森で出会った魔物
王国と隣国を隔てる『暴食の森』。
太陽の光さえまばらな鬱蒼とした樹海の中を、レインは軽快な足取りで進んでいた。
背負い袋はずっしりと重い。先ほど遭遇した巨大な熊――アイアン・グリズリーから剥ぎ取った分厚い銀色の毛皮と、上質な霜降りの肉がたっぷりと詰まっているからだ。
「とりあえず、今夜の食料は確保できたな。あとは、日が暮れる前に野営できそうな開けた場所を見つけないと」
右手に握った竹槍を杖代わりにしながら、レインは周囲を警戒する。
砦の兵士たちは「魔の森に入れば明日には骨になっている」と嘲笑っていたが、三年間の雑用生活で培った体力と、深夜の訓練場で研ぎ澄ませた感覚のおかげか、森を歩くこと自体にそれほどの苦痛は感じていなかった。
むしろ、誰からも罵声を浴びせられない静かな環境が、今のレインにとってはひどく心地よかった。
(砦のみんなは、今頃どうしてるかな。今日の水汲み当番は誰だろう。薪割りのストックも、あと三日分くらいしか残してなかったはずだけど……)
自分が追放されたことによる砦の混乱など露知らず、レインは人の良い顔でそんなことを考えていた。
その時である。
カサッ――。
前方の鬱蒼とした茂みが、風もないのに不自然に揺れた。
同時に、鼻を突くような強烈な獣の悪臭と、明確な『殺意』が周囲の空気をピリッと張り詰めさせる。
「……何かいる」
レインは足を止め、竹槍の柄を軽く握り直した。
三年間の素振りで身についた、完全に脱力しながらも、いざという時には爆発的な力を生み出す自然体の構え。
『ギャ……グギャアアッ!!』
耳障りな金切り声とともに、茂みを突き破って飛び出してきたのは、緑色の醜悪な肌を持った小鬼――ゴブリンだった。
身長は子供ほどだが、その腕力は大人を凌ぎ、手には錆びついた粗悪な剣が握られている。単体ならば新米冒険者の登竜門とされる相手だが、決して油断していい魔物ではない。
ゴブリンは血走った目をレインに向け、獲物を見つけた歓喜の声を上げながら、その鋭い牙を剥き出しにして飛びかかってきた。
錆びた剣が、レインの首めがけて振り下ろされる。
「――っ」
レインは息を呑んだ。
恐怖からではない。先ほどの巨大熊の時と同じだ。
(……遅い)
彼我の距離、剣の軌道、ゴブリンの筋肉の収縮。
そのすべてが、レインの目にはコマ送りのように『ゆっくり』と認識できていた。
日々の雑用で疲労困憊の身体を引きずりながら、毎日一万回繰り返してきた素振り。
いつしか彼は、ただ槍を振るだけでなく、自らの呼吸、筋肉の連動、重心の移動、そして周囲の大気(魔素)の流れまでを完全に掌握する『無の境地』へと至っていた。
その神域の感覚からすれば、ゴブリンの力任せの飛びかかりなど、止まっているに等しい。
レインは半歩だけ後ろに下がり、剣の軌道を躱す。
そして、流れるような動作で竹槍を構え直すと――無造作に、一突き。
ドスッ。
鈍い音とともに、手元に微かな感触が伝わった。
「グギャ……?」
空中に身を躍らせていたゴブリンは、目を見開いたまま地面に落下した。
その喉仏には、レインの放った竹槍が寸分の狂いもなく深々と突き刺さっている。頸動脈と気道を同時に破壊されたゴブリンは、ピクピクと痙攣したのち、すぐに動かなくなった。
血の付いた竹槍を引き抜き、レインは瞬きを繰り返した。
「……あれ?」
自分でも驚いていた。
ゴブリンという魔物と対峙したのは初めてだった。ゼーレ砦の兵士たちが「たかがゴブリン数匹に手こずった」と愚痴をこぼしているのを何度も聞いていたため、それなりに恐ろしい相手なのだと思い込んでいた。
しかし、実際に戦ってみるとどうだ。
槍が、まるで自分の腕の延長であるかのように、いや、それ以上に正確に動いた。
狙いすましたわけではない。体が勝手に「ここを突けば終わる」と判断し、最適な速度と角度で竹槍を繰り出していたのだ。
「まぐれ……か?」
そう呟き、竹槍の穂先についた血を振って落とした直後。
『ギギギ……!』
『グギャアアッ!!』
『キシャアアァァッ!』
仲間の血の匂いに惹きつけられたのか、周囲の茂みから立て続けに三体のゴブリンが姿を現した。
一体は錆びた斧を持ち、別の二体はひび割れた棍棒を構えている。彼らは倒れた同胞の死体を見ると激昂し、三方向から同時にレインへと殺到した。
「三体同時……!」
普通の人間なら、絶望して逃げ出すか、足をすくませて狩られるのを待つしかない状況。
だが、レインの心は奇妙なほどに凪いでいた。
深夜の訓練場。月明かりだけを頼りに、無限に続くかと思われた孤独な素振りの時間に比べれば、眼前の敵の動きなど児戯にも等しかった。
(右から斧、左から棍棒、正面は少し遅れて突っ込んでくる)
レインの脳は一瞬で戦況を分析し、最適な解を導き出す。
彼は深く息を吸い込み――動いた。
まずは右。
大上段から斧を振り下ろそうとするゴブリンの懐へ、まるで滑るように潜り込む。
相手の攻撃が届くより早く、下から上へかち上げるような鋭い『突き』。
ズパァンッ!
竹槍はゴブリンの顎下から脳天へと易々と貫通し、一体目を即死させる。
次いで左。
同胞が殺されたことにひるんだ棍棒持ちのゴブリンに向け、レインは竹槍を引き戻す勢いをそのまま利用し、横手へ力強く『払う』。
バキィッ!
鞭のようにしなった竹の腹がゴブリンの胴体を真横から薙ぎ払う。
ただの竹のはずが、圧縮された闘気と遠心力を伴ったその一撃は、鋼のメイスに匹敵する破壊力を生み、ゴブリンの肋骨を粉々に砕いて数メートル先の大樹まで吹き飛ばした。
残るは正面の一体。
恐怖で足を止め、逃げ出そうと背を向けた三体目の背中へ向けて、レインは静かに踏み込み、最後の一振りを放つ。
無駄な力みが一切ない、完璧な『突き』。
ドスッ。
背中から心臓を貫かれた三体目のゴブリンが、声も上げずに崩れ落ちた。
「ふぅ……」
わずか数秒の出来事。
レインは小さく息を吐き、構えを解いた。
周囲には、四体のゴブリンの死体が転がっている。彼自身の体には、傷一つ、血の一滴すら浴びていない。
静寂を取り戻した森の中で、レインはじっと自分の両手と、そこに握られた竹槍を見つめた。
先ほどの巨大熊は「的が大きくて柔らかかっただけ」と自分に言い聞かせた。しかし、すばしっこく立ち回るゴブリン三体を相手に、これほど流麗に、そして圧倒的な力で立ち回れたことは、もはやただの偶然では片付けられない。
「……突き。払う。突き」
先ほどの自分の動きを反芻するように呟く。
思い描いた通りの軌道で、寸分の狂いもなく槍が動いた。
剣を握らせれば鈍重な素振りしかできず、バルド隊長からは「才能の欠片もないゴミ」と罵られ続けたこの手。
魔法の才能である魔力は完全にゼロ。
けれど、三年間、たった一人で振り続けたこの『竹槍』だけは。
「もしかして俺……」
レインは、相棒である安物の竹槍の柄を、愛おしそうにそっと撫でた。
「……槍、向いてるのか?」
追放された雑用兵が、己の内に秘められた『最強』の片鱗に、ほんのわずかだけ自覚を持った瞬間だった。
(いや、でも相手は最弱クラスのゴブリンだしな。騎士様たちなら、剣の風圧だけで倒せるって言ってたし。まだまだ油断はできないぞ)
すぐにいつもの謙虚すぎる思考に戻り、気を引き締めるレイン。
バルドが語っていた「剣の風圧で倒す」などという武勇伝が、単なるホラ話であることなど知る由もない。
「さて、暗くなる前に早く森を抜けよう。……ゴブリンの魔石も、一応回収しておくか。少しはお金になるかもしれないしな」
レインは手際よくゴブリンから魔石を剥ぎ取ると、再び歩き始めた。
彼が歩む先には、己の常識外れな強さで運命を切り開いていく未来が待っている。
そして、彼を追放したゼーレ砦の面々が、失って初めて「誰が自分たちを生かしていたのか」を思い知り、絶望のどん底に叩き落とされるのは――もう間もなくのことである。




