第2-B話 発端 -はじまり-
何度来ても、この広すぎる応接室に慣れることはない。それが冴山飛彩の率直な感想だった。
国内外を見渡しても競合と言える存在がいないほど突出した力を持つ複合企業、ASI。その会長が息子のために作った人工島と、その人工島を全て使った大邸宅。翠鳴館の通称で呼ばれ、敷地内の一般開放された施設は近隣にも利用される観光名所でもある。
彼女がいるのは、本来ならば客賓を歓待するために作られたであろう一室だ。幾度となくここには来いるが、それでも慣れることはない。
供された紅茶を一口含み、飛彩は一つ息をつく。
――さっきの子。リゼリアって言ってたっけ。
魔術学院の魔術師で、しかも明日から飛彩と星治を教えるのだという。あの年頃であの言葉や身振り手振りが演技だったのであれば間違いなく俳優養成の施設に行くべきだろうが、あの蒼い瞳にはそのような作られたものはなかったように飛彩は思う。
今はそのリゼリアと星治、そして在原家の家令を務めるメイベリンを加えた四人が応接室のテーブルを囲んでいた。供されるのはダージリンの紅茶とスコーンだが、両方とも絶品と言うほかない味だ。
紅茶のカップを傾けながら、リゼリアは表情を少し綻ばせる。
「茶葉を選ぶ目は確かなようね。この時期にアリヤのこれだけ素晴らしい茶葉を味わえるとは思わなかったわ」
言葉こそ尊大に思えるが、その言葉を受けた家令――メイベリンは浅い一礼を返した。
「その言葉、従者冥利に尽きるよ」
「スコーンも貴女が焼いたのかしら。だとすれば相当に出来る従者ね、誇っていいわ」
「……だそうだ、星治。もう少し私の価値を再認識したらどうだ」
肩をすくめておどけて話すメイベリンの視線の先には、腕組み顔をしかめている星治の姿があった。
視線はまっすぐにリゼリアを見据えている。射抜くような鋭い目であり、親しみのような感情はほとんどない。本来の彼がするような目ではない。
理由の察しは簡単についた。恐らくは、彼の父――在原匡都が関係しているのだろう。
「――なぜ私が在原匡都を知っているのか、かしら。貴方の考えている質問は」
自分にかけられた言葉なのかと思い顔を上げた飛彩の視線の先には、余裕の笑みをたたえるリゼリアがいた。見た目こそ十二に届くかどうかという幼い少女だが、その笑みや目にはまるで捉えどころのない老獪さが見え隠れしている。
この手の得体の知れなさは、腕のある魔術師であればさほど珍しいことでもない。事実、学院に在籍する教官の魔術師にも同じような底知れない教官が数人はいるのだ。目の前のリゼリアもまた、見た目とはかけ離れた経験と研鑽を積んだ魔術師と考えるのが妥当だろう。
「答えはそのうち貴方もわかるわ」
「星治、今夜から彼女にはこの屋敷に泊まってもらうことになった。部屋は別に余っているし、じきに彼女に教えを請うことになるのだから問題はないだろう?」
「ち、ちょっと待てよメイ! 俺はそんな話聞いてないぞ!? いつどこでそんな話が決まった!?」
「先日、とある国で軍事動乱が起きた。魔術師達を束ねている学院の総本山がある国だ。そこから亡命してきた位の高い魔術師をこの屋敷で保護するリターンとして、彼女は今日から君の魔術の師となる。形上は分院の臨時教官ではあるが、な。――見た目に騙されると痛い目に合うぞ。何せ、腕よりの集まりで知られる本院でも五本の指に数えられる魔導だからな」
狂言であるとしても手が込みすぎているが、やはりどこか信用ならない。それが飛彩の抱いた感想であった。確かにリゼリアのやり取りや雰囲気からして普通でないのはわかるが、それがそのままメイベリンの発言の内容につながるとは考えられない。
加えて、本院の五本指に上がる魔術師というのも信じがたいことだ。五人揃えば一つの国家にも匹敵するという話自体が眉唾ものだが、目の前の少女がその一角を担う魔導なのだという。
「信じられない、という顔をしているわね」
軽く笑ってリゼリアは星治を見た。
「当たり前だろ。どうやって信じろって言うんだ。まさか、俺がこの手でお前をねじ伏せて、はいウソでしたってやりゃあいいのか?」
「そうね、それ一番早いんじゃないかしら。この手で捻り潰してあげれば、貴方も納得せざるを得ないでしょう?」
相対する二人を見て、リゼリアの言葉に飛彩は少しずつ信憑性を感じ始めていた。
「なら決まりだな。模擬戦をやって彼女の言葉がすべて狂言か、試してみればいい。二人とも、室内訓練場で手合わせをしてみろ。星治は得物も忘れるな。彼女はお前が思っているよりよっぽど手強いぞ」
すべて見透かすようにして仕切るメイベリンに違和感を覚えながらも、飛彩も室内訓練場へと歩みを向けた。
◆ ◆ ◆
目の間にいる幼女は、完全に丸腰だった。
対する星治はと言えば、自らの野太刀――銀の煌めきも美しい業物――を下段に構え、真っ直ぐに幼女を見据えていた。
一辺二百メートルに及ぶ巨大な室内訓練場。在原匡都がその息子のために作った数多くのものの一つである。空間戦闘の習得のために天井は極めて高く作られており、壁面には衝撃緩衝に優れた防壁が張り巡らされている。
握る柄に汗が滲む。じり、という僅かな足の運びとともに踏み込みの刹那をうかがうが、契機を得られずにただ時間だけが刻々と過ぎているのだ。およそ六メートル半の間合いを常に保ったまま攻防の動きはない。
頭の中に描いていた戦いの流れとはまるでかけ離れている。日本分院でも指折りの魔術師と名高い彼が、丸腰の子供相手に攻めあぐねているのだ。
「どうしたの? 撃てば届く距離よ? それとも私が怖いのかしら」
くすくすと笑みをこぼす様は、侮蔑に他ならない。だからこそ、星治は踏み込んだ。
後ろにある右足の強い蹴撃。その蹴撃が捉えたのは訓練場の床だった。強烈なその踏み込みが生んだ運動エネルギーが、彼に与えたのは弾丸の如き初速。
下段に構えた野太刀が突き出される。刃ではなく、峰での一撃。リゼリアの左腕を狙う一撃必倒の一太刀。速さ、威力ともに申し分ない一撃だ。
当たれば無事では済むまい。骨は折れ、力の入り具合によっては肉も裂けておかしくない。だが、それほどの力でなければならないという強迫めいた何かが、星治の動きを加速させていた。
柄を握り締める掌に来るであろう反動を予感した星治が、何も刀を抜くほどでもなかったのではないかと思ったその時だった。
「――ッ!?」
手応えはない。それどころか、リゼリアの姿さえ掻き消えた。
「随分とまた暢気な剣ね。それで私を制することが出来るとでも?」
声に応ずるように放たれた二撃目。左足を軸にして竜巻を思わせる速度で旋回し、その速度を乗せた剣が少女の声の元へと走る。
そこにいた。星治の右方、あの一撃目の速度に反応して回避したのだ。
見てくれに騙されるな。アレは子供の皮を被った、手練れの魔術師だ。その判断と共に放たれたのは一撃目ほどではないが、それでも疾風の如き速度を持った剣だった。
しかし、リゼリアはそれより速く動いていた。右の手で銃のような形を作り、人差し指の先から――身の毛もよだつような緻密な魔力子が圧縮されていく。
アレがもしも、攻撃の意思を持って放たれればどうなるか。一瞬で汗が噴き出る感覚に星治は少女の顔を見る。
笑って、いた。
間違いない。彼女はこの力を自らの力として完全に使役している。力を恐れることなく支配し、その一端を今星治に向けて放とうとしているのだ。
「速く、正確ではあるけれども未熟ね」
言って一つの動作を取る。
指の音。リゼリアが鳴らした指の音だ。それが、星治に下された死刑宣告の音色だった。
音と同時、放たれた衝撃が星治の全身へと襲いかかる。全身をくまなく金槌で打ちのめされたような激痛とともに、彼はその場に膝をついた。辛うじて意識は保てているが、それだけだ。
不可視にして無音、そして全方位から同時に放たれた打撃のような感触。打ちのめされた五体は悲鳴を挙げ、口の中は鉄の味で満たされている。
その様を見たリゼリアが僅かに目を見開き、興味をひかれたように笑みを浮かべた。
「まだ意識を保っていられるのね、大したものだわ。並みの怪異であれば塵一つ残らない式だったのだけど」
意識の有無はリゼリアの側からはわからない。だが、その闘志に敬意を表するように、リゼリアは止めの一撃である式を紡ぐ。
指を弾く動作。ぱちり、という乾いた音が、星治の間近――彼の顎の真下で異変を結ぶ。
先の激痛のカラクリを、星治は直感で理解した。
打ちのめされたのだ。比喩ではなく、不可視の力によって。恐らくは、術式行使者の手指の形を元に発生するもので、威力は既に彼自身が味わっている。
攻撃の姿は見えず、音もせず、ただ破壊の形跡だけを目標に記す攻性魔術屈指の高階位魔術。抗う術など、ある筈もない。
そして、顎先に感じる強烈な打撃。脳を直接揺さぶられるような感覚を味わいながら、星治の意識は宙へと放り出された。