ニーナ
どこか、小さな惑星のお話です。
「ニーナ かえってこないね」
ボソリと呟くロベルト(双子の弟である)を、私は横目でジロリと睨んだ。
ムスッと唇を結んだ横顔が目に入る。彼はそのまま、黙々と草をかき分けていた。
私もまた、前を向く。先程と同じように草をかき分ける。涙が零れそうになったから
思わずギュッと唇を噛みしめた。
一体何をしているのだろう、私は。
自分が始めたことだというのに、この行動の意味に疑問を持つ。
私の女友達であり、親友であるニーナが1週間程前、宇宙旅行へ行った。
何でも、父親が「行きたい」と言って聞かなかったらしくて。
「嫌になっちゃうわよね。たくさん仕事があるっていうのに」
そう言って、ニーナは笑っていた。
彼女の父は大変な資産家であり、大変富んだ嗜好を持っている。
彼は昔から、月に興味を持っていた。
『月はどんな空気なんだろうな、直には触れられないけど
この目で、どんな風景なのか雰囲気なのか確かめたいよ』
なんて、目を細めながらよく私に話していた。
そして、だ。唐突に彼は宇宙に行くことを決めた。
それがつい2週間前のこと。そしてその一週間後、彼ら家族は宇宙に
旅だったのである。
私はニーナ家族が宇宙船に乗り込む場面に立ち会った。普通の
飛行場とは違う緊張感がそこには流れていた。だいたい、警備
をする人達の表情が違った。なんだ、その、まるで極悪人でも
見張っているかのような表情は。私はそう悪態をついたのだ。
そう、私はその日、酷く機嫌が悪かった。だって信愛なるニーナに
宇宙へなど行って欲しくはなかったから。
そんな私の心を読み取ってか、いやはや表情に出ていたのか。
ニーナは笑って言った。
『またね、ソフィー 帰ったら、その顔がうんざりした表情に変わるくらい!
たんとおみやげ話を聞かせてあげるわ』
と言ったっきり。ニーナとの会話は更新されないまま。
彼女は宇宙旅行に行ったっきり帰ってこなかった。
両親は帰ってきたけれど、彼女だけ帰ってこなかったのだ。
彼女の父親は、この世が終わるとでも聞いたかのような表情で
『ニーナは月から落ちた!あれほど宇宙船に繋がる紐を放すなと言ったのに
あの子は離してしまったんだ!! 』
そう言って、泣き叫んでいた。その顔は悲痛に歪んでいた。
とてもじゃないけど、冗談を言っている様子ではなかった。
そもそも、その時はエイプリルフールじゃなかったし。
私は映画でも見るように、ただ黙ってその一連の流れを見ていた。
『お葬式は、3日後にするわ』
そうニーナのお母さんが言うのを、キョトンとした表情で聞いていた。
私以外の人達はみな、泣き始めたり、ひそひそと話始めたり。辺りは
波だっていた。私の周りだけ、静寂。
宇宙旅行の寸前、あんなにも活気に溢れていた飛行場。その時は悲しみに沈んでいた。
ニーナのお母さんは一頻り話し終えた後、突っ立っている私の姿を見つけ
駆け寄ってきた。私の肩を掴む手は非常に冷たく、彼女の瞳は涙で潤んでいた。
『ああ、ソフィー辛いでしょうけど許して頂戴ね
私達の責任なの私達が悪かったのよ
でもね、私もとても辛いわ、耐えられないくらい辛いわ』
ニーナのお母さんは、そう言って目頭をおさえた。押さえた手を伝う涙。
そう、ここはお葬式の空気そのものだった。後は花束さえあれば完璧。
でも、私はそんなの受け入れられなかった。ニーナが死ぬはずがない。
私の心はみんなの語る事実を拒否し、自分だけに通ずる事実を作り上げた。
ニーナは死んでない。迷子になっているんだ。
『じゃあお母さん わたし妖精をさがしてくる!
ニーナはきっと迷子になっているのよ
妖精に頼んでニーナをつれ返して貰うわ!』
そう言ってクルリと背を向ける私に、誰かが呟いた。
『可哀想に、余程悲しいのね』
そうして、出来事は現在に繋がるわけだ。この一連の流れを話し終えたのだから
私が何をしているか分かっただろう。そう、妖精を探しているのだ。
私の妖精探しの時間は長い、昨日なんて朝から晩までずっと探し続けていた。
それもわざわざ山の頂上まで来て。
すっ冷たい風が通り過ぎ、私は顔をあげた。
もう空は朱色に染まっていた。そういえば、周りの景色がボンヤリとしている事に気付く。
もう直に夜になるなぁ。私はそう思って目を細めた。
「ロベルト、もう帰ろうか。夜になっちゃうし」
弟の方を向いて、そう声を掛けると、彼は黙って立ち上がった。彼は顔を俯かせ
手を固く握りしめている。辺りがますます暗くなってきたせいだろう、彼の姿は
黒い霞に包まれているように見えた。
「姉さん 僕も、分かるよ」
弟は私の顔を睨むように見上げた。私の顔に突き刺さる視線。その元である彼の
目には涙が溜まっていて、私は目を丸くした。
「悲しいよね? 親友が居なくなって悲しいのは当たり前だよ
受け入れられないのも当たり前かもしれない
でもさ こんなことして悲しくならない?!いつまで自分の、周りの人達の傷を抉る気なの?!
もうみんなニーナを失ったっていう傷を!その傷を治そうとしてるんだよ! 」
弟の口調は荒ぶっていた。夕方のシンと冷えた空気に、その声は突き刺さるように響いた。
私は、何も言い返せずにいた。弟の言動を固唾を呑んで、見ていた。
弟は肩を上下させる、大きな両目からは荒々しく涙が零れていた。
「僕も傷を治そうとしてる、みんな治そうとしてる
姉さんも例外であっちゃいけないんだ」
弟はそう言うと、私に背を向けた。彼の背中は細くて頼りない。
私はストンと落ちるように座り込んだ。目で、弟の頭部を追う。
彼は微かに後ろを振り返ったけれど、また前を向き、駆けていってしまった。
淡い暗闇の中に彼の身体が消えてゆく。
冷淡な風がそよいでいた。その風は私を撫でては去って行く。私の頭は
冷やされていった。余計な事柄は切り捨てられて、大事なものが浮き彫りになる。
それの核心に私の思考は迫ろうとしていた。
弟の残像を見つめていた私は、町のほうへと視線を泳がせる。
町にはオレンジの青の、黄色の。様々な光が灯っていた。
幾千、幾万、幾億とあるそれ。それは、人の命の数と同じくらいあるのだろう。
この町は広い。この世界はそれよりうんと広い。
様々な生命が生まれて消えて、情景が少しずつ変わって。
世界の歯車は回り続けている。いつまでも同じ事は続かない。
みんな歩み続ける。
私はそっと空を見上げた。そこには幾億の星が瞬いている。
手を伸ばしても、届かない星々。でもニーナはそこに行った。
そして、そこで死んだのだ。
ニーナは死んだ。
やっと許容できたその事実。まるで受け入れる事を望んでいたかのように、私の心は鎮まった。
泣きはしなかった。ただ、私もいつか宇宙に行こう。そう決意した。
そうしてニーナを見つけてやろう。
冷たい身体をそっと抱きしめてあげよう。