蹂躙
「――試してみます?」
国境の街の中心にある石畳の広場。レインのその一言と、彼から放たれた目に見えんばかりの圧倒的な殺気は、周囲の空気を完全に凍結させていた。
白銀の鎧を着込んだゼーレ騎士団の隊長バルドは、脂汗にまみれた顔をヒクヒクと引きつらせ、一歩も動くことができずにいた。心臓を直接わしづかみにされたような根源的な恐怖。だが、彼の中の肥大化した貴族としてのプライドが、このまま無様に逃げ出すことを許さなかった。
「ひ、ひぃ……っ、ふ、ふざけるなあっ!」
バルドは裏返った声で叫び、無理やり後ずさりをしてレインの間合いから逃れた。そして、自らの震えを誤魔化すように、血走った目で周囲を睨みつける。
「き、貴様のような底辺の平民が、騎士に向かって殺気を放つなど万死に値する! だ、だが、我々は寛大なる王国の騎士! 貴様のようなゴミにも、名誉ある決闘の機会を与えてやろう!」
「決闘、ですか?」
「そうだ! 正式な立会いのもと、貴様のその小賢しい鼻っ柱をへし折ってやる! おい、お前ら! こいつを嬲り殺しにしろ!」
バルドが指差したのは、彼の後ろで辛うじて気絶せずに立っていた五人の騎士たちだった。
彼らもまた、ゼーレ砦での劣悪な生活環境のせいで目の下には濃い隈を作り、鎧は薄汚れている。しかし、相手が『魔力ゼロで剣の才能もない雑用兵』であるという先入観と、自分たちが五人がかりであるという数的優位が、彼らの顔に下品な嘲笑を取り戻させた。
「へっ、隊長も人が悪い。こんなヒョロガキ、俺たち精鋭が五人も束になる必要なんてありませんぜ」
「どうせさっきの殺気みたいなのも、何か安物の魔道具でも使ったハッタリだろうよ。いくらなんでも、竹槍で俺たち騎士の鎧を貫けるはずがねえ」
彼らは腰から剣を抜き放ち、レインを半包囲するようにジリジリと間合いを詰めていく。
野次馬として集まっていた街の住人や冒険者たちが、慌てて大きく円を開け、即席の闘技場が出来上がった。
冒険者たちは固唾を飲んで見守っていた。彼らはすでに、レインがギルドに持ち込んだ『ゴブリン20体の耳の山』を知っている。この常識外れの竹槍使いが、腐っても王国の正規騎士五人を相手にどう立ち回るのか。
だが、当のレインはといえば、少し困ったようにポリポリと頬を掻いていた。
「ええと……相手をするのは構わないんですけど、俺、この後市場に行きたいんですよね。特売の卵が売り切れちゃうと困るので、早く終わらせてもいいですか?」
「なめやがって……! ズタズタに切り裂いて豚の餌にしてやる!」
レインの的外れな、しかし本人は至極真面目な発言が、騎士たちの怒りに火をつけた。
一人の騎士が、怒号とともに地面を蹴る。
「死ねえええええっ!」
大上段から振り下ろされる、必殺の剣撃。
それが、訓練試合(模擬戦)の開始の合図だった。
――開始から、一秒。
「……遅いなぁ」
レインの目には、騎士の動きがひどくスローモーションに見えていた。
無理もない。彼が日々砦で相手にしていたのは、予測不能な動きで襲いかかってくるネズミの群れや、飛び交うハエを竹槍の切っ先で正確に突いて落とすという、常軌を逸した自主訓練──本人は暇つぶしだと思っていた、の対象だったのだから。
レインは半身になって振り下ろされる剣を紙一重で躱すと、スッと右腕を前に押し出した。
――突き。
パァン! と、空気が弾けるような乾いた音が響く。
殺さないように、あえて槍の腹を使い、最小限の力で騎士の胸当ての中心を突いたのだ。
しかし、神域に達した彼の槍術が生み出す衝撃波は、それだけで十分すぎた。
「がはっ……!?」
先頭の騎士は、まるで目に見えない大砲の弾を食らったかのように、両足が地面から離れ、数メートル後方へと錐揉み回転しながら吹き飛ばされた。そして、白目を剥いて地面に激突し、ピクリとも動かなくなる。
――二秒。
「な、なんだと!?」
「ええい、怯むな! 左右から同時に掛かれ!」
仲間の信じられない吹っ飛び方に一瞬硬直した残りの四人のうち、三人が同時にレインへと斬りかかる。
右、左、そして正面。
完全に退路を塞いだ、実戦経験に裏打ちされた見事な連携攻撃。
だが、レインにとっては、飛んでくる薪の束を空中で割る作業よりも単純な軌道でしなかった。
レインは低く沈み込み、手にした竹槍を体の中心でクルリと旋回させた。
極限まで圧縮された闘気と無意識の魔素が、竹槍の周囲に小さな竜巻のような旋風を巻き起こす。
「ふっ!」
――薙ぎ払い
それは、突きというよりも、槍の遠心力を利用した不可視の衝撃波の放射だった。
「「「ぐわあああああっ!!」」」
迫り来ていた三人の騎士たちは、レインに触れることすらできず、鎧ごと見えない巨大なハンマーで殴られたように同時に吹き飛ばされた。
金属がひしゃげる鈍い音とともに、三人は広場の石畳を無様に転がり、そのまま意識を刈り取られる。
――そして、三秒。
最後の一人として後方に残っていた騎士は、目の前で起きた光景がまったく理解できていなかった。
たった二回の瞬きの間に、屈強な仲間四人が、ゴミ屑のように吹き飛ばされて転がっている。
「あ……え……?」
騎士が呆然と声を漏らした瞬間。
彼の視界から、亜麻色の髪の青年の姿がフッと掻き消えた。
「――終わりです」
耳元で、静かな声が囁かれた。
騎士がハッと目線を落とすと、自分の喉元の皮膚に触れるか触れないかのギリギリの距離で、黒く焦げた竹槍の切っ先がピタリと止まっていた。
あと一ミリでも彼が唾を飲み込めば、自ら喉を貫いてしまうほどの、完璧すぎる寸止め。
死神の鎌を突きつけられた騎士は、手からカランと剣を落とし、そのまま糸が切れた操り人形のようにへたり込んだ。股間からは、生温かい液体が石畳へと広がっていく。
広場は、完全な静寂に包まれていた。
息を呑む音すら聞こえない。
冒険者たちも、街の住人たちも、そして何より、少し離れた場所で踏ん反り返っていたバルドも、ただただ目を大きく見開いて、その光景を脳に刻み込むことしかできなかった。
王国が誇る騎士団の精鋭五人が。
底辺の雑用兵が持つ、ただの一本の竹槍の前に。
時間にしてわずか『三秒』で、誰一人としてカスり傷すら負わせられずに全滅したのだ。
圧倒的、という言葉すら生ぬるい。それはもはや、人間と天災の差であった。
「ふぅ。なんとか卵の特売には間に合いそうだな」
そんな氷点下の静寂の中、ただ一人、緊迫感の欠片もない呑気な声が響く。
レインは竹槍をヒュンと風を斬って背中に戻すと、地面に置いていた紙袋を大事そうに抱え直した。
「それにしても……やっぱり騎士の人たち、砦の生活で相当疲れてるみたいだな。動きがすごく遅かったし、ちょっと突いただけでみんな倒れちゃったし……。ちゃんとご飯食べて、お風呂に入ったほうがいいですよ?」
本気で心配そうに首を傾げるレイン。
彼にとって今の攻防は、『疲れてフラフラのおじいちゃんが転ばないように、ちょっと支えてあげた』程度の感覚でしかなかったのだ。
「ば、ばかな……ばかなばかなばかなぁぁぁっ! なんだそのふざけた強さは! 貴様は魔力ゼロの無能なゴミではなかったのかぁぁぁっ!?」
バルドの絶叫が、ようやく広場の静寂を打ち破った。
しかし、その声はもはや怒りではなく、完全に心が折れ、理解不能な現実に直面した者の悲鳴であった。
自身の絶対的な価値観が崩壊していく音を聞きながら、バルドは腰を抜かしたまま、ただ後ずさることしかできない。
追放された無能な雑用兵の圧倒的な力が、ついに白日の下に晒された瞬間。
それは同時に、彼らを不当に虐げてきた傲慢な貴族たちへの、容赦のない蹂躙の本格的な幕開けでもあった。




