竹槍ゴブリン無双
街の喧騒から離れ、少し歩を進めると、鬱蒼とした木々が日の光を遮る深い森へと辿り着く。
静まり返った森の中を、レインは急ぐでもなく、ただ村の裏山を散歩するようなゆったりとした足取りで進んでいた。
彼の出で立ちは、使い古されたボロボロの革鎧に、くすんだ亜麻色の髪という、どこにでもいる平凡な村人の青年そのものである。その手には、先端を斜めに切り落として火で炙っただけの、軍から支給された『ただの竹槍』が一本、無造作に握られていた。
「ギルドの受付嬢さん、すごく心配してくれてたな……」
少し眠たげな目を瞬かせながら、レインはぽつりと呟く。
この世界において、武器の優劣は剣、魔法、弓、そして槍の順であると常識づけられている。槍は完全な雑魚武器扱いであり、それをメインに据える冒険者など皆無に等しかった。しかもレイン自身は、魔力が完全にゼロであり、剣の才能も絶望的にない。だからこそ、自分が底辺の存在であると、彼は本気で思い込んでいた。
彼が受けた最初の依頼は『ゴブリン討伐』。
ゴブリンは単体であれば農民でも撃退可能な最弱級の魔物だが、ひとたび群れを形成し『巣』を作ると、その脅威度は跳ね上がる。通常、ゴブリンの巣の殲滅依頼には、前衛の剣士、後衛の魔法使いや弓使い、そして回復役などを揃えた、最低でも5人の熟練パーティで挑むのが冒険者の常識であった。
しかし、現在この薄暗い森に足を踏み入れているのは、レインただ一人である。
獣道を外れ、獣の糞と腐敗臭が入り混じる不快な匂いの源泉へと歩みを進めると、やがて木々が開けたすり鉢状の窪地に行き当たった。
「……あそこか」
窪地の底には、泥と枯れ木で乱雑に作られたドーム状の小屋がいくつも並んでいた。ゴブリンの巣である。
レインの気配に気づいたのか、あるいは侵入者の匂いを嗅ぎつけたのか。小屋の中から、緑色の肌を持ち、醜悪な笑みを浮かべた小鬼たちが次々と這い出してきた。手には錆びた鉈や、骨で作られた粗末な棍棒を握りしめている。
「ギィィッ!」
「ギャギャギャッ!」
耳障りな鳴き声を上げながら、ゴブリンたちは一斉にレインを包囲するように散開した。ざっと数えて、その数は20体。通常の冒険者であれば、単独で囲まれた時点で死を覚悟する絶望的な数である。
だが、レインの表情には欠片ほどの恐怖も、焦燥も浮かんでいなかった。ただ、面倒な雑用――例えば砦の裏庭の草むしりや、大量の薪割りを命じられた時のような、淡々とした作業員の顔をしている。
「それじゃ、さっさと終わらせて帰ろう」
レインは息を細く吐き出し、竹槍をスッと中段に構えた。
その瞬間――森の空気が、ピリッと凍りついた。
彼には、世界の大気中に漂うエネルギーである『魔素』を操る魔法の才能はない。しかし、3年間、1日も欠かさず狂ったようにただひたすら竹槍を振り続けた結果、彼の人体はすでに生物の限界を突破していた。極限の修練は、彼に空間の歪みや魔素の流れを感覚で読み取る『神域』の槍術をもたらしていたのだ。
「ギィヤァァァッ!」
業を煮やした先頭のゴブリン3体が、奇声を上げながら同時に飛びかかってくる。
レインは動じない。彼の無意識下で極限に圧縮された闘気と、大気中から直接絡め取られた魔素が、安物の竹槍の先端へと収束していく。
――突き。
空気が破裂するような小さな音が鳴った。
ゴブリンたちの視点からは、レインが腕を動かしたようにすら見えなかっただろう。槍の軌道が完全に見えないのだ。
飛びかかってきた3体のゴブリンは、レインの数メートル手前でピタリと空中で静止し、次の瞬間、まるで糸の切れた操り人形のようにボトボトと地面に落下した。その眉間には、例外なく小さな風穴が正確に穿たれている。
「……あれ?」
ゴブリンたちの足が止まる。知能の低い彼らでも、目の前で起きた異常事態を本能で理解したのだ。仲間がどうやって殺されたのか、全く見えなかったことに。
「ギャ、ギャァッ……!?」
「まとめて来ないなら、こっちから行くよ」
レインが一歩、地を蹴る。
それは、砦で常人離れしたスピードで水汲みや薪割りをこなしていた時と変わらない、一切の無駄がない洗練された歩法だった。
ゴブリンの群れの中に、風が吹き荒れる。
いや、それは風ではない。レインの振るう竹槍が生み出す、圧倒的な死の旋風だった。
――突き。
――突き。
――突き。
悲鳴を上げる暇すらなかった。逃げ出そうと背を向けた者も、ヤケクソで棍棒を振り下ろした者も、等しく結果は同じだった。
レインがただ真っ直ぐに腕を伸ばすたび、極限の魔素を纏った竹槍は神話級の武具をも凌駕する貫通力を生み出し、ゴブリンたちの硬い頭蓋骨を、分厚い胸板を、最も急所となる部位だけを、まるで豆腐でも突くかのように容易く貫通していく。
そこには血飛沫すら舞わない。速すぎ、そして鋭すぎる一撃は、傷口から血が噴き出す暇すら与えないのだ。
「ふっ、はっ、と……」
レインの息遣いは乱れない。彼にとってこの程度の運動は、砦の騎士団全員分の食肉を、刃を通さない魔獣相手に解体していた過酷な雑用労働に比べれば、準備運動にも満たないものだった。
開始から、わずか数分後。
森の窪地には、再び不気味なほどの静寂が舞い戻っていた。
20体いたゴブリンは、ただの一匹も逃がすことなく、全て急所を一突きにされて地面に転がっている。文字通りの『全滅』である。
返り血の一滴すら浴びていないレインは、足元に転がるゴブリンの死体の山を見下ろして、竹槍を肩に担ぎ直した。
「……うーん」
彼は少しだけ困ったように、自分の手にある竹槍と、全滅したゴブリンたちを交互に見比べた。そして、心底不思議そうに首を傾げる。
「冒険者の仕事って、もっと命がけの過酷なものだと思ってたんだけど……こんな簡単なのでいいのかな?」
彼の実力は、すでに人の領域を遥かに超えている。だが、底辺の雑用兵として不当に虐げられ続けてきた温厚な青年は、自身が成し遂げた『単独でのゴブリンの巣の数分での殲滅』という偉業の異常さに、未だに微塵も気づいていなかった。
(いや、今回のゴブリンの集団が弱かっただけかな。こんなので慢心してちゃだめだ)
いつもの謙虚すぎる思考に戻り、気を引き締め、顔を叩くレイン。
「とりあえず、討伐証明の耳を切り取って、魔石を持って帰るか。今日の夕飯はどうしようかな」
圧倒的な無自覚さと、常識外れの戦闘力。
手にした一本の竹槍だけを頼りに、追放された雑用兵の規格外な伝説は、この薄暗い森の片隅から、誰にも知られずひっそりと幕を開けたのだった。




