婚約破棄した王子の末路
童話ではありません
王城で開かれた夜会。
煌びやかなシャンデリアの下、貴族たちが華やかな衣装をまとい、酒を片手に談笑していた。
その会場の中央で――ひとりの王子が立ち上がった。
「公爵令嬢。あなたとの婚約を破棄する」
一瞬。
会場から音が消えた。
次の瞬間、ざわり、と大きなどよめきが広がる。
婚約破棄を告げられた公爵令嬢は、驚く様子すら見せなかった。
むしろ、目の前の王子を冷たい目で見つめている。
「……弟君殿下」
その声には、隠しきれない侮蔑が滲んでいた。
「あなたに、そのような権利があるとお思いですの?」
「なんだと?」
「殿下は王子とはいえ、国王陛下の許可なく婚約を破棄することなどできませんわ」
「……うるさい!」
「まあ」
公爵令嬢は口元を扇で隠し、くすりと笑った。
「本当にお可哀想な方ですこと」
周囲から、ひそひそと声が漏れる。
「また始まったぞ」
「弟君殿下は、本当にどうしようもないな」
「王族としての自覚がない」
その声を聞いても、王子は何も言わなかった。
ただ、隣に立つ少女を庇うように、一歩前へ出る。
「彼女には関係ない」
「あら?」
公爵令嬢が少女を見る。
「その娘が、何をしたのかご存じないのですか?」
少女の顔が青ざめた。
「殿下……」
「彼女を責めるな」
「まあまあ」
公爵令嬢は楽しそうに笑った。
「ご自分の立場もわきまえず、平民の娘を庇うなんて」
「……」
「殿下にはお似合いですわね」
くすくすと笑い声が広がる。
「愚かな王子と、身の程知らずの泥棒猫」
王子の拳が、わずかに震えた。
「……彼女を侮辱するな」
「でしたら、どうなさるの?」
公爵令嬢は一歩近づいた。
「まさか、私に何かできるとでも?」
「……」
「あなたは、何もできないでしょう?」
その言葉に、王子は黙り込んだ。
誰もが思った。
――また弟王子が恥を晒している、と。
そして公爵令嬢は、最後に笑った。
「それより――」
王子の隣にいる少女を指差す。
「そちらの泥棒猫を連れて行きなさい」
「なっ……!」
少女が震える。
王子が咄嗟に少女の前へ立った。
「やめろ!」
その瞬間だった。
「――そこまでだ」
冷たい声が響いた。
会場の奥から、ひとりの青年が歩いてくる。
王太子だった。
その姿を見た瞬間、貴族たちが一斉に頭を下げる。
「王太子殿下……!」
王太子は弟王子を一瞥した。
「また、お前か」
「兄上……」
弟王子は、気まずそうに目を逸らした。
王太子は深くため息をついた。
「何度言えばわかる。王族としての振る舞いを――」
「えーー。でも悪いのは」
「言い訳するな」
「はーーい」
周囲から、嘲るような笑い声が漏れる。
誰もが思った。
――やはり、王太子殿下も弟王子を見放している。
公爵令嬢も、満足そうに微笑んだ。
「王太子殿下。弟君は本当に困った方ですわね」
「ああ」
王太子は冷たく答えた。
「まったくだ」
弟王子は俯いた。
王太子はそれ以上何も言わなかった。
やがて兵士たちがやって来る。
「弟王子殿下。王命により、王城から追放を――」
「わかった」
弟王子は素直に頷いた。
そして最後に、王太子を見た。
「兄上」
「……なんだ」
「元気で」
「……お前もな」
それだけだった。
弟王子は、王広間を去っていった。
誰も、その背中を追わなかった。
誰も知らなかった。
――これが、弟王子が望んだ結末だったことを。
***
「……兄上」
王城の一室。
扉が閉じたあと、二人きりになった兄弟は向かい合っていた。
先程までとは違い、弟王子の顔からは笑みが消えている。
「私は、お前と共に国を作りたかった」
王太子が静かに言った。
「二人で支え合って、この国を守っていきたかった」
「……ごめん、兄上」
弟王子は俯いた。
「俺は、ここでは生きられない」
「……」
「母上と同じように、殺されてしまう」
王太子の指が震えた。
「そんなことは、私が――」
「兄上には無理だよ」
弟は静かに笑った。
「兄上は王太子だから」
「……」
「俺がここにいる限り、兄上まで巻き込まれる」
王太子は何も言えなかった。
「だから、これでいい」
「……よくない」
「ううん」
弟王子は首を振った。
「これが一番いいんだ」
そして、少しだけ笑う。
「兄上のことは、大好きだった」
王太子の目が揺れた。
「だった?」
「……今もだよ」
弟は笑った。
「兄上、さよなら」
扉が閉じる。
王太子は、ひとり残された。
「……私は、たった一人ここに残されるのだな」
幼い頃。
二人で庭を駆け回った。
剣の稽古をして、どちらが強いか競い合った。
くだらないことで笑い合った。
弟はいつも兄の後ろをついてきた。
――兄上!
――一緒に遊ぼう!
「……」
王太子は拳を握った。
「そんなもの……望んでいなかった」
望んでいたのは。
弟を追い出すことでも。
一人で王座に立つことでもない。
「俺の望みは……」
王太子は目を閉じた。
「お前と一緒に、この国を守ることだった」
***
王妃は、弟王子の母である側妃を殺した。
そして次に、弟王子を殺そうとした。
それを知ったのは、兄が十歳、弟が六歳の頃だった。
幼い王太子は必死に母である王妃から、弟を守ろうとした。
だが、王妃の権力は強大だった。
幼い王子にできることなど、ほとんどなかった。
だから――弟は考えた。
どうすれば、自分は殺されずに済むのか。
どうすれば、王妃から価値のない存在だと思わせられるのか。
そして。
弟王子は、自分自身を「愚かな王子」にした。
わざと失敗した。
わざと馬鹿な発言をした。
わざと人前で恥を晒した。
王族としての価値を失えば。
王位争いの邪魔にならなければ。
――殺される理由もなくなる。
だから弟王子は、誰よりも愚かな王子を演じ続けた。
王妃に、それを悟らせないように。
そしてついに。
王城から追放されるところまで、自分で仕組んだ。
――これで、生きられる。
兄だけが、その真実を知っていた。
だからこそ王太子は、弟を王城から逃がすのに手を貸した。
弟を守るために。
いつか弟が戻ってこられる国を作るために。
王妃に対抗するため、学友たちを、貴族味方につけた。
さらに、自ら集めた「暗部」と呼ばれる者たちを側に置いた。
すべては――弟を守るためだった。
***
「なぜだ」
王太子は、目の前の王妃を睨みつけた。
「なぜ、弟を傷つけた」
「王太子ともあろう者が、感情的になってはいけませんよ」
「……黙れ」
王妃は微笑んだ。
「あなたの弟は、愚かな子だったではありませんか」
「……」
「王族の恥。何の役にも立たない、側妃の子」
王太子の目が細くなる。
「それが何か?」
「何か、ですって?」
王妃は笑った。
「あの子が王子であること自体が、あなたにとって迷惑だったでしょう?」
「違う」
「あなたの地位に縋るしかない。頭も悪い。人望もない。あんな子――」
「黙れ」
低い声が落ちた。
王妃の笑みが止まる。
「私は、弟を一度たりとも迷惑だと思ったことはない」
王妃は笑った。
「では、なぜ追放したのです?」
「……生きていてほしかったからだ」
王太子は、静かに答えた。
「それ以外に、理由がいるか?」
王妃の顔が、僅かに強張る。
その横で、公爵令嬢が口を挟んだ。
「王太子殿下。今さら弟君を庇うおつもりですか?」
王太子は、公爵令嬢を見た。
その目には、王妃を見る以上の嫌悪が浮かんでいた。
「……お前もだ」
「私?」
「弟を嘲笑ったな」
「……」
「愚かな王子だと。何もできない王子だと」
「ですが、あれは事実――」
「違う」
王太子の声が冷たくなる。
「弟が、そう見せていただけだ」
「……え?」
「お前たちは、誰も気づかなかった」
公爵令嬢の顔から笑みが消える。
「弟がわざと失敗していたことも」
「……」
「わざと愚かに振る舞っていたことも」
「そんな……」
「弟は、生きるためにそうするしかなかった」
王太子は二人を見据えた。
「お前たちが、殺そうとしたからだ」
王妃が声を荒らげる。
「何を馬鹿な――」
「あいつは、お前たちに殺されないために、王子であることを捨てた」
公爵令嬢が震える。
「では……あの夜も……」
「ああ」
王太子は答えた。
「婚約破棄も」
そして、淡々と続ける。
「王城からの追放も」
「……」
「全部、弟自身が望んだことだ」
公爵令嬢の顔が青ざめる。
「お前たちは、ずっと弟を馬鹿にしていた」
王太子の声が低く響く。
「けれど――」
一歩、二人へ近づく。
「最後まで騙されていたのは、お前たちのほうだ」
「……!」
公爵令嬢は震える声で言った。
「私は……王太子殿下のために」
「黙れ」
王太子は吐き捨てた。
「あの女が」
王妃を指す。
「弟を殺そうとしていることを知りながら、お前はその手助けをした」
「違います。私はただ――」
「お前が何を言おうと、絶対に許さない」
王太子は、公爵令嬢を見下ろした。
「私にとって、お前はただの下劣な女だ」
「……!」
公爵令嬢の顔が歪む。
王太子は冷たく告げた。
「喜べ」
「……何を?」
「お前には、母上の隣の牢を用意してある」
王妃が目を細めた。
「……牢、ですって?」
「ああ。母上も、お前も、これからは王宮の牢で過ごすことになる」
「王太子殿下! わたくしは公爵家の娘です!」
「それがどうした」
王太子は冷たく言い放った。
「弟を殺そうとした者に、身分など関係ない」
「そんな……!」
「母上と仲良しだっただろう? せいぜい二人で仲良くするといい」
「王太子殿下……!」
公爵令嬢が叫んだ。
「弟君に惑わされて――」
「黙れ!」
王太子の怒声が部屋を震わせた。
「弟を見下したことも」
「……」
「苦しんでいる姿を見て笑ったことも」
「……」
「母上と一緒になって、弟を追い詰めたことも」
王太子の目に、冷たい光が宿る。
「私は絶対に許さない」
王妃が、ゆっくりと口を開いた。
「では……私たちを殺すのですか?」
王太子はしばらく黙っていた。
「……殺したい」
二人の顔が強張る。
「私は、お前たちを殺したい」
それは、嘘ではなかった。
「それを、私は今も我慢している」
「……なぜ?」
王太子は目を閉じた。
脳裏に浮かぶ。
幼い弟。
いつも自分の後ろをついてきた弟。
最後に笑って言った言葉。
――兄上のことは、大好きだった。
「なぜだと思う?」
王太子は、静かに言った。
「お前たちが殺そうとした、弟が……」
声が、わずかに震える。
「それだけはやめてくれと、私に頼んだからだ」
二人の目が見開かれる。
「……殺さないでくれ、と」
王太子は二人を見つめた。
「弟は最後まで、お前たちのような者にも優しかった」
長い沈黙が落ちた。
「二人を連れていけ」
王太子が告げると、控えていた騎士たちが進み出た。
「王妃は牢獄へ。公爵令嬢も同じく収監しろ。二人は隣の房に入れろ」
「お待ちなさい! 私は王妃ですよ!」
王妃の声が響く。
だが、騎士たちはもう頭を下げなかった。
王妃と公爵令嬢は、それぞれ騎士に囲まれ、部屋から連れ出されていった。
王太子は窓の外を見る。
もう弟の姿は、どこにもない。
それでも。
きっと、生きている。
王城の外で。
自分の知らない場所で。
弟は今も、生きている。
「……それだけで、いい」
王太子は小さく呟いた。
本当は。
一緒にいたかった。
二人で笑って。
二人で国を守りたかった。
けれど――。
「いつか……」
王太子は、誰もいない窓の外へ向かって呟く。
「弟が安心して帰ってこられる国を作る」
それが、兄に残された唯一の願いだった。
*
王城から遠く離れた街道。
「殿下、旅支度はできています! 食料も確保済みです!」
「……いつの間に?それは?」
「王太子殿下がお金を渡してくれました!」
「……兄上が?」
「はい! これだけあれば、平民なら一生働かなくても暮らせますよ!」
「……過保護かよ」
弟王子は、呆れたように空を仰いだ。
その隣で、泥棒猫と言われた少女はにっこりと笑った。
「いいお兄さんですね!」
「……そうだな」
弟王子は小さく笑った。
「自慢の兄上だよ」
「残念な王子」「愚かな王子」が婚約破棄をする物語は、よく見かけます。
でも、ふと思ったのです。
王族は、生まれたときから最高の教育を受けているはず。王として国を治めるため、人を従わせる方法も、政治も、駆け引きも学んでいるでしょう。
それなのに、どうしてそんな愚かな振る舞いをするのでしょうか?
本当に、王子自身が愚かだから?
それとも、誰かがそうなるように仕向けたのでしょうか。
王位を狙う対抗馬の策略か。
妃たちの母親同士の権力争いか。
国力を削ごうとする周辺諸国の陰謀か。
あるいは、王位継承権を持つ王の兄弟たちの思惑か。
それとも、王家を弱体化させ、王権の簒奪を狙う臣下たちのクーデターか。
王子が愚かに見えるのなら、その裏には誰かの思惑があるのかもしれない。
そんな疑問から、物語を考えました。




