第1話 前夜 -よかん-
なぜこのような事態になったのか。瓦礫の下で息をひそめながら、少女はそう思い、溜息をひとつついた。
招かれざる来客が来てから七分、彼女が優雅な時間を過ごしていた邸宅は残骸へと変貌した。戦闘ヘリから放たれた成型炸薬弾二発はハリウッド映画よろしく住宅の七割を吹き飛ばし、休日の午後を楽しんでいただろう近隣住民を二秒半で建物ごと木端微塵にした。
冬には暖かい火を灯していた暖炉や毎朝毎晩風景と紅茶を楽しんでいたバルコニーも粉々になり、知人から借りていた本も恐らくは原形を留めていないだろう。
そこまではまだよかった。だが、火力による制圧は少女だけを対象にしているわけではなく、迫撃砲による砲弾の豪雨を受けて閑静な住宅街であったはずの近隣はその光景を平たくしてしまった。
基礎となる建材を避けて隙間ができるだろう位置を推測して身をかがめたのが功を奏し、軽い擦り傷切り傷と打ち身を除いて致命的な負傷はない。残骸に身を隠して少女は前方へと目を向ける。
突撃銃を携行する戦闘員六名。掃討を担当する一個分隊と判断。分隊指揮官と思われる後方の一人が無線で本部からの指揮を仰いでいる。
僅かなうめき声が響く隙間へと銃口を定めて引鉄を引く。銃声が響いたきり、声は止む。ありきたりな掃討の様子を観察し、少女は誰かが近付くのを待ち続けた。
数発の銃声が止み、足音が破片を踏み砕く音が近付いてきた。粉塵がまだ立つ瓦礫の上、ゆらりと少女は瓦礫から歩み出、静かに兵を冷たく睥睨した。彼女に胸の高鳴りはない。ひどく静かに、一定の拍動を刻むのみ。冷静な自分自身を音を確認しながら、少女は保有している《詩》を紡いだ。
「《黒き湖に睡りし名伏し難きものよ。聖絶の名を与えられし我が命ず――》」
幼さこそ残るものの極上と言えるだろうソプラノが奏でた言葉。
その声に反応した銃口が向けられる。だが、少女の詩はそれよりも速かった。
「《――隔てよ》」
一斉に銃口が向けられ、兵士の引鉄に力が込められ。
しかし銃声はない。熱せられた飴細工のように銃身が捻じ曲げられていた。
空間がねじ曲がる――大気中に飽和し析出した魔力子による光の屈折――蜘蛛の巣に絡め取られた屑虫のように銃弾が宙に浮き止まる。
少女の中で産声を挙げたのは明確な意思だった。目前に立つ木偶を細切れにするという、彼女にとってみれば極めて容易い行動だった。
「《風は澄まされ刃と為る》」
最も近い場所にいた男に線が走る。不可視無音の刃が一人の人間を細切れに変換した。赤い飛沫をあげてばらばらと崩れていくと同時、即座に他の隊員が近接戦闘用の自動拳銃を照準する。安全装置が解除され、引鉄が引かれる。
銃声。銃弾が少女に殺到。
至近距離から放たれた9ミリ弾は少女の皮膚を突き破り、蹂躙し、その命を奪うはずであった。
だが、血は流れない。幼さの残るソプラノが悲鳴を空に響かせることもない。代わりに、甲高い金属音で銃弾は弾かれるようにして軌道を変え、瓦礫へと着弾する。
それまで仮面のような無表情だった少女がようやく笑みを見せた。銃と血と亡骸で組み上げられた今の状況において少女のその聖者もしくは天使じみた笑顔は、あまりにも乖離していた。この状況であまりにも自然な微笑をたたえる少女のその表情は、圧倒的戦力差とともに制圧班を構成していた戦闘員へ恐怖を刻み込むには十分すぎた。
恐怖がもたらす選択はほとんどの場合、二つに限定される。恐怖からの逃走か、あるいは恐怖への反撃か。彼らは精強であるがために、後者を選択するという過ちを犯した。
少女に最も近い位置にいた隊員が近接格闘用のアーミーナイフを抜き、スプリンターを思わせる力強い助走によって十分な速度を得て、腹へナイフを突き出した。少女の位置から見て後方に位置する隊員は銃口を少女へ向けたまま引き金を絞るタイミングをはかっている。
――哀れだと、少女は一抹の憐憫を隊員へと向けた。何の疑いもなく彼は自分を殺すためだけに刃を抜き、こちらへと近付いてくるのだ。
「《四大が一つを統べし王よ。我が命ず》」
あくまで穏やかな死刑宣告が朗読される。半狂乱に陥った男たちの耳に、最期の言葉が静かに、響いた。
「《爆ぜよ》」
弔詞を読むような静かな声に覆い被さるようにして、水風船を割るような音が響いた。どこにも隊員の姿は見当たらないが、赤と白とその他の色を混じらせたミンチが瓦礫にこびりついている。
そこからは数秒だった。戦意を失っているにも関わらず恐怖に思考を占領された戦闘のプロフェッショナルは声と判別することも難しいような叫び声を挙げて少女の命を断とうとし、断末魔もなく消えてなくなった。
鉄の悪臭と血肉のカーペットが敷き詰められたのを確認して、少女はため息をついた。これでまた、しばらく血の臭いが取れなくなってしまったと少しだけ憂鬱になる。
自分の置かれた状況を再度少女は分析していた。制圧に向かっていただろう分隊からの連絡が途絶えた今、別動隊が現状を確認するためこちらへと近付いてくる可能性が極めて高い。幸い掃討は今も続いているらしく四方から銃声は響いており、通信途絶以外に異常を察知させる要素は見られないだろう。
いかに戦闘力で上回っているとはいえ、密集すれば事の運びが面倒になる可能性もある。この場を離脱して包囲前の少ない戦力を突破しつつ次の行動を模索することを決定し、少女は走り出した。
目指すのは聖堂都市として名高いユークロニア首都、キサナドゥ。魔術師たちを統べる【学院】の中枢都市だ。
◆ ◆ ◆
太古の遺跡群をそのまま利用した聖堂都市に程近い一本道。息の乱れを感じながら瓦礫の散らばる石畳を疾走する。
人影はない。人であったものはそこら中にある。理性の働かない兵隊に食い散らかされた残骸が撒き散らかされている。
血臭に眉をひそめながらも少女は走り続けた。遭遇した歩兵も彼女の後ろに赤くて柔らかいカーペットとなっていた。苦痛を感じる間もなかったのがせめてもの幸いだろう。
そうして、辿り着く。
大理石に似た、トレヴィの泉を思わせる白い階段を駆け上がる。休日には市民の憩いの場としても機能していた建築物も、今となっては墓標のようにさえ見える。
ゴシック調の重厚な意匠を施された大聖堂の扉を押し開けると、純白のローブを纏う禿頭の初老が立っていた。優しげな微笑みを浮かべながらリゼルを見て軽い会釈をし、
「……こうも遅れるとは貴女らしくもない。道に迷ったのですか?」
「からかわないでくださいデメティウス司教、状況を教えていただけませんか?」
禿頭の初老――デメティウス司教は開いていた分厚い本の表紙を優しく閉じ、優しい微笑みを浮かべて語りかける。
「マンスフィールド騎士団長のクーデターにNATOが呼応したのでしょう。幸いこの聖堂を守護する魔術は猊下のお墨付きですから発見すらされていません」
ウィリアム・マンスフィールド騎士団長。高慢ながらも采配の良さと辣腕で知られる学院の教官だ。母国である英国との結託を讒言されて諮問委員会が設けられ、騎士団長の座から転げ落ちるのも時間の問題とささやかれていた魔術師だった。確かに利己主義や保身に走って造反を企む理由は十分にある。
キサナドゥの大聖堂に施された彫刻の文様は賢哲として名高い大神父が施した魔術因子だ。人間の認識を司る数値である閾値を改竄し、あらゆる観測手段から発見を免れる高い階位の認識迷彩を定義されている。この大聖堂を実在するものとして認識できるのは初めからこの建造物の存在を認識しており、さらには定義された認識迷彩よりも高い観測魔術を扱える魔術師のみだ。
「実働部隊として都市を制圧しているのは聖堂騎士団一個連隊と強化装備を適用された作戦連合部隊、純粋な魔術戦闘でなければ一介の魔術師が敵う相手ではないでしょう。加えて指揮を執る人間が魔術を熟知している以上、極めて状況は不利。既に勝敗は決したも同然ということです」
諭すように言うデメティウスの表情はあくまで穏やかだ。
「容易く叩き潰せる相手を前に、逃げろと仰るのですか?」
「貴女が叩き潰そう相手は、まだその手足さえもこちらに見せていない。吐息を吹きかけられているようなものです。いくら貴女が殺戮を得意としていようと、吐息を相手に鉄槌を振り降ろせますか?」
「ならば、司教はこのままこの状態を見過ごせと仰るのですね。このままいいように蹂躙されるのを、おめおめと観ていろと――本当にそう仰るのですか?」
声音こそ平静を装っていたが、少女は憤っていた。穏やかに見える表情の中で、蒼い瞳だけが怒りの炎を燃え上がらせていた。
「歯車はしっかりと噛み合ったまま、間違うことなく動いています。この侵攻も当然の帰結なのですよ」
穏やかで、それゆえに冷淡でさえあった。介入の余地を許さない断定の言葉に、少女の表情が哀に歪む。
泣きじゃくる子供に語りかけるような表情で、デメティウスは語りかけた。
「そして《断界》の贈り名を持つ魔術師よ。貴女が向かうべきは貴女が懐かしむ極東の地です。貴女はいずれその地へ赴くことを求め、その地もまた貴女の来訪を切望するようになるでしょう。貴女の望むであろう結末が、その地に眠っています」
昔のことを少しだけ思い出した少女は頭を振った。過去の悪い夢を振り払うように。自分の非力が招いた惨劇を、救えなかった友人の最期を、その脳裏に蘇らせないように。
「既に他の王は件の地に向かいました。大図書館は言葉こそ嫌悪を露わにしていましたが、最もあの地に悔いを残した魔術師ですから。そして貴女もそうでしょう? リゼリア・セルバレルよ」
名を呼ばれた少女――リゼリア・セルバレルはため息をついた。デメティウスの言葉は何一つ間違っていない。この都市を滅ぼそうとする何者かを皆殺しにするよりも因縁の地に向かうことを、何の迷いもなく選んでいた自分への自嘲だった。
「……わかりました」
一息を置いて、少女は重々しく首肯した。満足げに微笑んだデメティウスが書物の頁をめくると同時、淡く穏やかな魔力光が息づくように灯される。
「人形師が残した機龍が鐘楼に眠っています。それを使えば数時間とせずとも海を超えることはできるでしょう」
そう言ってデメティウスが少女に渡したのは、大人の男の拳大にもなる巨大な宝石だった。
「ありがとうございます、司教」
感謝の言葉にデメティウスは、穏やかに、笑った。
「――貴女の明日が、光に満たされんことを」
非常にマイペースに更新していく予定です。ゆったりと読み進めていただければ幸い。
感想評価、力になります。