餅どころじゃねーよ金塊レベルじゃねーか! 畜生!! ちょっとスポーツできるからって……』

『っていうかあの先輩前鋼哉先輩に告白されてたとか言われてたんじゃね?』

『げ、じゃあナニ? あの人好きな人いたから鋼哉先輩の事フッたってことかよ!』

 ヤバイこのままじゃあギャラリーの波がこの学校一のトラブルメーカー(鋼哉先輩)にまで広がるまで十分とかからない! 

 恐らく五割以上の確率でその見立ては正しいだろう、

「駿河先輩……ちょっとこっち来て下さい……」

「…………?」

 とりあえずマネキンを運び出すようなノリで教室から先輩を連れ出すのだが……あからさまに好奇心旺盛な奴らが金魚のフンみたいにくっついてくる。

 いやあからさまには付いてきてはいないつもりなのだろうがそんなのが十数人もいれば嫌でも気づくだろう。

 いっそのこと走って逃げてしまいたいのだがそれをすると目立つ=『あの人』に見つかる確率が高くなる。

 明日には確実にバレることなのだろうが一分一秒でもあの人の耳に入るのは遅らせたい。

 となると……

「先輩、とりあえず人目に付かないとこ行きましょう、その方が俺にとっても先輩にとっても多分いいことなんで、ってことで自主早退しましょう」

 早い話が学校フケようということである。

「え…………」

「超高速で教室戻って鞄持ってきますんで先輩も自分の教室言って鞄持って校門の方行って下さい」

「晃……私……」

「じゃ、そゆことで」

 そう言い俺は猛ダッシュで教室にとって返す。

「私……皆勤賞狙ってたのに……」

 

 

  ◇◇◇

  

 

「で、一体どういうつもりなんですか駿河先輩」

「ん……言葉どおりの意味なんだけど……」 

 今は制服のまま駅前にあるファミレスに入ったところだ。

 理由はもちろん一緒にいる駿河先輩にさっきの言葉の真意を問いただすためである。

「言葉どおりの意味って! じゃあ駿河先輩は俺と一緒に登下校したり飯食ったり遊んだりしたいっていうことですか!?」

「ん……ん~」

 そこで悩むのかよ、と内心ガクッとくる。いやまあ、うんそうだよ♪ とか言われても反応に困るのだが。

「でも最近疎遠だったし、一緒にいたいってのは本当」

「は、はぁ……」

 無表情で分かりにくいがとりあえず好意を持っているか否かという問いでは前者らしい。しかしそれははたして恋愛感情なのか?

「あの、えーっとつまり駿河先輩は俺に彼氏になれって言ってるんですか?」

「ん、そういうこと」

 本心を言うと俺は誰が相手だろうとこの人が男女交際なんてものに興じるなんてことは一切考えられない。

 なぜかと問われれば答えるのには窮するが、俺の知っているこの人の精神構造的になんというか……好きだとか、特定の誰かの傍にいたいとか思う人ではないのだ。

 ただ一人その対象になりそうな彼女の肉親、母親が亡くなった直後のとある事件から俺はそう思っていた。

 とはいえ、別に俺もそこまで恋愛に対する意識が高いというわけではない。

 そもそも彼氏彼女以前にそういう話題をちらりとでも話そうものなら好奇心旺盛な馬鹿ども(サッカー部のメンバー)に根掘り葉掘り聞かれ付きまとわれた揚句からかわれるだけだからだ。

 ちなみに鋼哉先輩のアレだけは例外だ。なんというかアケスケすぎてもはやからかう気すら失せる。

 とそこまで思考を進めた時に考えないようにしていた問題が浮かんできた、例のあの人だ、

「そ、そういえば…………」

 仮に俺が駿河先輩と恋人関係を結ぶとしてそのあとの俺の部活内の立場はどうなるのだろう、

 まず確定事項として今の時点ですでに『今まで通り』という立場は考えられない。

 部活内ピラミッドの上層に位置する鋼哉先輩の片思いの相手をとったって事は最悪今後永続的に陰湿な空気の中で部活を行わなくてはならないという可能性もある。

 となれば後は開き直る手だが、ちょっとシミュレーションしてみよう。


『というわけで俺たち付き合うことになりましたー』


『『『『『(コロス)』』』』』


 一秒で轢殺されるだろう。撲殺でも刺殺でもなく轢き殺される。すごいな文章に直すと二行で説明出来ちまったよ。

「ああダメだ……どう考えても殺される未来しか想像できない……」

 より正確には部活の連中に、もっと詳細にいえば鋼哉先輩に扇動された部活の男連中全員に。

「殺される……?」

「いや、こっちの話です。とりあえず、その話保留ってことでお願いできませんか?」

「え……?」

 とりあえず付き合うにしろ断るにしろ色々とそれ以前の問題がある、主に周りの目とか鋼哉先輩とか鋼哉先輩とか鋼哉先輩とか、

 返事をするにしてもそれからじゃないとダメだろう。

「えっと……いいっすか?」

 その問いに先輩は口に手を当て考え込むような仕草をする、やはりこれは男としてはNG的な返しだったのだろうか……?

「ん……いいよ。でも五日以内にはこたえてほしい、かな」

 いや、あの、頬を染めたりしないで、マジで周囲からの嫉妬している野郎どもの視線が痛いんで……

「善処します……それと、鋼哉先輩へはどういえば?」

「? あの人のことはどうでもいいし」

 重ね重ね同情します、鋼哉先輩。

「じゃ、私はもう帰るね、学校に」

「ええ、そうですねもう帰……って学校に!?」

「私皆勤賞ねらってる」

その言葉とともにガッツポーズをする先輩、どうやら本気らしい。

 重ね重ね、底の知れない人だと思った。

 

 

  ○○○

 

 

 心の底からほっとした。

 周りからは何を考えてるか分からないとか、表情がない奴とか言われているが、そんなわけがない。好きな男の子に告白するときに緊張しない女性がいるはずがないのだ。

 それにこれで、あの人も私にちょっかいをかけたりしなくなるだろう。

 晃と私が付き合っているというのならもう私に何かをする必要性はなくなるはずだ。それに付き合いたいといったのはただ晃と一緒にいたいからという理由だけではない。

晃が傍にいれば『秘密』ももう隠さなくていい、いや、『隠しているもの』自体がいずれなくなるだろう

「上手くいけばいいな」

 つい口をついてそんな言葉が出る。足取りが自然と軽くなる。心が上を向く。こんな気分になったのは多分年単位で久しぶりだ。

 この四年間、いい思い出なんてほとんどなかった。中学生一年の時の『あの出来事』があってから血縁もいない私に誰にも相談できない秘密ができた。

 学校に私の『同類』もいるらしいが、『私と似ている』ような人間と友達になれる自信はなかったし、そもそも自分自身あまり人間が好きではなかった。(唯一人を除いて。だが)

 しかしこれで忌々しい『秘密』と決別できる。いや、してみせる。学校指定の鞄をぶんぶん回しそれを勢いのまま前に投げ、六メートルほど飛んでいく。

「もうこんな事できなくなるようになる」

 そしてその六メートル先の鞄を『手で取り、自分に投げ返す』

身に付いた異常の証。ただの人では絶対にできない物理的異常。欲しくもないこんな力をようやく、ようやく捨てられる。普通になれる。

 その期待に、心が軽くなった。

 

 

  ○○○

    

 

「こ……殺されるかと思った……」

 昨日は大変だった。先輩が帰ってしまった後、勘定をすませ、(律儀に先輩は自分の分はお金を置いていた)そのあと学校に戻るわけにもいかずさりとて家に帰るわけにもいかずとりあえず話をしていたファミレスで教科書を開きながら予習をしていたのだが、当然のことながらまったくと言っていいほど進まなかった。だがそれはいい、問題はそのあとだ。

 帰宅した時、般若のような我が母親に迎えられたのだ。どうやら学校からの連絡で俺が学校をフケたということがバレたらしい。

 そのあとはかつて全国大会を制覇し日本代表になったという柔道のサブミッション(寝技)をかけられ、関節がおかしなことになるまで説教……? された。

 そのおかげでいまだに身体中の骨がたまにゴキッだのグキッだの変な音を立てている。

「っテェ、もうヤダ……学校に行っても地獄だしよ……」

 今は朝。ツライ体に鞭打って登校中。つまりあの変人の元へと一歩一歩前進中、うっ、そう認識しただけで余計に足が重くな……

『こちら第一チーム、ターゲットを発見。これより尾行へ入ります』

 うん、何か変な声が後ろから聞こえたが無視だ無視。っつーかこの声、真田だよな。何やってんだお前。

『はい、見つけました。ええ、コードSの姿はありません。これより捕獲に入ります』

 なんか不穏な声が聞こえたが無視続行、ただし走る。全速力で。すると

「待てコラァ!  晃ァ!」

 やたらハイなテンションで背後から追いかけてくるバカが複数名。っつーか二年生も何人かいる。あんたらそんなに暇なのか……?

「晃!! 悪い大人しく捕まってくれ! そうじゃないとあのアホ俺らの人にはさらせないアレなデータをネットに流すとか言いやがった!」

 先輩の一人が口走る、しかしこちらとて命がかかっているのだ、っつーかあんたら何やってんだ!?

 そしてなんでンなもん持ってんだこのアホ供の親玉は!

チッこんなことならば自転車でくればよかった。それならばちっとは簡単に逃げ切れたものを……!

 とりあえず全速力でダッシュ、登校途中の駅前を目指す、あそこならば人ごみにまぎれて撹乱出来るだろう、今日は母親との接触を最小限にするために早目に家を出たため時間もたっぷりある。

 これならば、包囲網をかいくぐり、時間ぎりぎりで教室に入り込めば何とか……!

 そんな感じで思考していた、のだが……

「貴様は三つの大罪を犯した…………」

 駅の方を向きもう少しで人ごみに入れそうな所で、襟首を掴まれる。後ろから追っていたバカどもはかなり引き離していたので掴んだ手の持ち主はそいつらではない、 

 違ってくれ……という思いとともにギチギチと油の入っていない機械のような感じで振り向くと………………

「その罪状はとりあえず部室の方で言おうか? かわいいかわいい後輩君?」

 引きつった様な笑みとともに襟首をつかむ悪魔がそこにいた。それと同時に俺は今週の運勢は恐らく人生で最悪のものなんだろーなーと思い至った、

 

  

   ◇◇◇

 

 

「先輩、言っても無駄だとは思いますがとりあえず先に言っておきましょう。誤解です、それとこれは未成年略取という立派な犯罪です」

 捕縛後。鋼哉先輩に捕縛され、サッカー部連中に簀巻きにされ部室に連れてこられたのだが……なんというか鋼哉先輩以外は意外と同情の目線を向けてくれている。ああ、同情するんならこのアホをどうにかしてくれ……

「先ほど言った通り貴様は三つの大罪を犯した……」

「無視ですか…………参考までにその罪状を教えてください」

「この俺の気持ちを踏みにじった罪! 俺を差し置いて勝手に駿河との関係を進めた罪! そして勝手に駿河に告白された罪だ!」

 ああ、聞くんじゃなかった。て言うかどれもそんな変わんない罪だな、おい。

「しかも堂々と駿河と学校フケやがって! 何してた? 何してたんだ!? あァーっ!?」

 襟首をつかみ馬乗りになってがくがく首を振ってくる、やめてください脳みそシェイクされますから、っつーかあの後駿河先輩は学校に帰ったんだからあの人に直接聞けよ。どうでもいいで一刀両断されるだろうけど。

「とりあえず鋼哉先輩は俺が駿河先輩をフッたら満足なんですか?」

 YESと言われたからといってそれが駿河先輩への返答に何ら影響するわけではないが一応聞いておく。 

「っぐ……いや別にそういうわけじゃねーけど……」

 あ、テンションが少しまともになった

「かといって付き合うのも嫌なんですよね?」

「…………………………」

 ヤツはとりあえずという感じでマウントポジションから立ち上がり周りの目線(周りには生ぬるい目をしたサッカー部員が十数人いる)から逃れるように俺の後ろ襟をつかみ 部屋の隅に引っ張っていく。

「っつーかあんた何がしたいんすか、別に俺が駿河先輩に何をしたってわけでもないじゃないすか。嫉妬でんな行動起こしたんですか。かっこ悪いっすよ」

 我ながらすっごく冷めた目で目の前の先輩を見つめながら言う。ハッキリ言うが俺に非はない。

「いや……まぁそうなんだけどさ、うん、冷静になった今じゃ少し後悔してるって」

「んな勢いで犯罪犯した青少年みたいな言い訳はいいんですが」

「いやでも俺だけじゃないぜ? お前にナニかしようとしてるの」

「は?」

 何やら不吉な単語が聞こえたような気がした。

「あのー、今聞き捨てならない言葉を聞いたような気がしたんですが」

「だからさ、俺以上に危ない連中がお前の命狙ってるっていうか……」

「今すぐこの拘束を解いてください。先手を取ってその馬鹿どもの息の根を止めてきます!」

 つーかどうなってんだこの学校は!? そんなに狂信的なファンがいるならなんで先輩に友達の一人や二人出来ないんだ!? シャイか? シャイなのか!?

「うん、だからまぁな? なんというか……そういえばお前駿河とどこまでいった?」

 ギクリ。

「結局お前付き合うことにしたんだろ? もういいよ……っつーか幼馴染特権ってずるすぎるだろ……」

「えっと……それは……その……」

 この話の流れはまずい、万が一返事は保留にしてもらったなどということがバレたらなんだかとてもややこしい事態に、

「まさか保留にしてもらったなんてことはないよな?」

 マジで超能力者かあんたは!

「いやまっさかぁ! そんなわけないじゃないですか!」

「じゃあきっちりこれから末永くヨロシクオネガイシマスって言ったわけ?」

 その問いについうっと言葉が詰まる。つくづく俺って隠し事ができない性分だよなあ! コンチクショウ!

「……お前さ、駿河の知名度舐めてないか?」

「へ? 知名度?」

「あの美人で頭がよくて運動ができてしかも金持ちのお嬢の駿河だぜ? プラス交友関係はほとんどゼロ。必然的に近寄りがたいって雰囲気ができてそこから何が生まれるかといえば大量の崇拝者だ」

 す……崇拝者……?

「ぶっちゃけた話。昨日の内にOKしとけばまだ安全だったかもしれねーけどこうなっちまった以上意地でも『ツキアイマセン』って言わせるためにあの手この手を尽くしてくると思うぜ?」

 んなバカな。そんなことをするアホはこの先輩だけだと思ったのにまだほかにも大多数がいるということか。

 というかその言葉を言っている先輩がイヤラシイ笑みを浮かべてるのはなんでだ。

「ま、前途多難だが頑張れよ、俺は結構発散させてもらったからもうちょっかいかけねーけど」

 待て、じゃあ何か? 今までの会話の流れは全部この先輩に操られてたって事か? なんかすっごく鬱憤晴らし完了ってって顔してんのは俺の気のせいじゃないよな。

 ……ま、まあ大丈夫だろ、アイドルじゃあるまいし、んな狂信的なファンなんているはずねーよな!



 その見通しの甘さを俺は校舎に入って十秒で痛感することになった。

 

 

  ◇◇◇

 

 

 とりあえず解放されたあと朝連をする雰囲気でもなかったのでかなり早目にクラスに行き昼寝ならぬ朝寝でもしようかと思い朦朧とする意識で(原因は言うまでもなく眠気+ 諸々の理由によるストレスだ)下駄箱の箱を開けたそのときだった。

 バサッと複数枚の紙が下駄箱の中から落ちてきた。

 普通、野郎の下駄箱の中に入っているものなんて上靴か部活用のシューズ。良くてラブレターやバレンタインのチョコ、古いところでは果たし状なんかが思いつくわけだがこれは……

「……なんで下駄箱ん中に呪いのお札が入ってんだ……?」

 よく見ると五寸釘を打った藁人形まで置いてある。ご丁寧に釘を打ってあるところには俺の顔の写真まで貼らており不吉極まりない。とにもかくにも中に入っていた紙キレと藁人形を拾いゴミ箱に投入し自分のクラスがある4階に行き。さっさと机に突っ伏して寝ようとドアを開け……

「うぉう……」

 思わず声が出た。その時の心情をたとえるなら漫画のバレンタインの回で、イケメンのキャラの机にチョコレートが山のように盛り上げられている光景を見たときとと同じような感じだ。

 俺の机の上にあるのは髑髏やら訳のわからない液体の詰まった器やらオカルトじみたものだったが。

 そのあともホームルームが始まるまでの間に机を片づけている間にどこからともなく『チッ』だの『シネ』だのの声が聞こえて来たり、片付け終わって机で寝ている間に妙に冷たい感触が首筋を伝ったり、ホームルームが始まってからも妙に粘着質な視線を感じたり、授業に入ってもそれは変わらずしかも先生によっては何か恨めしいような表情でバンバンこっちを当てて来たり……なんというか鋼哉先輩のナメているという表現があながち間違いではないということを思い知らされた。

 昼休み時にはもはや疲労困憊だ。体力的には特に削られていないはずなのに精神的な疲れのせいで何やら体のだるささえ感じる。(朝の呪術チックなアレコレが影響しているとは考えたくなかった)

「いやー騒ぎが起こるとは思ってたけどここまでとは……」

 軽い口調で真田が言ってくる。

「思ってたのかよ……」

「いやそりゃ思うって、相手は『あの』駿河先輩だぞ?」

「お前が『あの』なんて付けた理由が今じゃよくわかるよ。」 

 今ならわかる、駿河先輩の求心力っていうかある種のカリスマ性は尋常じゃない。

 上手く使えばそれこそ変な実行力を持った軍団みたいになるんじゃないか?

 最もあの先輩がそんなことをするとも思えないが……

「ま、人の噂は七五日なんていうしな。二か月経てば沈静化するんじゃね?」

「あの怨霊みたいな連中を『人』って分類していいのかは大いに疑問だけどな」

 そんなバカな話をしながら弁当を出し栄養補給を行おうと箸をとり手を合わせ……

「晃」

「はーい、ちょっと飯食い終わるまで待って下さい、今回朝から色々スゴイ目にあって疲労困憊……に……?」

 はて、今後ろから声をかけてきたのは誰だろう、女子の声だけど一年生の中に下の名前で呼ばれるような親しい女子いないぞ?

 なんか前にいる真田が顔面硬直しているがそんな相手あのアホか、もしくは……

「ん、じゃクラスの前で待って……」

「ちょっと待って下さい前言撤回です、今すぐに話を聞きます」

 一年上のこの先輩しかいないよなァ……なんというか半ば達観したような心境で後ろに来ていた駿河先輩を引き留める。

「来てもらってなんですけど、今度からは何か用件がある場合はメールとかですませてくれるとありがたいです……」

「ん。わかった。でも私晃のアドレス知らないし」

 ほんとに自分の影響力わかってんのかこの人は……それはともかく何の用だろう? 視線で問いかけてみると、駿河先輩はスカートのポケットから一枚の紙切れ、いやメモ用紙を取り出した。

「これ、誰もいないところで読んで、」

 そう囁くように言いながら取り出したメモ用紙を渡してくる。なんだろ、と開けそうになるが誰もいないところでという条件だったのを思い出し、スラックスのポケットにしまいこむ。

 そのことを確認すると先輩は、ん、とだけ言い残し自分たちのクラスがある三階へと戻っていった。

「で、なんて書いてあるん?」

「見せるかバカ」

 案の定のぞいてきた真田をかわし、スラックスのポケットにメモ用紙をねじ込む。この学校内でのぞかれないところを探すなんてかなり難しいと思ったが、授業中ならば隠して読めばのぞかれる心配もないだろう、俺の席は一番後ろの席なので後ろから覗かれるという心配もない。

 昼休みの間中何とかしてメモ用紙を覗こうとする真田の追撃をかわし、教師が来たことでクラスメートが席に着いたのを見計らい、ポケットからメモ用紙を取り出す。そこに書かれていたのは……

 

 

  ◇◇◇

 

 

「何の用だろ……放課後にこんなとこに来てほしいって」

 メモ用紙に書かれていたのは『放課後に第二棟校舎の視聴覚室に来てほしい』ということだった。

 二棟校舎は別名隔離棟と呼ばれている、理由はほとんど使われないからだ。

 この校舎は音楽室や美術室、多目的ホールなどいわゆる年に数回しか使われない教室を寄せ集めた校舎なのだ。

 この第一視聴覚室もその一つで第1校舎の各教室にそれそれ立派な液晶テレビとDVDセットがあるため年に数回、三年の進路学習で使われるのみらしい。

 最も美術室や音楽室などの重要な機材が入っている部屋以外は常時鍵は開けっぱなしなので(監視カメラは付いているが)人に見られたくない事をするときは隔離棟で、というのが暗黙の了解となっている。

 つまり駿河先輩の用も何らかの知られたくないことという可能性が高いのだが……

「それなら昨日に言ってくれればいいのに何で今日なんだろ……」

 俺にしてみればあの告白だって十分人に知られたくないことである。そんなことを思いながら隔離棟の2階にある視聴覚室へと歩を進める。

 階段を上がり、廊下を進み、その隅にある視聴覚室に入る。そこには、

「晃、来てくれたんだ」

 駿河先輩がいた。

「何の用ですか? 告白の事は五日間待ってもらえるって聞いてましたけど……」

「うん、そのことじゃないよ、そんなに難しい用じゃない。ただ少し晃の事が知りたいだけ、私達今まで結構疎遠だったし」

「知りたい……って何をですか?」

「ん……例えば……」

 少し考え彼女は俺の傍に歩み寄り、そして……

「ん……」

「え……? え!?」

 いきなり腕に抱きついてきた。

 突然の行動にとっさに返す言葉が見つからない、というか先輩って着やせするタイプなんだな……腕に胸の柔らかさが……違う! そうじゃなくて先輩がなぜこんなことをする!? 

……あ、心臓の鼓動が聞こえてきた……そうじゃなくて!!

「せ……先輩!?」

「なに?」

「何故こんなことを!?」

「晃が抱きついたときどんな反応するのかなって」

 そしてその目論見は大成功というわけですか!? 上目遣いで見上げないでください! 抗えなくなりますから!

「ちょ、ちょっと待って下さい。俺らまだ付き合ってはいないわけで……その……そんな状態でこんなことするってのはちょっと……」

「ダメ……?」

 ちょ、そこでなんでそんなに悲しそうな顔するの!? 大体おかしいだろ! そんなことするつもりならなんで昨日やらなかった……違う! そうじゃない! それなら付き合うだの何だのする前に抱きつくはずだし……ダメだ……思考がまとまらない……!

「晃がしたいっていうなら、私は……」

 私は!? 私は何なの!?

「ちょちょ、ちょ、ちょっと! なんでブレザーのボタンに手ぇ掛けてるんですか!? 落ち着いて!」

 もう何が何だか分からない。というかこの人が愛想笑いを浮かべてこちらに抱きついてきたという時点で……

 その思考に至った時俺の脳裏を一つの記憶がかすめた、自分の腕に抱きついているこの人に関する記憶、その一つの断片が脳に浮かび、そしてその記憶が俺にあり得ない考えを思い起こさせる。

 それは半ば直感だ。常識的に考えればそんな馬鹿げた考えを基に行動を起こすなどということがおかしい。しかし俺は直感や勘というものが脳裏をかすめたらとりあえずは従うことを信条としている。

 俺は唐突に浮かんだ考えを確かめる事にした。腕に抱きついてきた駿河先輩を振り払い二,三歩後ずさる。

「晃……やっぱり私になんか抱きつかれるのは、いや?」

「その前に一つ答えてください、駿河先輩」

 意を決しその言葉を絞り出す。


「あなたは何故笑っているんですか?」


 駿河先輩の愛想笑いを見て思い出したのは小学校高学年、彼女の母親のお葬式の時の記憶だ。何とか彼女を笑わせようとした俺に駿河先輩が言ったことがある。自分は理由もなく笑わない、と。

 事実。俺は彼女の愛想笑いなどというものを一度も見たことがない。


気付いた今となっては歪としか思えないこの笑顔を見るまでは。


「何を言っているの? 私が笑うのに理由なんているの?」

「!」

 その言葉に俺は確信した。『この人は駿河先輩ではない』

「あんたは一体誰なんだ、あんたは駿河先輩じゃない。」

 その言葉にきょとんとしたように駿河先輩、いや『得体のしれない誰か』は黙り込んだ。

「何を言っているの?私は駿河だよ。駿河昌。他の誰でもない」

「駿河先輩は理由もなく笑ったりしねえんだよ。あんたが何者か知らねえけど事前のリサーチが足りなかったな」

 その一言を彼女が聞いた瞬間、

  

 彼女の顔から『表情』というものが抜け落ちた。

 

 いつもの駿河先輩のように無表情なのとは全く違う。まるで『駿河先輩の顔』というものを機械で認識し、機械自身が彼女の顔を再構成した。そんな仮面のような顔だ。

 『駿河先輩の顔を持った誰か』はこちらに歩み寄ってくる。さっきの親愛を表したゆっくりとした歩調ではなく、ゾッとする冷たさを内包した機械のような早歩き。

 その顔を見る。そこから読み取れる情報はない。しかし、身体の全てから吐き気がするような負の感情が流れ出ているような錯覚を覚えた。

「……!」

 生物としての本能というものが人間にもあると、これほどまでに感じたことはない。その種類は『恐怖』

 気がつけば『得体のしれない何か』から背を向け全速力で逃げだしていた。教室から転がり出るように出て必死で階段に向かい……

 しかし突如背後から凄まじい勢いで衝撃が襲う。恐らく蹴られたのだ。一メートルほど宙に浮きそこからまるで蹴り倒されたペットボトルのように体が転がる。衝撃により強制的に肺から排出された空気でむせながら見たのはゆっくりと歩み寄ってくる『得体のしれない何か』だ。その手には鋭利な金属片、いや剃刀の刃が握られている、

 必死に逃げようとするが上手く呼吸ができず立ち上がることもままならない。

『得体のしれない何か』はそのまま、俺の傍にしゃがみ手に持った剃刀の刃を俺の首筋に寄せ、そして、


 そして唐突に、轟音が響き、『得体のしれない何か』の姿がぶれた。


 せき込みながら数瞬遅れて立ち上がる。『得体のしれない何か』は剃刀の刃を自分の手に食い込ませ血を流しながら表情のない顔で壁に叩きつけられていた、相当強い力で叩きつけられたらしく壁に軽くひびが入っている。

 そしてそれと逆方向、つまり『叩きつけた側』にも一人の人間が立っていた。そこにいたのは……

「駿河……先輩?」

 そこにいたのは叩きつけられた人間と全く同じ容姿を持つ人間、駿河先輩だった。

 だが俺はその人間が駿河先輩だという確信を持てなかった。

 彼女はもう一人の『駿河先輩の容姿を持つ人間』と同じ、普段ならば『駿河先輩が絶対にしない表情』をしていたからだ。


 それは『機械のような表情が抜け落ちた顔』ではなかった。


 それは『子供のような打ちのめされた悲しみの顔』だった。


 『叩きつけた側』の駿河昌がこちらに駆け寄り唖然としている俺の目を見る、

「怪我……して……」

 その言葉に鎖骨の辺りに鋭い痛みが走っていることに気がつく、恐らくさっき吹き飛ばされた方の『得体のしれない何か』が持っていた剃刀の刃がかすめたのだろう。少し出血はしているが大した怪我ではない。

 だが今俺の目の前にいる『駿河先輩』は涙を流し俺に抱きついてくる。

 謎の襲撃者……駿河先輩と全く同じ容姿を持つ得体のしれないものはそのその隙に廊下を走り階段を駆け下り姿を消す。

 そして、そこには俺と、先ほどの『得体のしれない何か』が抱きついてきた親愛の抱き方ではなく必死な『何か』を持ち強く、強く俺を掴む駿河先輩だけが残された

 

  

  ○○○

 

 

 

「失敗したか」 

 残念だなと一応は思いながらも我ながらそんな感情は全くこもっていない声で言う。自分としてはあの女が苦しめばいいのだ。


 そのことであの後輩の男子が死ぬ。どうでもいいことだ。


 そのせいで私が殺人の罪を背負う。どうでもいいことだ。


 そのことで人生が滅茶苦茶になる。全てどうでもいいことだ。


 あの女が苦しめばいい。そのためならどんなことでもしよう。たとえどんなに苦労しようがどんなリスクを負おうが、『常識から外れようが』どうでもいい。

 何故私がこんなことができるのかは分からない。一番重要なのはこの力があの女を苦しめるのにとても有効だということだ。

 思わず笑いが漏れる。次はどんな手であの女を苦しめよう。あの女はあの後輩の男子が好きなようだしそれを利用すれば面白いことができそうだ。

 

 

 

  ○○○

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