冒険者ざわつく
日が西に傾き始め、空が茜色に染まる頃。
国境の街にある冒険者ギルドは、一日の依頼を終えて帰還した冒険者たちで最も賑わう時間を迎えていた。
汗と土、そしてわずかな血の匂い。エールの入った木樽のジョッキがぶつかり合う音と、本日の戦果を誇張して語る荒くれ者たちの大きな笑い声。
そんな熱気と喧騒に包まれたギルドの重厚な木扉が、ギィッと控えめな音を立てて開いた。
「すみません、討伐の報告をお願いします」
少し眠たげな亜麻色の髪を揺らしながら入ってきたのは、つい数時間前にこのギルドで嘲笑の的になっていたばかりの平民の青年、レインだった。
相変わらずボロボロの革鎧を着ており、その手には先端を焦がしただけの安物の『ただの竹槍』が握られている。そして何より異様なのは、彼の姿に「戦闘の痕跡」が一切見受けられないことだった。息の乱れはおろか、服の汚れや、返り血の一滴すら浴びていない。まるで、近所の八百屋へお使いに行ってきた帰り道のような、あまりにも自然な出で立ちである。
受付カウンターに立っていた女性職員は、レインの姿を認めるなりパチリと目を丸くした。
「えっ……? レイン様? もうお戻りになられたのですか?」
彼女の頭の中には、疑問符が渦巻いていた。
彼が先ほど受注していったのは、初心者向けとはいえ『ゴブリンの巣の討伐』である。通常、ゴブリンが群れを作っている窪地などの拠点を見つけ出し、罠を張り、連携を取りながら一匹ずつ確実に処理していくには、熟練の5人パーティでも丸一日はかかるのが常識だ。
「もしかして、群れの数が多すぎて逃げてこられたのでしょうか? それならそれで構いませんよ。命あっての物種ですし、初心者にはよくあることですから……」
受付嬢が慰めるような、どこかホッとしたような笑みを浮かべた時だった。
「いえ、全部終わりましたよ。討伐証明の耳って、ここで渡せばいいんですよね?」
レインは背中に担いでいた麻袋をどっこいしょと下ろし、カウンターの上に無造作に置いた。
ゴトリ、と。
見た目以上に中身が詰まっていることを示す重々しい音が、周囲の喧騒をわずかに削り取る。
「……はい?」
「だから、ゴブリンの討伐です。巣にいたやつ、とりあえず全部やっておきました」
レインは袋の口を解き、中身をカウンターの上のトレイにザラザラと流し込んだ。
転がり出たのは、緑色の醜悪な耳、耳、耳、耳。
強烈な血の匂いが広がり、受付嬢の顔からスッと血の気が引いた。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……全部で20体分あるはずです。数えてもらえますか?」
「え……? は……? に、20体……?」
受付嬢の声が裏返り、彼女の動きが完全にフリーズした。
無理もない。彼女の目の前にあるのは、間違いなく討伐したばかりの新鮮なゴブリンの右耳だ。それが山のように積まれている。
「一人で……? この、たった数時間という短時間で……ですか!?」
思わず叫んでしまった受付嬢の金切り声は、静まり返りつつあったギルド内に響き渡った。
その声に反応し、周囲で酒を飲んでいた冒険者たちが一斉にこちらを振り向く。
「おい、なんだなんだ?」
「あのガキ……昼間に竹槍で登録した、農民の小僧じゃないか?」
「嘘だろ!? 一人でゴブリンの巣を潰したってのか!?」
ざわめきが波のように広がる。
剣、魔法、弓が至高とされ、槍など最底辺の雑魚武器とされているこの世界において、竹槍一本を持っただけのヒョロヒョロの青年が、単独で20体もの魔物を数時間で殲滅するなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだった。
「どうせ森で行き倒れていた他の冒険者の獲物をかすめ取ってきたんだろう! 竹槍で魔物が倒せるかよ!」
一人のベテラン剣士が、嘲笑うように声を上げた。周囲からも「ああ、そうだな」「違いねぇな」「ズルはいかんぞ」と同意のヤジが飛ぶ。
だが、騒ぎを聞きつけて奥の部屋から出てきた隻眼のギルドマスターが、カウンターの上の『耳の山』を一瞥するなり、その場の空気を一変させた。
「……静かにしろ、馬鹿共が。節穴の目をしているなら、その眼球をくり抜いて豚の餌にしてやろうか」
「マ、マスター……?」
歴戦の戦士であるギルドマスターは、震える手でゴブリンの耳を一つ摘み上げた。
「切り口を見ろ。すべて同じ角度、同じ鋭さの刃で一刀のもとに切り落とされて……ん、いや、そもそも切り落としたんじゃない。これは……なんだ? 傷口の細胞が完全に死滅している。極限まで圧縮された凄まじい『魔素』と『闘気』を伴った一撃で、急所だけを針の穴を通すように貫かなければ、こんな綺麗な死に顔にはならねぇ」
ギルドマスターの額から、冷や汗がツーッと流れ落ちた。
彼は理解したのだ。この耳の持ち主たちは、自分たちが何に殺されたのかすら理解する前に、不可視の神速の一撃で命を絶たれたのだと。抵抗の痕跡すらない、完全なる一方的な蹂躙。
「小僧……お前、一体森で何をした?」
「何って……ただ、向かってくるゴブリンの頭を突いただけですけど」
周囲の凄まじい緊張感と、歴戦の冒険者たちの顔面蒼白な様子を他所に、レインはポカンと首を傾げた。
「あの、その…俺、何かマズいことしましたか?」
彼の脳裏には、ゼーレ砦での過酷な日々がフラッシュバックしていた。
(砦の厨房の裏にネズミが湧いた時、バルド隊長から『一匹でも逃がしたら夕飯抜きだ!』って怒鳴られて、100匹くらいまとめて槍で突いた時は、もっと速く動かないと間に合わなかったし……それに比べたら、ゴブリンは的が大きくて遅いから、すごく簡単だったんだけどな……)
レインにとって、この偉業は『ネズミ退治以下の雑用』でしかなかった。
しかし、そんな彼の無自覚な思考など知る由もないギルドの面々は、ただただ戦慄するしかなかった。
「……いや、マズいことなど何一つない。見事な仕事だ」
ギルドマスターは深く息を吐き出し、呆然としている受付嬢に目配せをした。
「特別報酬を弾んでやれ。それと、こいつのランク評価は即刻見直す。……こんなバケモノを最低ランクのまま野放しにしておいたら、ギルドの目が疑われるからな」
その言葉に、ギルド内は水を打ったような静寂に包まれた。
先ほどまでレインを嘲笑っていた冒険者たちは、今や信じられないモノを見るような目で、いや、畏怖の念を込めて彼を見つめている。
「お待たせいたしました……! 規定の討伐報酬に加え、早期単独討伐の特別ボーナスを含めまして、銀貨5枚となります!」
「えっ、銀貨5枚も!?」
ジャラリと音を立てて差し出された硬貨を見て、レインの顔がパァッと明るくなった。
それは、彼がゼーレ砦で不眠不休で働かされていた時の、実に3ヶ月分に相当する給料だったからだ。
「すごい! 冒険者って、砦の雑用よりずっと楽なのに、こんなに儲かるんだ! これで今夜は、解体した余った熊の肉で豪勢なシチューが作れるぞ!やったぁ!」
ありがとうございましたと無邪気に喜ぶレインの後ろ姿を見送りながら、ギルドマスターは頭を抱えた。
「……おい、あいつ今、なんて言った?」
「たしか……砦の雑用より楽、と……」
「世の中、どうなってやがるんだ……」
かくして、追放された無能な雑用兵による『竹槍一本での無双劇』は、冒険者ギルドに消えることのない深い衝撃と、伝説の第一歩を強烈に刻み込むこととなったのである。
そして、街には白銀の鎧の集団が近づいていたのであった。




