第2-A話 発端 -はじまり-
――2014 Aug 27th
東京都江東区特別指定港湾地区・在原家別邸《翠鳴館》。
727震災後に開発された、東京湾に浮かぶ巨大な人工島の面積の大半を占める広大な邸宅。魔術という学術分野が広く認知されて四半世紀を待たずして、魔術と工学を融合した魔導工学メーカー在原重工の創業者、在原匡都の別邸だ。
一代にして巨万の富を築いた稀代の天才が、その一人息子の養育のために建てた邸宅だった。魔術師の育成のために必要な設備を整えた施設や一般的な規模の蔵書を有する図書館、一般にも開放する緑地整備を施された公園など、その規模は世界でも有数と名高い。建造物としての意匠も名高く、国内外に名を知られる有数の観光地だ。
その大邸宅内にある緑地の一角。木蔭のかかるベンチに座る、人影があった。
短髪の少年だ。カーゴパンツに白いポロシャツという極めてラフな格好に、銀色のチェーンネックレスを首にかけている。
ベンチの背もたれに身を預け、少年は深いため息をついて頭上を見上げていた。日差しを程よく遮る緑の茂りと海から吹く風があるものの、間違いなく猛暑と呼んで間違いない天気だ。
運命はかくも残酷なものなのか。それが少年――在原星治の今の心境だった。同時に彼は、時の流れに残酷さを感じていた。
夏休みが終わるまで、あと二日を切った。だが、渡された課題は全くと言っていいほど進んでいない。むしろ、配布された当日のまま汚れることなくこの日を迎えている。
そのことを伝えた直後の、幼馴染の冷えた声を思い出した星治は、両手で頭を抱え込んだ。なぜ計画的に少しずつでもやらなかったのか、そもそもあんなに遊んでる時間があったのに何をやっていたのか、などという非常にもっともな指摘を十五分以上に渡って電話口から聞かされたことを思い出したのだ。
邸宅の雑務を受け持つ執事にも相談したが、自業自得だという一言で片付けられてしまった。車の運転から家計と呼ぶには巨額過ぎるだろう屋敷の予算、更には本家とのやり取りをもすべて一人でこなす執事なのだ。たかが課題程度と思って頼んだ星治の申し出を、執事はにこやかに、しかし即座に拒絶した。
このようなことは自分の友人に頼むべきだという提案に沿い友人を呼んだはいいものの、夏休みの課題をまともに進めているだろう人間など彼の友人には一人しかいない。
課題を進める気にもなれず、呆れながらも手伝ってくれることを約束してくれたその一人であり幼馴染でもある少女の到着を、星治は公園で待っていた。日差しこそ暑いものの、木陰に入っていれば風もあるためか涼しく感じられる。
――まあ、顔を合わせたと同時にお説教タイムになるんだろうが……
世話好きな性格からか後輩たちからも懐かれているが、自分に関しては殊更に
人の気配を感じ、星治はベンチから立ち上がって軽く伸びをし、文句をつけてくるであろう幼馴染がいる背後へと振り返り――
「はじめまして」
気配は気のせいだったのだろうか。ならばなぜ、声がするのだろうか。初めて聞く、幼さが残るものの澄んだソプラノが響き、しかし声の主はどこにもいない。
「ここよ、ここ。ほら」
シャツの裾を引っ張られる先――視線を下げれば、そこにいたのは小柄な少女――というより、幼女、だ。背中まである長いブロンドをバレッタでまとめ、大粒のサファイアを思わせる深い瑠璃色の瞳がまっすぐに星治を捉えていた。
私有地とはいえ、一般に開放されている区画だ。誰が居ようとも不思議ではない。加えて今ではブロンドに青い瞳の外国人がどこにいてもそう不思議なことではない。しかし、それでも幼女の存在は異様だった。細いシルエットのモードスーツを自然に着こなす雰囲気からして年齢からかけ離れた雰囲気がある。
「何を呆けているの」
「え、あ、ああ」
状況が把握できない。混乱する中で星治が理解できていたのは、彼女がその外見に反して非常に流暢な日本語を操ることと、やはり外見からは予想もできないほどにませた言葉づかいをするという二つのみ。
「なら、もう少し毅然となさいな。仮にも、あの在原匡都の息子なのでしょう? 加えて日本分院でも指折りの魔術師なのだから、それに相応しい毅然とした態度を身につけなさい」
初対面の日本がやけに上手い青目にブロンドの幼女に、高圧的でもない妙に説得力のある言葉でいきなり真正面から態度を否定されているという状況に、星治の頭は更に混乱していく。
問題の幼女はと言えば、先ほどから星治を淡々と観察するように見つめているだけだ。侮蔑や好意と言った何らかの感情は、その眼の色からは読み取れない。
その彼女が、不意に後ろを見やる。
「ほら、待ち合わせの相手が来たみたいよ」
言われて星治が向けた視線の先。彼が待ち合わせていた幼馴染の姿があった。
「何よ星治、迷子の子? すごいおしゃれなお洋服ね、お名前を聞かせて?」
完全に年相応の少女と判断した幼馴染の言葉に、幼女は、
「――初見の子どもに対する言葉がけとしては及第点というところね。名前はリゼリア・セルバレル、明日からあなた達二人を学院で教えることになった魔術師よ」
とんでもないことを言ってのけたのであった。